kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

難しかったらしい(歯医者)

アフターケア

 

昨日、かかりつけの歯医者さん、N先生のところに行ってきました。

障害者歯科センターでの治療の後のチェックのためです。

 

歯医者さんに入ろうとすると、玄関に靴がいっぱい!

こんなに混んでいるのも珍しい…。

少し待たされ、呼ばれたのは予約時間を少し過ぎた頃でした。

 

先生が来て、「どう?噛み合わせ高いとかはないと思うけど」と言われたので。

「大丈夫」と答えました。

 

治療内容の説明

 

続いて、センターでの治療の内容について、説明してくれました。

「起きたら説明しようと思ってたのにさー、帰っちゃうから」って言われたけど。

受付のお姉さんにちゃんと、帰っていいか聞きましたよ?(笑)

そしたら、麻酔の先生と、N先生じゃない歯医者さんが来てくれて、帰っていいって言われたんだもん…。

 

先生が「集中してたんでね…」と(;^_^A

おそらく、次の人の治療に集中していて、気づかなかったんでしょう。

あれか、先生も集中すると周りが見えなくなるタイプか(笑)

 

趣味も興味もたくさんあって、とっ散らかってるし。

おしゃべり好きそうだし。

新しい物好きだし。

やっぱり、気が合うわけだなーと思った次第ですwww

 

治療の内容ですが、今回もずいぶんとアクロバティックな方法で神経を抜いたそうです。

先生曰く「難しかった」と。

N先生が「難しかった」って言うんだから、本当に難しいんだろうな(;´・ω・)

 

詰め物が神経の近くにまで及んでいて、それが神経を刺激しているということで、結局神経を抜いたそうです。

 

もともと詰めてあった金属の部分と、それにつなげる形で埋めてあるプラスチックの部分をよけて、新たに歯の横に穴をあけて神経を抜いたそうです。

全部外して、上から器具を入れれば簡単なんですが、そうしてしまうと詰めるときに型を取らねばならない。

そうすると、治療が2回に渡ってしまうので、できるだけ外さずに、埋める範囲を最小限にしようとして、そうなったそうです。

てか、そもそも型を取ることができないのですよ(;^ω^)

 

しかも、歯の根っこが3つあって、そのうち一つは太い根っこで、残り二つが細い根っこ。

細い根っこの先がぐにゃっと曲がっているので、先端まで器具を入れられない。

仕方がないので、「しみるのがなくなればいい」という判断で、太い根っこの神経をすべて抜き、細い根っこは取れる範囲を取り、あとは薬を入れて詰めたそうです。

 

斜めから器具を突っ込む状態になるので、どうしても先端まで取り切れないし、無理にしようとすると余計なところを傷つけてしまうので、そんなことするくらいならもう、先端は残しておけ!ということだそうです(;^ω^)

 

他に方法がないわけではないけど、やっぱり型を取ることになってしまうので、難しいかな、と。

 

とりあえず、今回治療した歯は、しみなくなっているのでこれでOKとのこと。

噛んだら痛いのは、しばらく残るかもしれないけど、それは時間が経てば治まってくる、と。

 

前に右上の歯も、根っこがぐにゃっと曲がっていて、どうしても先まで治療しきれなくて、2回も根っこの治療をしたんだけど。

左上の歯も根っこが曲がってたかー。

 

右上の歯は、いまだに微妙に痛いもんなぁ…。

これはもう、「上手に付き合ってとしか言えない」と言われました(´・ω・`)

 

メンテナンス

 

今回の治療は、これでいったんおしまいです。

先生曰く「まだ終わりじゃないけど、とりあえず終わり」と。

だよねー、まだいろいろ問題はあるもんねー(;^_^A

今回治した左上の歯の、もう一つ奥の歯もあやしいらしいし。

 

というわけで、またしばらくは3か月に1回くらいのペースで通って、メンテナンスです。

次回は8月末か9月かな。

 

そのころには、てんかんセンターの方も終わって落ち着いてることでしょう。

てんかんセンターにいる間に歯が痛くなったりしないことを祈る…。

社会に出た引きこもり、再び引きこもる

異動

 

不安いっぱいで迎えた3月末。

やはり、私は異動してしまいました。

6年弱務めた職から離れ、内部事務の仕事になりました。

人事課の、来客対応のない部署へ、という配慮からでした。

しかし、これが仇となりました。

 

異動先には、時々言葉を変わす、再任用のおじさんがいることがわかりました。

それで少し不安が解消されました。

 

調整役だった上司も、異動先の課の知り合いの人に、「よろしく頼む」と言ってくれたそうで。

わざわざ、私をさがして会いに来てくれました。

 

環境の変化についていけずパニックに

 

そうして、4月1日。

私は、他の課へ、初めての事務仕事へ異動しました。

 

一日目。

これは、パニックになることが予想で来ていたので、何とか乗り切りました。

新しいことをいっぺんに覚えることになり、頭の中は嵐が吹き荒れ。

家に帰ってから、緊張と不安とパニックで号泣。

 

二日目。

前日の疲れを引きずったまま出勤し、また新しいことを沢山覚えなければなりませんでした。

この日も、帰ってからパニックで号泣。

 

三日目。

続けて出勤するのは、体力的にも精神的にも無理で。

お休みをもらいました。

人事課から、障害の話も通してもらっているので、すぐに許可が出ました。

 

四日目。

無理やり出勤しました。

書類はばらまくし、書類の整理はよくわからないし。

教えてもらった作業をしていて、行き詰った時、何がどうなってるのか把握しようとしている時間が、周りから見たら「わからないのに聞かない」ように見えるようで。

心配して、「分からんかったらすぐ聞いてよ」って声かけてくれてるのは、頭では分かっているんです。

そして、「ゆっくりでいいよ」って言ってもらうのも、嬉しいのですが。

ゆっくりしたいのは、「作業」ではなく、「理解」のほうなのです。

そんなこんなで、私は4日目ですでについていけなくなっていました。

 

