kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

のんびり生きようと思えるようになった

焦り

最近、大丈夫か?というくらい、焦りがなくなってきています。

焦りは病気の症状でもあるので、焦りがないというのはいいことではあるのですが。

あんまりのんびりしてて大丈夫かなとおもうことも(;^_^A


仕事を辞めてすぐの頃。

早く次の仕事に就かなきゃ!と、焦っていました。

なぜ焦っていたのか。

無意識に、「仕事をしている」ということが、「社会とつながっている」ということだと、思い込んでいたからだと思うのです。

社会とつながっていない人間はダメだ、という思い込みも、ありました。

だから、仕事をしていない人間はダメだ、と思っていました。

 

生きているだけで社会とつながっている

でも、違うんですよね。

仕事をしていようがしていまいが、どこで何をしていようと、生きていさえすれば、それだけで社会とつながっているんですよね。

逆に、社会とつながらずに生きることは、絶対にできない。

生きようと思えば、食べ物も食べるし、水分も摂る。


食べ物は、農家さんが作ってくれているし、水だって、浄水場で働いている人がいるから、飲めるのです。

間接的にではあっても、生きているだけで、社会とかかわっているのです。

 

仕事って、何だろう?

仕事ができないことは、悪いことか?

そうではないと思うのです。

仕事の定義ってなんでしょう?

働いて賃金を得ること?


仕事って、一体いつできた言葉なのでしょう?

昔々、皆が自給自足をしていた時代。

生きるために働いていた。

それは、「仕事」と呼ばれていたのでしょうか。


どんなに苦しくても、一日一日を必死に生きる。

「生きる」ということ。

それは、大きなくくりでいう「仕事」になると思うのです。


賃金を得て、親孝行がしたい。

そんなことも、よく耳にします。

しかし、賃金を得るために体や精神を壊すことが、親孝行と言えるのでしょうか?

それなら、働けなくてもいいから、死にたくても、何とか我慢して生きていること、それだけで充分親孝行と言えるのではないでしょうか?


犯罪を犯さずに生きる。

それだけで充分、社会の役に立っているのです。

それだけでは満足できない、という人もいるでしょう。

でも私は、働けない分、まっとうに生きることで、社会に貢献しようと思うのです。

 

自分に合った方法で働く

もう働かない、と言っているわけではありません。

ただ、自分に合った働き方ができるチャンスが来るまで、焦らずにいようと思うのです。

外で働くのではなく、自分の体調を崩さない方法で、働こうと思うのです。

 

私は外で働くことに向いていないから、出勤しないで済む方法で働く。

外で働く方がいい人は、外で働く。

自分に合った働き方で、それぞれが働けばいいと思うのです。


働くなら、体調を整えて、長く続けられるようにすること。

それが、社会・会社に迷惑をかけない、ということ。

体調が整わないなら、無理に働くことはない。

 

決して裕福ではない

 

我が家は、決して裕福ではありません。

両親は少ない年金で暮らしています。

住宅ローンも、まだまだ沢山残っています。

 

つい最近、私の障害年金が2級に上がりましたが、それでも生活はぎりぎりです。

医療費がバカにならないのです…。

金銭的には、ランクは下の上くらいになるのでしょうか。

働けるなら、私も働いて、家にお金を入れるべきです。

しかし、働いて、精神的に不安定になって、家でパニックを起こしたり泣き叫んだりするくらいなら、のんびりと過ごして、安定した状態で家族と接する方が、よほど親孝行だと思っています。

働いているころは、酷い状態でしたから…。

 

働くよりも大事なこと

毎日、働かない分、いろいろと考えています。

生きるってなんだろう?

社会の役に立つって、どういうことだろう?

 

生きていくうえで、こんなことを考える時間があることは、本当に幸せなことだと思うのです。

こういうことを考えられることこそが、「人間らしい生き方」ではないか、と思っています。

だから、焦る必要はない、むしろ、焦ったらもったいない、と思います。

関西の文化と発達障害

関西の方が生きやすい?

以前、関西圏以外の地方の方とやり取りをして思ったことがあります。

発達障害の人にとって、関西は割と生きやすい方なのかなぁ、ということです。

 

関西には、ボケとツッコミの文化があります。

それはもう、全国に知られているほど有名な事実。

それって、空気が読めなくて、爆弾発言を平気でしてしまう人間にとっては、実は生きやすいのではないかと、思ったのです。

 

漫才してるの?

