発達障害のカミングアウトについて
カミングアウト
4年ほど前、まだ発達障害のカミングアウトをしていない人に対して、カミングアウトする機会がありました。その時に思ったことがあったので、書き記したいと思います。
カミングアウトすることになった相手は、私が数年お世話になっている方で、非常に良くしていただいています。
いろいろな活動をするにあたり、今までに何度も体調が悪いこと、いつ体調が悪くなるかわからいことを伝え、不参加とさせていただくことも多々ありました。
体調について心配してくださり、ちょくちょくその原因などもお話させていただくことはありました。
その時は、一番わかりやすい「うつ」で通していました。
しかし、長期間続いていることや、電話では元気そうに思えること。
また、短時間の活動中は元気そうに見えることなどから、不思議に思っていらっしゃることが、伝わってきました。
だから、機会があればカミングアウトをしなければならないな、とは思っていました。
その機会が、突然訪れました。
その方と、1時間程ゆっくりお話しする機会があったのです。
その時、やはり体調の話になりました。
相手も、いったいどうなっているのか知りたい様子でしたし、私は絶好の機会だと思い、発達障害であることをカミングアウトしました。
また、てんかんを持っていることもカミングアウトしました。
てんかんについては、相手の方の周囲に、2人ほど患者がいたらしく、すぐに理解してくださいました。
少々時間がかかったのが、発達障害の説明でした。
発達障害の説明は難しい
発達障害は生まれつきの障害であること。
うつはその二次障害であること。
発達障害は、宇宙人が地球で暮らしているようなものであること。
一生懸命周りと合わせて生きることが、とてもストレスになること。
そのストレスが限界に来て、二次障害を発症すること。
中学の時、社会人1年目の時、そして現在と、今までにも何度も二次障害に悩まされていること。
人ができないことを難なくこなしてしまうのに、人が簡単にできることが、私にとっては難しいこと。
そういったことを、簡単に要点をおさえて説明しました。
ごく簡単な説明ではありましたが、納得してくれた様子でした。
しかし、やはり「そうは見えないけどなぁ…」と言われました。
そういわれて、ひるんでしまう当事者も多いと聞きます。
その時に、「そうは見えないから困っている」と言えたら…という話も、耳にしていました。
そこで私は、淡々と「見えないからこそ、困るんです。一見して障害者だとわかる人なら、配慮も受けられます。でも、パッと見障害を抱えているとわからないから、健常者として扱われ、困っていることがわかってもらえないんです」と、にこにこしたまま答えました。
そうすると、相手は「あぁそうか、そういうことになるのか」と納得してくれました。
カミングアウトする前に考えておくこと
私が瞬時にこの切りかえしができたのは、前もって、もし自分が「そうは見えない」と言われたときにどうするか?ということを考えていたからだと思います。
知識のない人にカミングアウトしたとき、そういう反応が返ってくることを、ほかの人の体験を聞くことで、追体験できていたからだと思うのです。
常日頃考えていることは、とっさに説明をすることができます。
しかし、考えていないことは、その場で説明することはできません。
日ごろから、他人の体験を自分の体験として考えておくことは、非常に重要であると思いました。
相手とタイミングを選ぶ
今回のカミングアウトは、相手の方が「人と違うこと」を拒否せず、受け入れてくれる人であったからこそ、うまくいったと思っています。
私も、カミングアウトしても大丈夫な相手だと思ったからこそ、カミングアウトしました。
相手の状態(私のことを知りたがっている、不思議に思っている)と、こちらの希望(私の状態をきちんと説明しておきたい、理解しておいてもらったほうが後々楽である)という利害の一致は、カミングアウトするにあたって、非常に重要な条件であるということがわかりました。
また、自分自身が障害について、簡潔にかつ正確に説明できること。
どこに困難を感じているのか、相手にもわかりやすく説明すること。
相手が不思議に思っていることから、一つずつ説明していくこと。
それらが、相手が受け入れやすいカミングアウトの条件であることも、学んだように思います。
カミングアウトはお互いのため
カミングアウトは、自分だけのためにするのではない。
お互いがうまくいくようにするものである。
あくまで、相手あってのものである。
それを、忘れてはいけないな、と思いました。
「薬漬け」について思うこと
薬漬けのこと
ツイッターなどで、「薬漬け」について様々な意見が飛び交っています。
ちょっと思うところがあるので、私なりの考えを書いてみたいと思います。
そもそも、「薬漬け」の定義は何でしょうか?
