kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

「自分らしく生きる」とは?

自分らしくとはどういうことか

以前、ある方とやり取りをしていて。

「自分らしく生きるって、なんだろう?」と考える機会がありました。


自分らしく生きる。

自分が自分でいられるように生きるということです。

自分を演じて生きていくのではなく。

素の自分をそのまま出して、生きていく、ということです。


そこでふと思ったこと。

自分が自分でいられるように生きるというのは、自分のわがままを通す、ということとどう違うのか?


自分らしくいようと思うと、どうしても、自分のやりたいようにやって生きていく、というようにとらえてしまいがちです。

それは、間違いではない、と思います。

自分のしたいことをして生きていけたら、それはとても素晴らしいことだと思います。

 

自分のしたいことだけをするのとは違う

でも、ちょっと待って。

もう少し深く考えてみましょう。

自分のしたいこと「だけ」をして、自分の思い通りにならないことは切り捨てて、生きていく。

「私はそれはできない。だから、ここにはいられない。私のことを理解しないあなたたちが悪い。」

そう思ってしまっていたら、それは、「わがまま」ではありませんか?


自分の主張だけを通して、他の人の考えや、気持ちを考えようとしない。

そうすると、それは自分の意見・意志の「押し付け」であり、周囲の人から見れば、「わがまま」ととらえられても仕方がないのではないでしょうか?


「自分らしく生きる」って言葉は、語感がとてもいいかもしれません。

でも、そこには、「わがまま放題に生きる」と勘違いしてしまう可能性が、大いに含まれていると思うのです。

わがままと、自分らしくあることの線引きは難しいと思います。

自分らしく生きようとすることにこだわり過ぎると、わがままとなってしまって、却って自分の居場所をなくしてしまう。


どうしても許せないこと、能力的に出来ないこと。

努力してもどうにもならなかったことは、相手に理解してもらうことも必要でしょう。

それは、「自分らしく生きる」ということだと思います。

でも、「私はこれは出来ないから!無理だから!」と、決めてかかってしまって。

それを、周囲の人に押し付けてしまうと、それは「わがまま」になってしまうのでは?

 

少しずつ前進してみよう

「絶対に無理。自分にできるわけがない。」と決めつけることで、自分が成長する伸びしろを、自分で奪ってしまっているように思うのです。

 

メンタルクリニックの医師に、言われました。

「君は、自分で自分の能力にロックをかけていないか?」と。

「自分にはできない」と思い込むことで、成長の機会を逃してしまう。

自分の能力をつぶしてしまう。

それって、すごくもったいないと思うんです。


「無理かもしれない。出来ないかもしれない。でも、少しでも前進しよう。」

そんな努力が、少しは必要だと思うんです。

その努力は、必ず人に伝わります。

出来なくて、もがいて、苦しんで。

それを見てくれている人は、必ずいます。

必死に努力して、苦しんでいれば、それに気づいて手を差し伸べてくれる人は、必ずいます。

認めてくれます。


実感するほどの努力の成果は、ないかもしれない。

でも、それに挑戦したことによって、自分はきちんと成長するのです。

多数派さんよりも、ずっと負担が大きい努力だとは思いますが…。

 

一概には言えない

それに、同じ自閉っ子と言えども、タイプは千差万別。

十人十色です。

だから、それぞれ能力の凸と凹の位置も違う。

自分と凸凹の位置が違うからと言って、それだけで「あなたは定型だ」と断定することは危険です。

出身の星は違うけど、同じ宇宙人なんだね、くらいの感覚で受け止めればいいと思うのです。

自分と同じだから、発達障害で。

自分のできない○○ができるから、あなたは発達障害じゃない!

そういうことではないと思うんです。


多数派さんだって、同じです。

多数派さんはたまたま、地球生まれで地球に住んでいる宇宙人だっただけ。

一度も地球以外の星に住んだことがないだけ。

自閉っ子とおなじ、宇宙人であることには変わりないと思うんです。

 

本当の意味で自分らしく生きる

少数派は、確かに生きにくい。

いろんな場面で、多数派さんよりも多くの我慢や忍耐も必要となるでしょう。

それでも、チャレンジし続けること。

投げやりにならず、自分の人生に向き合って、一生懸命生きること。

社会で居場所を見つけたいなら、社会との折り合いをつける努力を惜しまないこと。

その上で、「自分らしく生きる」こと。


バランス感覚が必要で、とても難しいことだけれど。

それは、多数派さんと一緒に暮らしていくうえで、お互いにとって大事なことなのではないでしょうか?

