大学4回生、ゼミ・卒業
卒論に向けたゼミ活動
4回生では、ゼミの担当の先生が、変わりました。
H川先生が、国内留学で、東京の史料編纂所へ行ってしまったからです。
その代り、当時学長だった、T端先生が担当になりました。
女性の先生で、女性史の分野では、日本でトップの先生です。
NHKの歴史番組、「その時歴史が動いた」には、幾度も出演しておられました。
「歴史秘話ヒストリア」にも、時々出演しておられます。
3回生の最後のゼミのとき。
H川先生が、「来年の君たちの指導は、T端先生にお願いすることになります。学長がゼミを担当するなんて、ありえないことです。君たちは運がいい!」と。
そして、みんなが「きゃー!」と騒ぐと。
「僕が担当するより、みんなもT端先生の方がいいよね、有名やし。」と自虐(笑)
最後のゼミ生
そして、私たちは、T端先生の、最後のゼミ生となりました。
社会に出てから、他大学の歴史学科出身の子に、「T端先生のゼミだったの?なんて羨ましい!」と言われました。
そのくらい、有名な先生でした。
卒論に取り組む
4月、本格的に卒論の内容を決めていきました。
T端先生は、「北条政子にしてもいいのよ?」と、自分の一番得意な分野を進めてきましたが、誰もその分野には手を出しませんでした。
北条政子の研究に関しては日本一の先生の前で、北条政子の論文なんて、恐ろしく書けません…。
私は、雑賀衆に決めていたので、どんどん先行論文を読んでいきました。
そして、その中で扱われている史料を集めていきました。
京都・洛北の図書館へも行きました。
史料を片っ端から解読し、訳していきました。
そして、史料から読み取れるポイントをいくつかに整理し。
ある程度、頭の中で論文の方向性を決め。
先行論文で扱われていない、雑賀衆の結束の由来について、論文を書くことにしました。
テーマは、すべて自分で決めました。
イツミなどは、先生に何をしていいかわからないと相談に行き、キリシタン大名として有名だけど、あまり研究されていない「明石掃部」の研究を勧められ、それに決めました。
この明石さん、大河で取り上げた「黒田官兵衛」のいとこにあたる人でした。
その時はまだ、官兵衛のことは詳しく知りませんでした。
そのあとで、竹中半兵衛ファンになり、その関連で黒田官兵衛ファンにもなるんですけど(笑)
ゼミ旅行
夏休み。
私たちT端ゼミは、先生の提案で、ゼミ旅行に行くことになりました。
行先は、伊勢に決定。
みんなで、近鉄特急に乗っていきました。
初日に、手こね寿司と伊勢うどんのセットを、鳥羽まで食べに行き。
そこから、斎宮博物館へ。
その日は雨で、地面がぬかるんでいました。
次の日に、伊勢の内宮と外宮へ。
私たち4人のグループは、T端先生とともに、伊勢うどんを食べ。
先生が赤福が食べたいとおっしゃったので、赤福のお店に行きました。
先生が、ごちそうしてくださいました。
何と光栄な!!!!
全ての場所で、T端先生が直々にガイドをしてくださいました。
もう、この旅行は、生涯忘れません。
この時知りましたが、先生のお孫さんが、私たちと同じくらいの年齢だということでした。
進む卒業論文
夏休みが明け。
私はどんどん論文を書き進めていきました。
ゼミでは、毎回書き上げたところまで先生に見せ、報告します。
それ以外の人は、おしゃべりしたり、情報交換したりしていました。
学校では、アイやチセ、イツミ、ハツエと、同じ机で卒論を書き進めました。
日曜日にも、大学へ行って卒論を書きました。
教授・助教授の部屋の前にある、共同研究室に何時間も入り浸って、みんなでご飯を食べたりお菓子食べたり、時には騒いだりしながら、書き進めました。
すごく楽しかった。
卒論完成!