辞書で調べてみると。
【薬漬け】
患者が過度に薬を服用させられるさま。
とあります。
ということは。
必要な薬を飲むことは、「薬漬け」には当たらないのでは?
私もたくさんの薬を使っている
そういう私も、薬はたくさん使っています。
人から「年寄か!」といわれるくらい、薬の種類が多いです。
今使用している薬を上げてみましょう。
・レクサプロ(抗うつ剤)
・ロキソニン(鎮痛剤)
★皮膚科
・アレロック(じんましんの薬)
・塗り薬3種
★内科
・麦門冬湯(ぜんそくの薬)
・吸入薬(ぜんそくの薬)
・点鼻薬(花粉症の薬)
★神経内科
・リボトリール(不随意運動を抑える薬)
これ以外に、新たな症状が出たり、風邪をひいたり、皮膚が炎症を起こしたときには、抗生剤などの薬が追加になります。
薬漬けとは思わない
これだけ挙がれば、人によっては「薬漬け」というかもしれませんね。
しかし、私は「薬漬け」だとは思っていません。
なぜなら、これらは私にとって必要な薬だからです。
そもそも私は、薬剤過敏の体質ですから、ほとんどの薬が飲めません。
飲める薬を、必要最低限の量で飲んでいます。
ですから、服用量は小児量以下であることもしばしば。
私が生活するうえで、必要な量を、最低限飲んでいるのです。
これ以上増やすと副作用で生活ができなくなります。
これ以上減らすと、障害や病気の症状で、生活ができなくなります。
ちょうどバランスの取れるところを探り、自分で医師に申告し、私自身が服薬を納得したうえで薬を使用しています。
ですから、他人から見たら「薬漬け」に見えるかもしれませんが、私はこれでいいと思っています。
そもそも、過度な服薬ではないのですから、「薬漬け」ではありません。
適切に使用して、少しでも快適に過ごせるように
薬を飲むのが怖いというのは、薬に対してきちんと理解していないからではないでしょうか?
自分自身できちんと薬について調べ、疑問があれば医師や薬剤師に相談し、体に合わないと思ったら中止したり、薬を変えてもらう。
そうして、専門家のアドバイスを受けながら、自分で服薬するかどうか決定する。
自分の生活の困難を取り除くために必要な薬であれば、服薬を恐れる必要はないのではないか、というのが私の意見です。
もちろん、副作用でヘロヘロになっているのに、それでも薬を飲ませられているのであれば、それは「薬漬け」にあたると思います。
副作用でつらい思いをすることは、避けるべきでしょう。
「薬漬け」と思うかどうかは、個人の考え方次第だと思うのです。
薬を飲むか飲まないか。
それは個人の自由です。
そして、それは子どもであっても同じだと思うのです。
たとえ子どもであっても、ある程度きちんと理解し、判断することができるのであれば、子ども本人に服薬を希望・決定する権利があるのではないかと思います。
障害か個性か
障害とは、個性か
「障害は個性だ」という言葉、ちらほら耳にします。
その言葉を聞くたびに、私は思います。
「障害って、本当に個性なの?」
障害って、個性と言い切れるんでしょうか?
