kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

人を好きでいられる幸せ(発達障害と人間関係)

人間嫌いではない

私は、自閉症スペクトラム障害を抱えていて、人間関係が苦手です。

でも、人とのかかわりが嫌いなわけではありません。

 

自閉症スペクトラム障害の人の中には、人と関わること自体を避けてしまう人もいます。

それは、障害の重さの違いもあるでしょうし、今までの経験によるものもあるのではないか、と思います。

 

障害が重いことによって、人とうまくかかわれないために、人間嫌いになってしまうのは、仕方がないことかもしれません。

こればっかりは、どんなに努力しても、どうしても改善できないということもあるでしょう。

 

今までの経験によって、「人は信用ならないものだ」と学習してしまった場合。

それは、ちょっと悲しいことだな、と思いました。

 

 以前は人間が嫌いだった

私も、高校を卒業するまでは、人を信用することはできませんでした。

訳の分からない世界。

訳の分からない行動をする人たち。

何を考えているのか、さっぱりわからない人間の集団。

それらが、怖くてたまりませんでした。

 

しかし、大学生になって、同じようなタイプの人間と友達になって。

そのままの私を、受け入れてくれて。

そのあたりから、「人間って、敵ばかりじゃない」ということに気づき始めました。

 

社会人になって、再び社会は敵だ、人間は敵だと思った時期もありますが。

その後に出会った人たちのおかげで、今は、人と関わることに抵抗を感じることはほとんどなくなりました。

 

「好意」を理解した

私が人が怖くなくなった理由。

それは、私が好意を持っている相手に対して、言葉では伝えられなくても、「好きです」と態度やプレゼントなどで伝えることで、相手も私に対して好意を持ってくれる、ということがわかったからです。

 

最近、ようやく相手の「好意」というものが、理解できるようになって。

私の周りには、私に対して好意的に接してくれる人がたくさんいることを、知りました。

今までの私は、人の好意を、理解できていませんでした。

むしろ、悪いほうに受け取っていることも多かったです。

 

人を信用できていないときから、私のことを知っている人たちがいます。

その人たちは、私に対して、ずっと好意的に接してくれていました。

私が、その人を一時的に信用しきれていないときも、「信用してないんやろー」と、笑い飛ばしてくれました。

しかし、私はその好意に、気づいていませんでした。

20年弱かかって、ようやくその人たちの好意に、気づいたのです(;^ω^)

 

私は、その人たちの好意に気づいてからも、しばらくは「本当に好意なのか?」と悩みました。

いろいろ考えているうちに、いくつもの確証を得ました。

そして、私もその人たちに、プレゼントと手紙という形で、「うれしいです。ありがとう」を伝えました。

 

 好意は双方向

そして、気づきました。

私が好意を示すことで、相手も好意を示してくれることを。

私が気づかなかっただけで、今までたくさんの好意を受けていたことを。

そして、それに対して「ありがとう」「私も好きです」と伝えることで、より一層信頼関係が築かれることを。

 

私は、30年生きて、ようやく「好意」というものを理解し。

「好意を返す」ということを理解しました。

 

今まで、私はたくさんの好意の中で育ちました。

親からの愛情も、たくさんある中で育ちました。

だからこそ、今、人とのかかわりを嫌うことなく、生きていられるのだと思います。

 

今更ですが、私に好意をもってかかわってくれた人、今現在かかわってくれている人に、感謝しかありません。

今まで、好意に気づかなかった人たち、ごめんなさい。

 

これからは、好意に対しては、言葉で返すことはできなくても、笑顔を返すとか、態度で「うれしいです。ありがとう」を伝えていきたいと思います。

レクサプロの増量と聴覚過敏対策

今日は、メンタルクリニックの定期通院日でした。

込み具合はほどほどで、待ち時間は1時間半くらいでした。

 

1か月ほど前から、少し不調で。

2週間ほど前からなんかおかしいなと思っていて。

この1週間は、とくに調子が悪くて。

明らかにうつの症状が悪化していました。

試しに、レクサプロを1/3錠から1/2錠に増やして飲んでみたところ、うつの症状はだいぶん楽になりました。

 

それでも、やっぱり憂鬱になったり、逆に変にテンションが上がりそうになったり。

エビリファイも足しながら、2日ほど薬の増量実験をした結果を報告。

そして、薬の調整をしてもらいました。

 

結果としては、抗うつ剤のレクサプロを1/3錠から1/2錠に増量し、 エビリファイをうまく使って様子見することになりました。

 

レクサプロを同じ量で5年のみ続けていて、薬に慣れてきてしまっているように感じることを伝え。

他の薬を使うことも考えてもらっいましたが、ミリ数的に扱いにくい(まるまる一錠は多すぎて飲めない)ので、レクサプロを増やしてみることになりました。

ただ、レクサプロが増えると、けいれんが増える(てんかんの人は、レクサプロを使うときは注意が必要)ので困るのですが、下手に薬を変えるよりは慣れた薬を増量することで効くならば…という判断です。