10月末。
私は、卒論を書き上げました。
先生に見せ、それまでに指摘されていた点もすべて改め、先生に完成の許可をもらいました。
先生が、「はい、じゃぁこれで完成ですね。」と言いました。
提出期限は、12月上旬です。
私は、ゼミで一番に卒論を書き上げました。
それを聞いていたゼミ生の一人が、他のゼミ生に「もう卒論完成させた奴がいる!」と言いふらしたようで。
学内中で噂になってしまいました…(苦笑)
しかも、学内で1番に書き上げたらしく。
他学科の子の耳にも入っていました。
友達の卒論の手伝い
そこから、私はしばらくぶらぶらしていましたが。
ハツエが、卒論を書き始めていないどころか、史料さえ集めていないということが発覚しました。
バイトと部活に追われていたようで。
ハツエのテーマは、「熊谷直実」でした。
もう、11月に入っていました。
さすがにまずいので、アイとチセが私に、手伝ってやって、と言ってきました。
彼女らはまだ、卒論と格闘していたからです。
そして、アイとチセはゼミが違います。
私は、連絡のつかないハツエと何とか連絡を取り、史料を集め始めました。
ハツエが史料として持っていたものを、持ってこさせ。
史料すべてが集まったのが、11月末。
そこから、私は史料の解読に取りかかり。
ハツエには、なぜそのテーマにしたのかという、「はじめに」の部分を書くように言いました。
私は、家に帰ってからも史料の解読を続け。
「はじめに」以外の、第一章・第二章・第三章、そして結論まで、すべて書きました。
提出まで一週間。
一気に、書いていきました。
私ができるところまでは、すべて書いていきました。
同じゼミのイツミも、卒論に行き詰っていて、体調も悪いらしく、T端先生とのアポがあるのに学校に来られないことが多く。
私が、学長とイツミの連絡係にもなっていました。
何度も学長室に報告に行っているうちに、「あなたたち、本当に仲がいいのね。」と先生に笑われるようになってしまいました…。
それまでにも、私とイツミは同じ苗字なこともあり、いろんな先生に「君たちは双子か?」と聞かれたり。
ゼミのメンバーに、「いつも一緒にいるけど、双子じゃないよね?」と聞かれたりすることがありました。
もう、苦笑するしかありません…。
徹夜で作業
そしてイツミが、提出期限3日前に、卒論を半分も書いていないが体調が悪い、と言い出しました。
私は、アイとチセに拉致されて、ノートパソコンをかついでイツミの家に行きました。
そして、イツミがまだ手を付けられていない史料の解読と、それから読み取れることを文章に起こしました。
アイとチセは、イツミの見張りをかねて、そこで自分の作業をしていました。
せまいテーブルの上で、4人がパソコンに向かって、必死で作業していました。
その日は、夜中の3時まで作業し。
次の日の朝、パソコンを担いで学校へ行き、今度はハツエの卒論を書き。
その夜再び、イツミの家へ向かい、そのまま徹夜で、イツミの卒論の目処をつけました。
そして、イツミの家を出たのが、朝の6時。
夜が明けていました。
そこから家に帰り、シャワーを浴びて、15分だけ寝て。
すぐ、パソコンを持って学校へ。
その日が、卒論提出日でした。
共同研究室で、イツミは私が書いた部分と、自分の文章を整合させ。
私は、ハツエに「はじめに」の部分を書かせながら、ハツエの卒論を完成させました。
チセも何とか書き上げていたので、編集部のように、私の文書の、文字の打ち間違いや、日本語のおかしいところをチェックしてもらいました。
「編集長!できました!」
「そこに置いといて!次見る!」
という会話が飛び交っていました(笑)
そして、イツミがすべて印刷し終え、製本し、滑り込みセーフで論文を提出。
ハツエは、印刷が間に合わず、とりあえずできた分だけを、提出場所まで走って行って持ちこみ。
受付時間ギリギリに、部屋に滑り込みました。
印刷できた部分を、順次持ってきてもらうようにして、私とハツエは、製本しながら、提出の手続きをししました。
あまりにも入れ代わり立ち代わり、文章が追加で届くので、大学の職員が「一体誰の論文なん…」と苦笑。
それでも、卒業できるかどうかがかかっているのですから、必死です。
気にせず、無理やり居座り、何とか全文をそろえ、提出。
共同研究室に戻り、提出が無事すんだ事を伝えると、みんなほっとしました。
ハツエはいつもの如く、情けない顔をしていました。(笑)
卒論を2本半書いた
というわけで、私は自分の分も含め、論文を2本半書くことになってしまいました…(苦笑)
しかし、ハツエの論文を、よく1週間で書き上げたものだと、自分でもびっくりしました。
論文の決まりは、原稿用紙50枚分、2万字でしたから。
口頭試問
この後、論文に関して、ゼミ担当の先生と、他のゼミの先生と、論文を書いた本人とで、口頭試問があります。
私は、先生に「決まりの2万字を超えているけど、まあいいか。内容はすごく面白かったわ。」と言われました。
T端先生にそういっていただけて、私は満足でした。
半分は自分で書いたイツミはともかく。
ほとんどを、ゴーストライターである私が書いたハツエは。
口頭試問前に全文に目を通しておけ、と言ったにもかかわらず、目を通さなかったようで。
先生に聞かれても何も答えられず。
先生に、「もういいわ、自分で読む。」と言われて解放されたそうです。
卒業
あわただしい卒論提出でしたが、無事、全員単位が取れました。
そして、卒業式を迎えました。
卒業式は、学長が卒業証書を、一人一人に渡してくれます。
私たちT端ゼミのゼミ生は、T端先生直々に証書を頂けると、喜んでいました。
しかし、先生は大雪の日に転んで腕を骨折。
直接証書を頂くことができませんでした。
それだけが、心残りです。