発達障害の中のどこにいる?

発達障害もさまざま

一口に「発達障害」と言っても、中身は様々。

自閉症ADHD、LD、トゥレット症候群など。

広い意味では、知的障害も発達障害に含まれます。

 

さて。

以前、ツイッター上で、自分は分類のうち、どれにあてはまるのか?

という話題がありました。

あっちではアスペルガーと診断され。

こっちでは広汎性発達障害と診断され。

混乱することも、多いようです。

 

私は、いまのところ「自閉症スペクトラム障害」もしくは「自閉スペクトラム症」と

ADHD」という名称を使うことで、自分の特性を説明することにしています。

 

細かく考えてみたけど

それまでは、自分は「高機能自閉症」なのか。

アスペルガー」なのか。

それとも、「PDD-NOS(特定不能の広汎性発達障害)」なのか。

ずいぶん、悩みました。

(現在はこれらの分類はされなくなっています)

 

診断した医師は、当初は「高機能…ってやつだとおもうよ」と濁したし。

カルテには、単に「PDD」としか書かれていない。

だから、高機能広汎性発達障害であることははっきりしていても、こまかい分類が分からなかったのです。

 

自閉症のうちわけ

ここで、まず、発達障害の分類について説明しようと思います。

ここでは、「自閉症」に限って取り上げます。

そして、これは私なりの解釈なので、間違っている部分もあるかもしれません。

こまかいことは、ご自身でお調べください。

 

まずは、図示しておきましょう↓


1、知的障害の有無

知能は、同じ年齢の子どもたちの平均的知能を100として、それよりどのくらい高いか低いかで判断します。

大体、IQ70くらいがボーダーとして設定されているようです。

 

2、自閉度の高低

自閉がどのくらい濃いか、という指数です。

自閉度が高い=自閉が濃い、特性を強く持っている、ということです。

 

3、1と2を合わせた図

知能の高低、自閉度の高低で、ある程度分類できます。

 

知能が低く、自閉度が高い(知的障害のある自閉症・いわゆる古典的自閉症)ものを、一般的に自閉症と呼びます。

知能が低いと低機能自閉症、中くらいなら、中機能自閉症と呼ばれることもあるようです。

あまり耳にしませんが。

 

知能がボーダー以上で、自閉度が高い場合を、高機能自閉症と呼びます。

同じく、知能がボーダー以上で、自閉度が割と高い場合を、アスペルガー症候群と呼びます。

高機能自閉症アスペルガー症候群を分けるのは、「幼児期の言葉の遅れの有無」のみだと言われています。

なので、研究者によって、どちらも同じであるという人もいれば、別のものである、という人もいます。

 

特性が薄い、そのどこにも当てはまらないタイプや、診断時に基準を満たしていなかった(発達が遅れすぎて特性が現れていなかった場合など)を、ひっくるめて特定不能の広汎性発達障害(PDD-NOS)としています。

 

これらすべてをまとめて、「広汎性発達障害」と呼ぶのです(図では、赤で囲まれた部分)。

また、高機能自閉症アスペルガー症候群、知的障害のないPDD-NOSをひっくるめて、「高機能広汎性発達障害」とも言います。


以上が、私がいろいろ調べて、理解したことです。

ただ、今では少々古い分類となっています。

 

一つながりの連続体

現在は、図の4にあるように、自閉度はある一点で区切られるわけではなく、虹のようにグラデーションであることから、自閉症スペクトラムという考え方が普及しつつあります。

アメリカでの最新の診断基準では、アスペルガー症候群という名前が削除されました。

 

私の場合

さて、私は「高機能広汎性発達障害」と診断されたわけですが。

では、高機能自閉症アスペルガー症候群、PDD-NOSのどれにあてはまるのでしょうか?

