kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

命の価値は自分で決める

悲しい事件

障害者に関連する、悲しい事件が後を絶ちません。

見聞きするたび、私の中には、いろんな感情が渦巻きます。

怒り、悲しみ、くやしさ、やりきれなさ。

言葉にならない感情が、ぐるぐると渦巻いています。

 

私の答え

「障害者はピュア」という、ずれた固定観念に、違和感を抱きながら。

障害者への様々な偏見を目にしながら。

いろんなことを、考えました。

 

それとともに、一障害者である私も、「生きていていいのだろうか?」と思ってしまいました。

しばらく、そのことを考えていました。

そして、私は答えを出しました。

 

私は、誰が何と言おうと、生きます!

私が生きることを、誰も邪魔することなんてできません。

私が生きる価値は、私が決めます。

ほかの誰に決められることでもありません。

私の命の価値は、私自身が決めます。

 

そうやって意思を表明し、生きることが、私が社会に対してできる、たった一つのこと。

私は、卑屈にならず、この社会で堂々と生きて見せます。

 

他人が決めることではない

人間の価値、生まれてきた意味なんて、死ぬときにならないとわからないものだと思うんです。

それも、本人が「あぁ、このために生まれてきたのか」とわかるもの。

他人に、その人の生まれてきた意味や、価値なんて、わかるものではありません。

だって、人間は、ほかの人の人生を経験することができないんですから…。

 

私の人生は、私にしか経験できません。

だから、私の人生の意味、命の価値は、私にしかわからないものなんです。

私の人生を経験できない他人が、私の人生の意味や命の価値を決定することは、できないのです。

 

誰もが、自分自身で自分の人生の意味や命の価値を決める権利を持っています。

それが生きる権利、つまり人権なんじゃないかと思います。

 

意思表示ができない人だって、周りから見たらそう見えるだけで、本人の中には意思があるかもしれません。

それに思い至らないのは、それこそ想像力の欠如というものではないのでしょうか。

 

命。

それは、そこに存在するだけで、価値のあるもの。

誰にも、奪う権利なんてありません。

 

「生きていても仕方がない」と本人が言ったのならまだしも。

他人が、そんなことを決める権利はありません。

 

生きる意味を知るために、生きている

だから、私は、精一杯生きて、私の生きている意味を、見出します。

健常者がなんだ!

障害者だからって、なんだ!

どっちも、一人の人間だ!

どっちも、一つの命だ!

 

私の命は、私のものです。

それとともに、私を大切にしてくれる人たちのものです。

決して、第三者に奪われるようなものではありません。

 

それが、私の考えです。