たとえば。

大学時代、私と同じような変わり者の子と話している時。

周りにいる人に、「また漫才してる!」と、よく言われたものです。

私たちは、いたって真面目に話をしているだけなのに。

 

相手の子はボケたことを言う子で。

私は強烈なツッコミタイプで。

完全に、漫才を繰り広げている状態になっていたようです(笑)

 

他にも、私はオブラートに包んだ発言というものが苦手で。

直接的な表現を多用するのですが。

その表現に、元職場の先輩がごはんを吹いたことがあります(;^ω^)

 

面白いもの勝ちな部分

程度というものがあるので、すべてが漫才で済まされるわけではありませんが。

トンチンカンなことを言っても、それに対して突っ込んでくれる人がいたり。

私のように、体当たりぐらいキツいツッコミをしても、ネタとしてとらえてくれたり。

多少の空気の読めなさ、会話の噛み合わなさは、「笑い」となって処理される場合がある。

 

むしろ、キツいツッコミが周囲にウケて、「もっとやれ!」と言われたり。

変なことを言っても、「なによそれ~(笑)」で終わったり。

おかしな言動も、笑ってもらえたら、こっちのもの。

変わってるけど面白いやつ、と思ってもらえたらしめたもの。

 

少しだけ、楽?

そういう意味で、「笑い」に関する感覚が違う、関西以外の地域では、発達障害を抱える人は、関西に比べて生きにくいのではないか、と思うのです。

何というか、関西の笑いって、ボケた行動自体がネタになっていますから。

日常生活の何気ないボケが、笑いの対象となっている。

ある程度のボケは、周りを楽しくさせるものでもあるのです。

 

また、ボケた人間に鋭く突っ込むことは、一つの技術ととらえられる部分もあり。

キツいツッコミは、キレのある発言となることもあるのです。

なので、多少失礼なことを言っても、ネタで済まされる素地があるというかなんというか…。

 

勿論、これ以上言ってはいけない、というルールのようなものはあるので、「程度」は問題にはなりますが。

少なくとも、関西圏以外よりは、関西の方が、直接的な発言をしてしまう発達障害の人間にとっては、会話のハードルは低いのでは…と思うのです。

 

みなさんは、いかがお考えでしょうか?

自分に話しかける

大きな独り言

私、何か大事なことがあると、自分に自分で話しかけるんです。

要するに、大きな声で独り言を言うのです。

それも、誰かに話しかけるような言い回しを使うので、回りから見れば、「誰に言ってるの?」という状態になる。

決して、見えない誰かに話しかけているわけではないのですが。

 

たとえば。

翌朝、いつもと違う時間に起きなければならないとき。

寝る前に、スマホでアラームをセットし。

「明日は○時に起きなあかんで」と、自分で自分に話しかけます。

自分で自分に言い聞かせる、といった感じで。

 

それを、隣にいる人に言うように大きな声で言うので、隣にいる人は「起きなあかんでって、誰に言ってるん??」と、びっくりしたように聞いてきます(笑)

単なる独り言なんですけど、声が大きすぎて独り言とはとらえられないようで…。

 

耳からのフィードバック

どうしてそんな大きな声で独り言を言うのか。

おそらく、自分の頭の中で考えたことを、一度言葉として口から出して、耳で聞き、脳内にフィードバックしているのではないか、と思うのです。

そうしないと、考えたことが空中に拡散し、何を考えていたのか分からなくなるような気がするのです。

だから、考えた結論だけ、言葉として、独り言として、発することが多いです。

 

自閉系の人間が、独り言をぶつぶつつぶやくというのは、頭の中で考えていることをきちんと把握するための行動ではないか、と思うのです。

そして、自分の考えを、認識しなおしているのではないか、と。

 

目からのフィードバック

言葉として発しても、ややこしいことを考えているときは、その言葉も空中に拡散してしまいます。

そんな時は、文字として考えを書き起こします。

私の場合、目から入る情報は瞬時に処理されますから、これは非常に有効です。

矛盾なども、一目でわかります。

 

認知の仕組みの違いに関連する?