 

神経内科で、てんかんの治療の為にリボトリールを増やして行く方向だし、どうにも調整が難しいです。

リボトリールも、うつにも使える薬です)

 メンクリ神経内科もやっていれば、同じ先生に診てもらえるから、薬の調整もうまく行くんですけど…。

 

主治医曰く、如月のうつ状態は薬でなんとかできるもんじゃないらしいです。

根本にあるのが発達障害ですし。

でも、その状態で放っておかれても困るんですよねぇ(´・ω・`)

混乱状態に陥ることもあるし、放っておいていいもんではないと思う。

頼れる部分は薬に頼って、少しでも楽にならないと。

 

診察後、薬局で薬をもらったのですが。

薬局でまたもや調剤ミス発生…。

エビリファイ内用液1ミリの処方だったのですが。

リスパダール内用液と間違えられ(これは薬剤師が気づいた)。

次にエビリファイ液6ミリと間違えられ(これは如月が気づいた)。

色が違うことを指摘して、ようやくエビリファイ1ミリが手元に。

この薬局は、ちょくちょくミスするから、 怖いです。

でも、近くにほかの薬局がないし、よくよく自分でも注意しながら、薬を受け取っています。

 

 

話は変わりますが、聴覚過敏対策に、いいものを教えてもらったので、予約しました。

耳栓なんですが、デジタルではなく騒音をカットできるそうです。

詳しくはこちら↓

www.rakunew.com

 

発売が3月の予定らしいので、届いたらまた使い心地をレポしたいと思います。

自己肯定感について

自己肯定感が高い人・低い人

自己肯定感について、時々考えることがあります。 

同じ発達障害の人でも、自己肯定感が比較的高い人と、低い人とが存在します。

その違いは何なのかなって、不思議に思っているんです。

 

私は、どちらかというと、比較的自己肯定感が高い方だと思います。

大きくなる中で、たくさん自信を失うこともありました。

でも、「自分はだめだ」と思うことって、あまりないんです…。

 

もちろん、いつもいつも「私はできる!」と思っているわけではありません。

失敗したとき、トラブったとき、「やっぱりダメだ」と思うことも、当然あります。

でも、だからといって、そのままいじけてしまうことって、あまりないかな…と(;^ω^)

 

褒めてくれる・認めてくれる人がいた

小さいころから、人とは何かが違うと思っていて。

できないことも、たくさんあって。

悔しい思い、悲しい思いもしてきました。

理不尽に怒られたことも、数え切れません。

 

それでも。

私ができることをほめてくれる人がいた。

赤ちゃんのころに障害児かもしれないといわれた私を、愛してくれる両親がいた。

私を見守ってくれる人がいた。

 

少し大きくなって。

中学・高校時代は、自己肯定感が最低だったけれど。

大学生になって、似たような人と友達になって。

私の存在を認めてくれて。

今でも仲良くしてくれて。

 

私のそのままを認めてくれて。

いつも気にかけてくれる人がいて。

私の「できること」と「できないこと」を、きちんと把握して、わがままではないことを理解してくれる人がいて。

 

そんな環境があったからこそ、私は自己肯定感を極端に下げることなく、生活できているんじゃないかな…と思うんです。

 

心から信頼できる人がいるかどうか

いろいろ考えていて、結局、自己肯定感の高い低いを左右するのは、「この人は私を裏切らない。この人は私のことを理解してくれている」と、心から信頼できる人が、誰か一人でもいるかどうかではないのか、と思い至りました。

 

信頼できる相手は、家族でなくてもかまわない。

友達でも、上司でも、お医者さんでも、どんな立場の人でもいいのです。

 

これは、あくまで私の勝手な考えであり、そうではないという人もいると思います。

 

「自分を肯定する」ということは、結局は「自分を信頼する」ことであり、「自分の周りの世界を信頼する」ことでもあるのではないか、と考えています。

自分を信頼し、一人でも信頼できる人がいること。

それが、悲観的な思考を止めてくれるストッパーにもなるのではないかと。

 

誰が何と言おうと、自分が信頼する人が、自分のことを理解し認めてくれる。

それだけで、自分が存在する価値があるように思うのです。

自分が存在していてよいという、証にも思えるのです。

 

自己肯定感。

それを育てるのに、何が必要かは、人によって違うでしょう。

私にとっては、自己肯定感を支えるのは、「信頼できる人」でした。

信頼できる人、何かあったら必ず支えてくれる人の存在と言うのは、本当に大切なものだと感じています。

ボロボロよれよれの服(触覚過敏)