(知的障害はありませんので、自閉症は最初から除外されます)

 

幼児期の言葉の遅れは、ありませんでした。

なので、高機能自閉症ではない、ということになります。

では、アスペルガーか?

いや、PDD-NOSか?

どちらだ?

 

診断後、ずいぶん悩みました。

私の立ち位置は、どこなんだ?

悩みに悩んで、もう考えることに疲れたとき。

自閉症スペクトラムという考え方があるし。

診断した先生も、「自閉症はスペクトルになっていて、真っ黒から真っ白まである。君は真っ黒ではない(重度自閉ではない)。でも、決して真っ白ではない。灰色なんだ」と言っていたし。

 

「じゃぁもう、私は自閉症スペクトラムの高機能タイプだっていうことで、いいんじゃない?」

と決着がつきました。

実際、障害の説明をする必要があるときは、「自閉症スペクトラム」と伝えることにしています。

病院などでは、「自閉症」とついている方が理解が早いこともあり。

けっこう便利です。

ブログでも、そう書くようになり、自分の中でも「自閉症スペクトラム」の立ち位置が、確立してきました。

 

障害名にこだわらない

今では、こまかい分類は、どうでもいいと感じています。

病院の先生も、「自分はどういう特性があって、どういうことが苦手で、何が得意なのか。それがわかっていれば、それでいい」と考えているようです。

精神科領域の診断名は、まだまだ発展途上なこともあり、どんどん変わっていくそうです。

今つけた診断名が、将来まで通用するとも限らない。

だから、病名・障害名にはこだわるな、と。

 

如月は、「自閉症スペクトラム障害自閉スペクトラム症)」と「ADHD」です。

こうして、今は、アイデンティティが確立しています。

大人と子供の人格の同居

大人の自分と子供の自分

いままで、いろいろと自分の言動を、分析してきました。

そのなかで、思ったことがあります。

それは、私という人間の中には、大人の人格と、子どもの人格が同居しているのではないか、ということ。

対人関係を担当している私と、好き勝手に行動しようとしている私が、私という一つの身体の中に、混在しているように思うのです。

 

人間、誰だって、人格は完全に一つだということはないと思います。

一人の人間の中に、少なくとも善と悪の二人がいるはずです。

よく、天使と悪魔に例えられますよね。

 

それと同じで、私の中にも善と悪の二人の私がいます。

そしてさらに、大人な私と、幼子の私がいます。

その二人は、それぞれ理性と、感情・感覚を司っています。

 

時々、私は実年齢よりもずっと悟ったことを言います。

それは、理性が大人なんだと思います。

でも、逆に、赤ちゃんのおもちゃが楽しいと思ったり。

好き勝手な行動をしてみたり。

感覚や感情が、うまく分化・統合されていなかったり。

そんな、幼子の部分があります。

 

能力の凸凹

発達障害は、能力の凸凹であると言われています。

それと同時に、感情・感覚と理性の発達も、凸凹があるのかな、と。

 

社会では、大人の私が、幼子の私の面倒を見ながら、上手く振る舞ってきました。

しかし、幼子の私の面倒を見ることに疲れたとき、大人の私はダウンしてしまいます。

 

大人の私に相手をしてもらえなくなった幼子の私は、感情を爆発させ、パニックを起こし、泣き叫び、自分の欲求を何とかして満たそうとします。

それが、自分で自分を持て余しているときの状態なのかな、と思います。

 

大人とこどもの人格が同居しているといっても、その二人の間ではちゃんと連絡がついていますし、自分でコントロールすることもできます。

だから、病的なものではないと思います。

誰にでも起こりうる状態である、とも思っています。

 

そんなちぐはぐな自分を、上手にコントロールして、子どもの心をもった大人として、生きていきたいなぁと思っています。

敬語がない地域

敬語の扱い

私の住んでいる地域には、昔から敬語というものがありません。

あっても、丁寧語が最大級の敬語です。

比較的若い層は一応、敬語を使うことができますが、基本的によそよそしく感じるので、あまり使いません。

 

自閉症スペクトラムの人は、相手によって言葉を使い分けることが苦手だと言われています。

勿論、きちんと使い分けできるよ!って言う人もいるでしょう。

 