回りから見れば、単なる独り言にしか見えないかもしれません。

一見すると、一人でしゃべっている変な人に見えるかもしれません。

でも、このプロセスがないと、考えがまとまらないのです。

一生懸命に考えているからこそ、独り言が出てしまうことだって、あるのです。

まぁ、中には本当に意味のない独り言もありますが…。

 

独り言を言っている理由の一つに、多数派との認知の仕方の違い、というものがあるかもしれない。

そんな風に考えています。

人の前を、ふらふらと歩く

一番前じゃないと嫌

なぜかわからないんですけど、私、目の前を人が歩いてるとすごくイライラするんです。

特に、細い通路なんかで、人が前にいるとすごくイライラする。

自分の歩きたい速度で歩くことができなくなるからかもしれません。


自転車で道を走っていても、自分より前を自転車で走っている人を、追い抜きたくなります。

追い抜けないと、すごくイライラします。

 

指摘されて気づいた

大学生の頃、友達に言われたことがあります。

「人より前を歩きたがるんだったら、ふらふらせずにまっすぐ歩け!」と。

その時はじめて、人より前を歩きたいということに、気付きました(笑)


その時は、2階にある学食から1階のフロアにつながる階段を下りていました。

私はいつも通り、友達数人の前を歩いていました。

意識せずに歩いていたのですが、友達からすると、いつも前を歩く、或いは追い越してでも前を歩くように見えていたみたいです。

言われてみれば確かに、私は人の後ろを歩くことがあまりありませんでした。


そして、自分がふらふら歩いていることを、はじめて知りました。

親から、歩き方がおかしいと言われたことはありましたが、はっきり「ふらふらするな」と言われたのははじめてでした。


その時は、「ふらふらしてないよ!」と答えたのですが。

発達障害が発覚してから、友達の言っていたことが理解できました。

発達障害のある人は、独特の歩き方をすることがあるそうです。

「ふらふらと歩く」「歩く姿勢が悪い」「歩き方がおかしい」。

そういう風に、書かれていました。


まさに、私が親や友達に言われたことそのままでした。

自分ではまっすぐ歩いているつもりなのに、回りから見ると、ふらふら歩いているようです。

姿勢が悪いというのは、何となく分かってはいますが、ふらふらしてるというのは分かりません…。

 

協調運動の問題? 

人より前を歩きたい。

目の前に人がいると、どうしてもその人が目に入ってしまうから、嫌なのかもしれません。

しかも、じっと立っているだけならまだしも、その人も動いているのです。

自分と、相手の距離を、常に計測していなければなりません。

それが負担になるから、無意識に避けようとしているのかもしれません。


ふらふら歩くのは、四肢の協調運動が上手くいっていないのかもしれません。

そのせいか、逆にドラムセットのような、四肢がバラバラに動く必要のあることは、普通にこなせます。

ピアノだって、左右の手で別々のメロディーを弾くことができます。


最近では、人が前を歩いていてもイライラしないように気を付けているんですが、どんなに落ち着こうと思っても、やっぱりイライラするんですよね。

どうしてなんでしょう?

もしかして、狩猟本能で、前にいる獲物にとびかかりたいのかなぁ、なんて思ったり。

そんなこと、絶対に実行に移したりはしませんけどね。

車の運転

車の運転に向いていない

現代は、車社会です。

都会では、車がなくても生きていけますが。

田舎では、車がなければ移動もままなりません。

車に乗れないと、非常に不便です。

しかし、いくつもの対象に対して注意を払うことが苦手な私には、車の運転は向いていないようです。

 

【※てんかんやその他の診断を受けてからは、運転はしていません。以下は、診断を受ける前の話です】

 

できることとできないことの差が激しい

大学3回生(3年生のことです。関西では○回生といいます)の時、就職活動のことも考えて、自動車免許を取得しました。

自動車教習所で、AT限定の免許を取得。

教習所では、仮免の学科試験は100点満点で一発合格。

なのに、実技は一度失格になってしまいました。

 

生垣の向こうに止まっていた、黄緑色の教習車に気付かなかったのです。

教習車は、青・赤・緑・黄色・黄緑・オレンジの6色ありました。

オレンジは、高速教習車です。

その黄緑色の教習車が、生垣の緑とまぎれてしまって、気付かずに進んでしまい、教官にブレーキを踏まれ失格。

S字・クランクの、クランクは一回目から神業並みの技術で通り抜け(教官は絶対乗り上げる、と言ったけど、ぎりぎりで通過でき、「神業だ!」と騒がれた・笑)。

しかし、S字はどうしても一発で通り抜けられず、結局さいごまで、成功しませんでした。

 