好んでよれよれを着ている

親にも「そろそろ、服新しいのに変えたら?」と言われるくらい、ボロボロの服を着ている如月です。

とはいっても、外出するときはきちんときれいな服に着替えております。

あくまで、家の中で過ごすときだけ、お気に入りすぎてボロボロになった服を着ているだけです。

 

服を買うお金がないというわけではありません。

確かに、あまり余裕がないので、次々と服を買うことはできません。

しかし、家で着るようなどうでもいい安い服くらいなら、買うことは可能です。

 

くたくたの感触がいい

今着ている服は、かなりしっかりした生地の、Tシャツです。

しかし、襟元やわきの下など、よく擦れる部分に穴が開いてしまっています。

それでも、捨てられないんです。

 

なぜかというと。

この、くたびれてくたくたになった布の肌触りが、最高に気持ちがいいからです。

新しい服は、モノによってはチクチクします。

布が固くて、皮膚とこすれて痛いんです。

だから、洗濯しまくって、くたびはてた洋服が、一番リラックスできる。

ただ、それだけです。

 

どんなにボロボロの服を着ていても、着ている自分からは服は見えないので、全然恥ずかしくありません。

見ている人の方が、恥ずかしいのでしょう。

私は、見た目よりも着心地を重視しているのです。

 

しかし、さすがにあちこち穴だらけでは、そろそろ別の服に変えなきゃなぁ…と思います。

新しい服が、洗濯を繰り返してちょうどよいくたびれ具合になるまで、またしばらく我慢しなければなりません。

 

いい感じにくたくたになった生地の、新品の服を売ってほしいなぁ…。

触覚過敏の人にやさしい服。

きっと、触覚過敏がない人にも着心地のいい服になると思うんだ…。

 

命の価値は自分で決める

悲しい事件

障害者に関連する、悲しい事件が後を絶ちません。

見聞きするたび、私の中には、いろんな感情が渦巻きます。

怒り、悲しみ、くやしさ、やりきれなさ。

言葉にならない感情が、ぐるぐると渦巻いています。

 

私の答え

「障害者はピュア」という、ずれた固定観念に、違和感を抱きながら。

障害者への様々な偏見を目にしながら。

いろんなことを、考えました。

 

それとともに、一障害者である私も、「生きていていいのだろうか?」と思ってしまいました。

しばらく、そのことを考えていました。

そして、私は答えを出しました。

 

私は、誰が何と言おうと、生きます!

私が生きることを、誰も邪魔することなんてできません。

私が生きる価値は、私が決めます。

ほかの誰に決められることでもありません。

私の命の価値は、私自身が決めます。

 

そうやって意思を表明し、生きることが、私が社会に対してできる、たった一つのこと。

私は、卑屈にならず、この社会で堂々と生きて見せます。

 

他人が決めることではない

人間の価値、生まれてきた意味なんて、死ぬときにならないとわからないものだと思うんです。

それも、本人が「あぁ、このために生まれてきたのか」とわかるもの。

他人に、その人の生まれてきた意味や、価値なんて、わかるものではありません。

だって、人間は、ほかの人の人生を経験することができないんですから…。

 

私の人生は、私にしか経験できません。

だから、私の人生の意味、命の価値は、私にしかわからないものなんです。

私の人生を経験できない他人が、私の人生の意味や命の価値を決定することは、できないのです。

 

誰もが、自分自身で自分の人生の意味や命の価値を決める権利を持っています。

それが生きる権利、つまり人権なんじゃないかと思います。

 

意思表示ができない人だって、周りから見たらそう見えるだけで、本人の中には意思があるかもしれません。

それに思い至らないのは、それこそ想像力の欠如というものではないのでしょうか。

 

命。

それは、そこに存在するだけで、価値のあるもの。

誰にも、奪う権利なんてありません。

 

「生きていても仕方がない」と本人が言ったのならまだしも。

他人が、そんなことを決める権利はありません。

 

生きる意味を知るために、生きている

だから、私は、精一杯生きて、私の生きている意味を、見出します。

健常者がなんだ!

障害者だからって、なんだ!

どっちも、一人の人間だ!

どっちも、一つの命だ!

 

私の命は、私のものです。

それとともに、私を大切にしてくれる人たちのものです。

決して、第三者に奪われるようなものではありません。

 

それが、私の考えです。

障害年金をいただくことについて

障害年金

私は現在、障害年金をいただいて生活しています。

障害年金の級は、2級です。

初診時に厚生年金に加入していたので、厚生障害年金を受給しています。

申請をしたのは、3年前です。

その時は3級でしたが、その後状態が悪化したため、等級変更の申請をして、2級になりました。

 

厚生障害年金の2級の認定基準は、「日常生活が著しく制限される、または制限を加える必要があること」です。

現在の私の状態は、主治医曰く「少なくとも、週20時間以上働くことは不可」です。

ですから、ハローワークを通して就労することができません。

就労するためには、「週20時間以上働ける」という医師の診断書が必要だからです。

 