逆に言うと個性は障害である…となりますが。
逆は必ずしも真ならず。
でも、現実ではそう簡単に割り切れるものではないと思うんです。
障害の程度や、障害の内容によっても、「個性」と言えるか「障害」となるのかは、変わってくるでしょう。
私にとって
そこで、考えてみました。
私の中で、障害は個性かどうかを。
私には、
★ADHD
★てんかん(もしくはほかの神経疾患)
★うつ病
の4つの障害があります。
一つずつ、考えてみます。
これは、結構特性に振り回され、二次障害まで発症しているので、私の中の感覚としては「障害」です。
言いたいことがうまく伝わらない。
言われていることの意味が分からない。
納得がいかないと行動できない。
多数派さんと感覚が違いすぎて、もう訳が分からない。
など…。
自閉症スペクトラム障害に関する特性は、私にとってマイナス面が大きいのです。
ですから、私は自閉症スペクトラム障害に関しては、「個性である」ということはできません。
★ADHD
これに関しては、私は「個性」ととらえてもいいかな、と思います。
というのは、私のADHDはそこまでひどくはないからだと思います。
重度のADHDであれば、生活にかなりの困難を伴うので、それは「障害」ととらえることになると思います。
ただ、私の場合は重度ではなく、頭の多動が生み出すアイデアが、作品を成立させているため、「個性」ととらえられると思うのです。
ADHDは、今のところ、プラスの面もしっかりとあります。
★てんかん(もしくはほかの神経疾患)
これはどう考えても、「個性」ではありません。
発作のたびに体力が削られる。
発作により、行動が制限される。
発作により、状態が悪化する。
マイナス面しかありません。
これはどう考えても、「個性」とは言えないでしょう。
ですから、私の中でてんかんは「障害」です。
★うつ病
これも、「個性」ととらえるには非常に苦しい部分があります。
うつ病の苦しさは、何も生み出しません。
ただただ、苦しいだけです。
時には、命さえ投げ捨てたくなります。
それを「個性」と言えるか?
言えないでしょう…。
障害≠個性
こうして考えると、私一人の中にも、「障害だけど個性だ」と言える部分と、「障害はあくまで障害だ」という部分が混在しています。
ですから、障害=個性という式は成り立ちません。
障害を個性ととらえて前向きに生きることは、よいことです。
しかし、障害はあくまで障害であり、それを受け止めることも大事だと思うのです。
それと、もう一つ。
「障害は個性だ」と発言していいのは、当事者もしくは当事者のことをよく知る人だけだと、私は思っています。
それ以外の人が「障害は個性だ」というのは、違うと思うんです。
障害を実際に経験したからこそ、「障害は個性」と言えると思うからです。
障害の軽重、障害の内容によって、それを個性ととらえるか障害ととらえるかは、変わってきます。
また、本人の苦痛の強弱によっても、変わってきます。
ですから、安易に「障害は個性だ」ということに、私は違和感を覚えます。
本人が心から「私は障害を抱えているけれど、これは個性です」という場合は、賛同します。
しかし、たとえ同じ障害であったとしても、それが全員に当てはまるわけではない。
人それぞれ、「個性」ととらえるか「障害」ととらえるかは違う。
そう考えています。
発達障害者支援システムの構想
アイデア!