私の場合、畏まっていなければならないときは、一生懸命頭を使って、最大限失礼のないようにします。

しかし、少し知った仲になると、時々敬語を忘れて話してしまう(いわゆるタメ口というやつです)ことがあります。

どんなに年上の人でも、敬語ってあんまり使いません。

さすがに、「です」「ます」は使いますが。

それでも、会話のテンポが速くなってくると、「です」「ます」も飛んでしまいます。

 

みんな同じ立場

私の地元では、昔から「あがら仲間」という考え方があります。

これは、みんな仲間、という意味です。

上下関係が、あまりないのです。

戦国時代、領主を追い出し、自治を行っていたことに由来すると、私は考えています。

 

戦国時代といえば、戦国大名が下々の民をまとめて、民衆は領主に従っていた、というのが多数派でした。

しかし、この土地では、地域ごとにグループを作り、更にそのグループ同士が協力したり反発したりしながら、土地を守っていました。

今でいう、自治会のようなものです。

だから、それぞれが対等の立場でものを言う。

そこに、敬語など畏まった言葉は必要ない、という風習なのかもしれません。

 

上司であっても、仲の良い上司だと、普段の会話はタメ口になることが多いです。

それでも、許される土地柄なのです。

そして、割とあけっぴろげで、裏表のない会話が多い気がします。

嫌味はあまり使われなくて、文句は文句としてはっきり言うことが多いように思います。

 

他の地域の人から見れば、なんて馴れ馴れしいんだ!と見えることでしょう。

しかし、これがこの地域の特性なのです。

 

会話のハードルが下がる

そんな地域に住んでいるからか、私は敬語を使わなきゃ!失礼のないようにしなきゃ!と、必要以上に委縮することなく、会話をすることができています。

明らかに失礼にあたる発言は、しないように気をつけてはいますが。

 

そんな経験から、ASDの人にとって、会話に恐れを抱くかどうかは、環境の問題が大きいと考えています。

私にとって、関西の中でも地元は特に住みやすい土地です。

地元愛もふんだんに含まれていますが、最近特にそう思っています。

言葉が出てこないストレス

言いたいことが言葉にならない

前にも、ちらっと書いたことがありますが。

私は、時々、言いたいことが言葉として出てこなくなることがあります。

 

たとえば。

三階のハンドソープがもうないよ、と言いたいのに。

「三階の…」までしか言葉にならない。

「えーっと、アレ、なんやっけ?」と言えれば、まだいい方。

その言葉さえ、出てこないこともしばしばです。

 

言われた方にしてみれば、「三階の、何!?」ってなることでしょう。

そうやって急かされると、焦ってしまって、余計に言葉が出てこなくなります。

「ちょっと待って、今思い出してる!」と返事ができればまだいい。

その返事さえ、言葉にならなくて。

イライラすることもあります。

 

「虹が出てるよ、見に来て!」と言いたいのに。

「虹!虹!虹!虹!虹!」の連呼しかできなかったり。

興奮すると、うまく言葉が出てこなくなる。

 

言いたいことと、違う表現になってしまうことも。

作品ができたから、見てほしいとき。

「見て!」じゃなくて、「見る?」と聞いてしまう。

私の話す疑問文は、時として要求の意味を持ちます。

慣れていない人には、謎でしょう(笑)

 

気持ちを言葉にできないイライラ

不快なことがあっても、とっさに言葉にすることができない。

それで、余計にイライラしてしまう。

だから、別の形で、全然関係のない言葉を相手にぶつけてしまったり。

そうすると、本来イライラしていることとは違う内容にイラついているように受けてとられてしまいます。

意図が伝わらなくて、余計にイライラ。

そして、どっかーん。

 

感情や感覚、考えを言葉にするって、とっても大変なことなんです。

みんな、すらすらと話してるけど。

本当は、とても難しいことをしてるんですよ。

 

とっさに言葉で言い表せないって、すごくストレスが溜まることなんです。

意図や意志が相手に伝わらないって、すごく悲しいことなんです。

一生懸命、言葉にしようとすることって、すごくエネルギーのいることなんです。

 

言葉を上手に操る多数派のみなさん。

もし、自分が上手に言葉を操れなかったら…。

想像することは、難しいかもしれません。

でも、一度考えてみてください。

絵の新作「伏虎」完成!