私は、医師から「外で働くのは向いていない」といわれています。

通常の労働どころか、作業所も向いていないのではないかといわれています。

 

火の車

しかし、障害年金2級の年金だけでは、生活していけません。

生活の最低保証額である生活保護費の2/3程度の額ですし、医療費も自分で払わねばなりませんから、かなりきついです。

メンタルクリニック、皮膚科、内科、神経内科に定期通院しているため、医療費がバカになりません。

今は、両親に養ってもらっていますが、いずれは自力で生活しなければなりません。

 

できることで収入を得る

私は今、自分のできる範囲で、少しずつお金を稼いでいます。

いろいろと考え、この1年間にお金をいただいたものは、雅楽関係でいただく収入と、絵の収入です。

金額は微々たるものです。

月平均にすると、高校生のお小遣い程度にもならないんじゃないかな…。

 

そして、どれも収入は不安定です。

私が一番力を入れたい、これから先も取り組んでいきたいと思っているのは、絵です。

というより、私が稼ぐには、今のところ、絵しかないと思っています。

 

私にできることで、どうやって稼ぐか。

それを考えるにあたって、試行錯誤するにあたって、障害年金は非常に役に立っています。

生活を完全に保証されるものではありませんが、障害年金をいただくことによって、私に適した仕事をゆっくり探すことができています。

 

年金を受け取ることは悪いことではない

障害年金をもらったから、働かない。

障害年金をもらっているけれど、働きたい。

どうしても働けないから、障害年金だけを頼りに生きていく。

障害年金を頼りに、自分の活路を見出す。

 

いろいろな生き方があると思います。

どれも、間違いではないと思います。

障害年金を受給することに対して、卑屈になる必要もないと思っています。

 

障害年金をいただけることに、感謝しながら。

私は私のペースで、前に向かって少しずつ歩んでいきたいと思っています。

 

甘えていると思われてしまうのか?

甘えている?

発達障害を抱えていたり、精神疾患を抱えていながらも、働いている人はたくさんいます。

みなさん、本当にすごいなと、尊敬しています。

しかし、その反面、そういう、すごく頑張っている人から見たら、私の今の生活は、「甘えている」と思われてしまうのかな…と思ってしまうことがあります。

 

医師からは、就労を止められています。

働く許可の診断書も、書いてもらえません。

障害者職業センターや、就労支援の人からも、働くことを止められています。

てんかん発作が抑えられないため、余計に就労の許可が出ないのです。

 

でも、そんな状況でも、働かなければ生きていけないからと、働いている人だっているわけで。

そういう人から見たら、私はのんびり気ままに生きていて、甘えているように見えるのかな…と考えてしまいます。

 

 揺れる気持ち

もちろん、頭では、「もしそういうことを言われても、私は私なりに頑張って生きていると胸を張って言っていい」とは思っています。

誰かに「甘えだ!」って言われたときは、きちんと状況を説明し、言い返すこともあります。

 

発達障害精神疾患てんかんを抱えていても、頑張って働いている人からすれば、私の頑張りなんて、生ぬるいものでしょう。

環境だって、恵まれていることは確かです。

金銭的には豊かではありませんけれど…。

 

私は、発達障害といわれているけれど、実は単なる甘えなんじゃないか…とまでは、さすがに思いませんが。

働いていない事実は、甘えといわれても仕方ないよなぁ…とは思います。

 

無理をしないことと甘えの線引き

もう、どこからどこまでが「無理をしない」ことで、どこからが「甘え」になるのか、わからなくなってきました。

無理をしないことが、甘えに見えてしまうこともある。

自分ではこれ以上無理!っていうレベルは、人それぞれ違う。

だから、人から見れば「甘え」に見えてしまうこともある。

それはある程度は覚悟しなければならないことなのかな、と。

 

私なりの頑張り

でもね。

これだけは言えます。

私は、きちんと前を向いて、なめくじの歩みかもしれないけど、一歩ずつ前進しています。

これが、今の私にできる「頑張り」です。

 

誰かが私に「それは甘えだ!」って言っても。

「私は私なりのペースで生きているんです!甘えてるかどうかは、私の一面しか見ていないあなたが決めることではありません!」

と反論します。

甘えかどうか、人に決められることではないと思っています。

特に、私と一度も会ったことのない人に、言われる筋合いはないと思っています。

 

人に「そんなの甘えだ!」なんて、絶対に言いません。

苦しみは、人それぞれですから。

自分の苦労を、人に押し付けることは、しません。

 

人それぞれ、持って生まれた電池の大きさは違います。

頑張れる範囲だって、違います。

みんなそれぞれ、自分の今ある環境を受け入れ、ありがたい環境に身を置けているならそれに感謝して、生きていけばいいのかな、と思います。