以前、お友達のもりちゃんが、こんな記事を上げていました。
まずは、ご一読ください↓
そうなんです。
こういうシステムが、発達障害者の日常生活や社会生活への支援に、必要なんじゃないかと思うんです。
支援の形
発達障害者(特に自閉症スペクトラム障害の人)は、音声認識が苦手な傾向にあります。
特性として、視覚的認識に優れている方が多いといいます。
(もちろん、視覚より聴覚優位の方もいらっしゃいますし、視覚も聴覚も弱く、嗅覚優位という方もいらっしゃいます)
現在、いろいろな相談機関では、主に電話でのやり取りが主体となっています。
メールでの相談受付もありますが、どうしてもメールの特性上、返事がリアルタイムで来ないこともあります。
コミュニケーションに不具合を抱えている発達障害者の場合、電話でのやり取りには、困難が伴います。
直接会って話すよりも、電話でのやり取りが難しいのは、健常者の方でもお分かりいただけると思います。
・顔が見えない
・口の動きを読み取ることができない
・一度、声が電波に変換されているので、いつもとは聞こえ方が違う
など、様々な要因で、電話を通してのやり取りは、難しくなります。
そんなとき、もりちゃんのいうように、LINEのようなシステムで、困ったときにヘルプ!と叫べば、知識のある人が即時に助けてくれるような、そんなシステムがあるといいな、と思うんです。
パニックになって、口から言葉が出なくなってしまったとき、「電話をかける」というハードルの高い作業をすることは、難しいです。
その場合、文字としてアドバイスをうけられるシステムは、非常に役に立つものであると考えます。
多少のタイムラグは仕方ありませんが、その場で、回答できる人が回答し、アドバイスをする。
それは、専門家でもいいですし、ピア(当事者)サポーターでも構わないと思っています。
得意を生かして支えあう
当事者であっても、困っている人ばかりではなく、こういった問題解決に向いている人もいますし、様々な知識を持ち合わせている人もいます。
そういった当事者が、困っている当事者を助ける。
また、普段は回答する側であっても、何か困ったことがあれば、ヘルプを出す側に回ることもできる。
逆に、いつもはヘルプ出す側だけど、答えられるときには回答する側に回る。
そういうシステムができれば、すごく役に立つんじゃないかと思うんです。
医学的なこと、制度的なことは、社会福祉士や心理士、医師などの専門家の手助けが必要でしょう。
また、運営に関しても、詳しい人が行う必要があると思います。
専門家、運営者、そしてピアサポーター、利用者が一体となり、情報を共有し。
「たすけて!」と言えば、誰かが答える。
そんなシステムが構築できれば、少しは生きやすくなるのではないかと思います。
また、私は、もともと役所の案内係として働いていたこともあり、様々な情報収集のノウハウや、情報提供のノウハウを持ち合わせています。
うまく説明できない人を相手にしても、必要としている支援を聞き出す力も、訓練されているつもりです。
ですから、そうした仕組みに関わり、仕事にできればいいな、とも思っています。
LINEなどの通信を使えば、自宅にいてもシステムに関わることができます。
発達障害当事者の仕事としても、成り立つのではないかと考えています。
こうした取り組み、どなたか運営してみようという方、いらっしゃいませんでしょうか。
本当は、私自身が行動できればよいのですが、運営となると極端に苦手な分野となります。
また、体力がないため、様々な手続きなどを行うことも困難です。
こうした新しい支援の形が生まれればいいなと思っています。
言葉が思考を縛る
言葉の縛り
言葉って、とっても大事だな、って思います。
そう思うようになったきっかけは、働けなくなったことです。
まだ働いていたころの、職場のメンバーとの飲み会の帰り道。
おなじ方向に帰る3人で、夜道を歩いていました。
私と、私の3つ上の先輩Yさんと、40代のお姉さまKさん。
その時の会話が、こんな内容でした。
Y:「3年後の国体までに、どうにかなってたいなー(結婚していたい、という意味)」
K:「3年あったらどうにかなるやろ」
私:「3年もあるんですから、大丈夫ですよー。でも、3年後にどうにかなってなくても、まだ仕事つづけられてたらいい方ですよね。結婚も出来ず、いなくなってたら最悪じゃないですかー(笑)」
この時のこと、はっきりと覚えています。
私、言いました。
「3年後、結婚して辞めるでもなく、いなくなっていたら最悪だ」と。
そして、3年後、それが現実となってしましました。
どうにかなっていたい、と言ったYさんは、本当に結婚して幸せそうです。