絵の新作が完成しました!

「伏虎(ふっこ)」です。

 

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すごーく時間がかかりました。

毛のもふもふを表すのに、苦労しました(;^_^A

 

この虎は、私です。

私の干支でもあり、チャンスをじっと伏して狙っているいまの私の状態です。

 

さて、次は何を描こうかなー!

狭い場所が好き

ギューギュー詰め

私は、狭い場所が好きです。

それも、ギューギュー詰めになれるところ。

 

昔はよく、洗濯ものを入れる籠に入って、遊んでいました。

親が遊びで赤ちゃんを洗濯もの籠に入れるのって、よく写真で見たりしますよね。

あの状態で、遊んでいました。

洗濯もの籠に限らず、中に入れるものには片っ端から入っていました(笑)

たとえば、衣装ケース。

おもちゃ箱代わりに置いてあったのですが、おもちゃを放り出してその中に入る。

おもちゃよりも箱の方が楽しいという。

 

他にも、我が家には子供用のいす(座るとぷーぷー鳴るアレ)がなく、和室での食事のときは、下にビニールシートを敷き、風呂用の椅子に座らされていました。

これで食べこぼしても安心!ということで。

その食事用の、風呂用のいすをひっくり返して、中にすっぽり嵌って遊んでいました。

その窮屈具合がたまらなくいいのです(笑)

 

風呂用の椅子に似たもので、少し大きめの、子ども用の踏み台もありました。

それもひっくり返して中に入って遊んでいました。

 

洗濯ものを入れる籠を和室に持ちこみ、私がそれの中におもちゃの太鼓を持って入り。

その後ろに、風呂用のいすをひっくり返して同じくおもちゃの太鼓を持って入っている弟。

そんな写真が、アルバムに貼られています。

この時は、泉州に住んでいたので、だんじりごっこをしていたんです。

弟は私を真似て遊んでいました。

 

締め付けがたまらない

今でも、冷蔵庫と壁の隙間に入りこんだり、隙間に体を詰め込むのが好きです。

ギュッと押し付けられる感覚が、たまらないのです。

 

高機能自閉症の動物学者で有名な、テンプル・グランディン博士も、同じことを著書で言っているようです。

小さいころ、牛を飼っている親戚の家で、興奮している子牛を落ち着かせるための道具を見て感動した、と。

その道具とは、両側から子牛を挟み込み、ぎゅっと締め付けるものだったそうです。

その道具を使うと、子牛は落ち着くのだとか。

それを見ていた、小さなグランディン博士は、自分も挟まりたいと言って、挟まってみたそうです。

そして、とても心地が良かった、と。

その後、博士は自分で、締め付け機なるものを開発します。

落ち着かないときは、それで自分の身体を締め付けるのです。

 

なぜ狭い場所が落ち着くのか

どうして、狭い場所が落ち着くのでしょう。

私なりに考えた結論は、広い場所では敵に襲われる可能性が高くなるから、ということです。

 

野生の動物で考えてみましょう。

広い原っぱの真ん中にいると、どこから敵に狙われるか、分かりません。

狭い場所に入り込んでいれば、四方から狙われる可能性は、低くなります。

それで、安心できるのではないか、と。

 

ネコも、よく狭い場所に入っていたりしますよね。

動物にとって、狭い場所というのは安心できる場所なのでしょう。

 

感覚の特異性

あと、自閉っ子は自分の身体の範囲が分かりにくく、感覚が拡散しがち、といわれています。

そういったことも、原因の一つかもしれません。

狭くキツい場所にいることで、自分の身体が圧迫され、自分という本体に、感覚が凝縮されるように思います。

自分の存在を、確認することができる、というかなんというか…。

自分の身体の輪郭を、認識しやすくなるような気がします。

 

パニック時は狭いところで落ち着く

理由はよくわかりませんが、とにかく狭い場所は落ち着きます。

パニック時のクールダウンの場所として、狭い籠や段ボールハウスなんていうのも、効果があるかもしれませんね。