二度目の試験を受け、その時は何とか一度の切り返しでS字を脱出。

路上教習に進むことができました。

危険を察知する能力が鈍いのか、注意がそれていることが多かったのか。

教官に、「頼むからブレーキ踏んで」と何度も言われました…。

 

路上教習では、特に問題もなく、すべて一度で終わりました。

道は、一度通れば覚えてしまうし。

割とスピード狂なところがあり、普通に周りの車と同じスピードで走り。

うっかりすると、車間距離を詰め過ぎて、前の車を煽る始末(笑)

 

同じ教官に当たった友達は、「頼むからもうちょっとスピード出して」って言われたらしい。

真逆だなぁ(笑)

 

交通センターで受けた免許の試験は、無事一発合格。

晴れて、免許ホルダーとなりました。

 

車の大きさがわからない

そのあと、家の車で練習もしました。

当時はエルグランドに乗っていたので、操作が難しかった。

教習所では、ブルーバード・シルフィに乗っていたので、全然感覚が違い、もう、どうしていいやらわからない状態に(苦笑)

ワンボックスは、私には大きすぎて、横幅や前後の間隔が分からず、車庫入れができないのです…。

 

ハンドルとタイヤの角度がわからない

あと、困ったことに、何回ハンドルを回したか、タイヤが今どの位置・どの角度にあるのかが、分からないのです。

だから、バックをしようにも、ハンドルをどちらへ回せばいいのか、分からないのです。

 

不注意

 

更に、ちょっと調子が悪いと、注意力がなくなってしまい、身体が思うように動かなくなります。

そのため、向こうから車が来ていると、頭で理解はしていても、アクセルから足が離れない、なんていうことに陥ります。

実際にそういうことがありました。

相手の車がスピードを落としてくれたので事故には遭いませんでしたが…。

 

運転はあきらめた

そのあと、発達障害の診断を受け、更にてんかんの診断も出たので、全く車には乗っていません。

今後も、乗ることはないと思います。

てんかんの症状がなくなったとしても、不注意があるので、車には乗らない方が良いと思うのです。

でないと、車が殺人の道具と化してしまいます。

 

とっさに身体が上手く動かないようでは、飛び出してきた人間を避けることができません。

回りが皆、上手に運転していても、いつ何が起こるかわかりません。

そんな時に、とっさの対応ができないのであれば、乗るべきではない、と思うのです。

 

だから、私は常に自転車移動です。

愛車は、真っ赤な消防車みたいな自転車です。

今は障害者手帳といっしょに、福祉バスカードをもらっていますから、時々バスにも乗ります。

でも、田舎ですから、バスでどこへでも行けるわけではありません。

とても不便です。

 

本当は、車に乗れたら楽なのですが。

人の命を奪ってしまいかねないので、我慢です。

理由があって運転ができない人に、もう少し優しい交通環境になれば、と思います。

EQ(心の知能指数)テスト

心の知能テスト

EQとは、心の知能指数ともよばれるもので。

いわば、対人関係能力を測る、IQテストのようなものです。

ネット検索をすれば、すぐにヒットします。

 

私は、このEQテスト(正式なもの)を、大学の講習の一環として受けたことがあります。

生協主催のものでしたが、全員が受講することになっていました。

勿論、大学の講習ですから、無料です。

 

大学の方針が、「自立した女性を育てる」(私が入学した当初はまだ女子大でした)でしたから、社会に出る前に、対人関係などの教育をしておこう、という趣旨だったのだと思います。

 

この講習以外にも、自己肯定感を育てることや、自分の長所短所を理解する、というような授業もありました。

自分にとって、幸せってなんなのか、とか。

これから生きていくうえで、直面するであろう疑問について考える授業でした。

そういった授業は、今思い出して、すごく役に立っています。

有名ではないけれど、私に合ったいい大学に通えたことに、感謝しています。



EQテストの結果

当然、私もEQテストを受けました。

結果はどうだったのかというと、平均よりも低い数値が出てしまいました。

友人数名と比べても、私が一番低かった…。

 