こちらも、現実になったわけです。
コトダマ
昔から、言葉には魂が宿る、と言われています。
言霊というものです。
人間の口から発せられた言葉には、不思議な力が宿る。
そう、信じられています。
私は、それをこう解釈します。
人間は、自分の発した言葉に、無意識に縛られてしまうのではないか、と。
自分が何気なく言った言葉が、心の奥底にしまいこまれて。
そうなるように、動いてしまうのではないか、と。
悪いことが起きたとき。
「自分は不運だ」と言う人には、本当に不運なことが降りかかる。
「これだけで済んだ、自分はついている」と言う人には、幸運が寄ってくる。
「不運だ」と言う人は、自分が発した「不運だ」という言葉に縛られて、何が起きても不運に感じてしまう。
逆に、「幸運だ」と言う人は、何が起きても幸運だと感じられる。
つまり、自分は不運だ、不幸だという人には、自然と不運や不幸が集まり、自分は幸運だ、幸せだという人には、自然と幸せが集まる、ということ。
私は、いろんな意味で、よく「当たり」ます。
たとえば、この病気は100人に1人の割合で~なんて言われると、その1人に入ってしまいます。
これで効果が出なかったら、もうあきらめるしかないね~と言われると、効果が出ない方に入ってしまいます。
でも、私は不運だと思ったことはありません。
逆に、こんな能力普通はないよ~っていうことも、普通ではない方に入るからです。
なんだかんだで、どうしても手に入れたいと願うものは、手に入れているからです。
私は普段から、「私はついてる!チャンスを掴む天才だ!人に恵まれている!」と言っています。
そうすると、本当にそうなるんですよね。
その次に起こることも、どんどん良い方向に進む。
だから、言葉の力というものを、実感しています。
言葉として発したものは、耳から脳へフィードバックされ。
言葉として書き表したものは、目から脳へフィードバックされ。
言葉が思考を縛り付ける。
それを意識することができれば、自分の考え方や行動も変わってくると思います。
自分が手に入れたいと思うことを、口に出して言う。
自分の理想を言葉にする。
逆に、ネガティブなことは言葉にしない。
ネガティブ発言は、自分だけではなく、周りも不幸に巻き込んでしまう。
それでも、人間ですから、ネガティブな発言をしてしまうこともあるかもしれません。
そういう時は、私は笑いに変えてしまうようにしています。
言葉は思考や言動を絞るということを理解していること。
それは、とても大事なことだと思っています。
まったく、地球って場所は…
不便だ
最近、よく思うんです。
「まったく、地球って場所は…」って。
地球って場所は、なんでこんなに不便で生きにくい場所なんでしょう?
天候はコロコロ変わる。
引力という、目に見えない力が、体を地面に叩きつけようと働いている。
太陽はじりじり。
いろんなにおいがする。
いろんな音がする。
一昔前の地球だったら、もう少しましだったのかな?と思うこともあります。
もっと昔、平安時代くらいだったら、生きるので精いっぱいだったかもしれないけれど。
環境としては、ほぼ自然な状態の場所が多かっただろうから。
もう少し、環境からの刺激はましだったのかなー、なんて思うことも。
意味が分からない
地球って、なんでも地球人のために制度が作られているでしょう?
文化も、地球人が作ったものでしょう?
だから、私みたいな宇宙人にとっては、意味の分からないものばかり。
体に合わない食べ物も多い。
病気の治療だって、地球人のためのものだから、宇宙人には効かなかったり、効きすぎたり。
地球に生まれた宇宙人、本当にサバイバルです。
本当は逆?
でもね、たまに思うんです。
実は、地球人だと思っている人が、本当は宇宙人で。
宇宙人だと思っている私たちが、本当は地球人なんじゃないかって。
SFになっちゃいますけど。
私たち、地球上の少数派は、実は大昔に宇宙人に地球を乗っ取られた時の生き残りなんじゃないか?って思うんです。
多数派さんは、地球を乗っ取った宇宙人。
地球を乗っ取った宇宙人たちは、自分たちに都合のよいように、地球の環境を変えてきた。
そして、あちこちの地域が栄え、技術や産業が発展した。
少数派の、生き残り地球人にとっては、宇宙人の考えることがわからない。
宇宙人の文化が、体に合わない。
多数派さんよりも、自然の変化に敏感なのは、もともと地球上で自然と仲良く暮らしていた地球人だから。
もし、本当に多数派さんが侵略してきた宇宙人だったら。
そのうち、少数派の生き残り地球人が、反撃に出ちゃうかもしれません(笑)
理解しようとしてくれる宇宙人とは、仲良くできるかもしれませんけど…。
なーんて、私のちょっとした妄想です。