この時に、やっぱり私は、お勉強はできても、対人能力は低いんだな、と思い知らされました。

EQテストを受けるときに、何のテストなのか、ということを聞いた時点で、「これは得点低いだろうな」と予測はしていましたが。

やっぱり、ショックはショックでした。

 

ただ、それまでの人間関係歴を考えると、当然といえば当然でした。

小学校時代。

中学時代。

高校時代。

いろいろ思い当たることもありましたし…。

 

なんとなくはわかっていた

それから数年。

自閉症スペクトラム障害の診断を受けて、EQテストの点数が低かったことに、納得。

やっぱりそうかー!と、スッキリしました(笑)

 

数年間仕事をして、ある程度訓練された今なら、EQの値はまた変わっているかもしれません。

平均くらいにはなっているかな?

 

EQテストのおかげで、私は漠然とではありましたが、自分の対人能力が低いということを、理解していました。

だから、発達障害の診断を受けた時も、割と葛藤少なく、受け入れられたのかもしれません。

「EQ低いもんな~」くらいの感覚で。

 

エゴグラム

他にも、就活対策で、エゴグラムなんかも大学でやっていましたし、診断時に特性についていろいろ言われましたが、「あ~、なんかそんな結果出てたな~」という感じでした。

エゴグラムって、精神科でもテストしたりするんですよね、確か。

 

特性を知る機会があってよかった

そんなこんなで、大学時代に何となく自分の特性を知ることができていたことに、今更ですが、感謝しています。

もしそれがなかったら、6年間も働けていなかったかもしれない。

自分の得意不得意を、何となくではあっても、知っていたからこそ、対処できていたのかもしれない。

そう考えると、大学に行ってよかったな、と思うのです。

 

特に、変わり者が多い大学だったから、よかったのかな~、なんて思っています(笑)

発達障害と原始反射

原始反射

原始反射というのは、生まれたての赤ちゃんが、生きていくために備え持った力のことで、意図せずする行動のことです。


たとえば、赤ちゃんのほっぺをつつくと、そちら側へ顔を向け、口をむにゅむにゅ動かします。

これは、お母さんのおっぱいをさがして、飲むための反射です。

これがないと、赤ちゃんは生きていけません。


他にも、把握反射と言って、手のひらに触れるとギュッと手を握る反射があります。

これは、人間がサルだった時の名残。

お母さんにしっかりつかまって、振り落とされないための反射です。

抱っこされてる赤ちゃんが、お母さんの服を握りしめているのを、よく見かけますね。


この原始反射は、ある程度の時期を過ぎると、消えてなくなってしまうものです。

ところが、原始反射が上手く消えずに、残ってしまう場合もあるようなのです。

発達障害を抱える人には、割と残っている確率が高いという説もあります。

 

生活における困難と原始反射

たとえば、把握反射が残っていると、鉛筆などをギュッと握りこんでしまい、うまく文字が書けなかったりします。

 

何という反射だったか忘れましたが、腰のあたりの、ある原始反射が残っていると、椅子にうまく座っていられなくて、そわそわしてしまうそうです。

これは、生まれるときに、産道を通り抜けるための反射だそうです。

それが、いつまでも残っていると、生活をするうえで障害となってしまうこともあるそうです。


私は、鉛筆やペンを強く握りこんでしまう癖があります。

力を抜こうとしても、どうしても手に力が入り、抜けないのです。

一度など、強く握りすぎて、シャーペンの本体を折ってしまったことがあります。

筆圧も高く、万年筆の先を折ってしまったこともあります。

力の加減が、できないのです。


「原始反射」というものを知り、発達障害者にはそれが残存している可能性が高いと知った時、私にもそれが残っているのかもしれない、と思いました。

原始反射が残っているかどうか、試す方法を見つけて、それをやってみました。

とても簡単な方法なので、試しました。

私は専門家ではありませんので、確実ではありませんが。

私にも、原始反射が残っているかもしれないことが、分かりました。

 

共感覚があったり。

原始反射が残っていたり。

私の脳は、余分な神経回路の刈込が、適切な時期にうまく行われなかったようです。

自閉症スペクトラムも、神経回路の刈込に問題がある、という指摘もあります。


赤ちゃんが生き残るために持って生まれてくる原始反射。

それが、成長した後にも残っていると、障害となる。

生きるための能力が、生きていくうえで邪魔になる。

困ったものですね(^▽^;)