土日を挟んで、五日目。

病院へ行くため、お休みをもらいました。

病院では、「異動による適応障害」と言われました。

「元の部署に戻るか、周りの対応をかえてもらって、環境を整えないと復帰してもまたおなじことになる」と。

私と先生は、休職することで合意。

退職についても、考えました。

 

休職、そして退職

 

六日目。

私は、上司に休職を申し出ました。

すぐ、人事課に連絡を取ってくれました。

そして、人事課に行きました。

担当の人に、A4用紙2枚分の説明を、渡し。

50分に渡り、話し合いが持たれました。

 

しかし、双方解決策はなく。

発達障害の人を受け入れたことがある課がない(気付かないだけで、必ずどこかに紛れ込んでる人はいると思うけど)、対応できる課がない、ということで、退職することになりました。

 

公的機関の人事課なので、A4の説明書きには、今後発達障害を抱える人の就職が増えてくると思う、その時のために、理解をお願いします、と書いておきました。

私たちの世代が切り開いていかないと、発達障害を抱える子どもたちが、社会に出られなくなってしまう。

そう思ったから。

 

異動前の課も、異動先の課も、みんなとてもいい人ばかりでした。

私に適応能力がなかったために、このような結果になってしまったことが、とても悔しくて。

異動前の持ち場を、離れたくなかった。

体調さえ、悪くなってなければ、離れる必要なんてなかった。

そう思うと、悔しくて悔しくて。

 

人には恵まれていた

 

でも、私がいかにメンバーに恵まれていたかがわかった。

本当に、いいメンバーだった。

異動しても、ずっとメンバーだって言ってくれる後輩。

メンバーだけの飲み会にも、毎回参加しろ!って言ってくれる全メンバー。

控室に遊びに来い!と言ってくれる全メンバー。

私は、幸せです。



こうして、社会復帰した引きこもりは、再び引きこもることになってしまいました。

でも。

今回は、暗い引きこもり生活ではありません。

私を支えてくれる人たちが、時々外へ出る機会を作ってくれます。

次の仕事のために身体を休めるべく、前向きに引きこもっています。

回復の兆しはなく、医師には「働くのは無理」と言われ、これから先のことについては、不安だらけですが。

何とか、ぼちぼち生きています。

 

前を見て

気分が落ちたり、急激に浮上したり、波に翻弄されていますが、少しずつ前進はしています。

この機会に、いろんなことに挑戦もしています。

たとえ働けなくても、私は私。

生きる価値がないことなんて、絶対にない。

無理やりにでもそう思い込んで、時々後ろを振り返りながらも、必死に前を見ています。

 

 

 

 

引きこもり、再び社会に出る2

再就職後の経過

 

それから1年半。

私たち二人は、得意分野で協力し合いながら、リーダーを務めました。

その間に、同い年のその子は、結婚して、妊娠しました。

そして、出産3か月前に、退職しました。

メンバー7人が、赤ちゃんの誕生を心待ちにしていました。

 

リーダーとして

 

そのころには、非常勤の後輩ができていました。

しかし、私より3つ年下。

その子以外に、非常勤はいません。

ここから、私が一人でリーダーを務めることになりました。

 

環境整備や、上司との交渉、すべて一人ですることになりました。

一部は、他の人に手伝ってもらうこともできたでしょう。

でも、私は人を頼るということを知りませんでした。

実をいうと、「甘える」ということも、よく分からないのです。

仕事は、基本的に一人で片づけてしまいます。

特に、このメンバーは、パソコンに疎い人が多く、私が作業するのが一番早かったからです。

 

しばらくは、なんとかうまく回していました。

しかし、異動してきた上司が、なかなか話の伝わらない人で。

悪い人ではないんです。

とても正義感のある人で。

ただ少し、手を抜きすぎたり、更に上の上司の意見を聞かず、勝手に判断してしまったりする人で。

その上、私はもともと話し言葉が苦手で。

いろいろと交渉することが、負担になってきました。

どうしても伝わらないときは、私が配属された時から知っている、他の上司が援護してくれたりして、何とかなっていました。

 

そんなストレスがだんだん積み重なり、私は精神科へ行きました。

(この辺りは、「発達障害の診断」に書いています)

 

再びの適応障害

 

その上司との間に立って調整役を果たしてくれていた、上司が異動になり。

間に立ってくれる人が、いなくなりました。

その4月中旬頃、私は急激に痩せ始めました。

 

6月の健康診断時に、前年から5キロ減っていました。

そこから、どんどん体重は減り。

最終的には、16キロ落ちました。

 

8月。

私は、完全にうつ状態に陥りました。

体力がついてこなくなりました。

それまで通っていた、雅楽会の練習にも、行けなくなりました。

病院では、抗うつ剤を処方してもらいました。

 

10月。

頭が回りすぎて、アイデアが止まらなくなったり。

異様に落ち込んで動けなくなったり、を繰り返すようになりました。

 

11月。

あまりにおかしいので、気分の浮き沈みを、簡単なグラフにして病院の先生に見せました。

双極性障害躁鬱病)Ⅱ型ではないか、と言われました。

気分安定剤のラミクタールが処方されました。

 

12月。

体力的には、もう限界でした。

精神的にも、ボロボロでした。

でも、職場は嫌いではありません。

むしろ、メンバーといるのが楽しかった。

この月は、気力で乗り切りました。

 

1月。

どんどん調子が悪くなっていきました。

それでも、気力だけで毎日仕事に行っていました。

 

2月。

検査で、てんかんの可能性が指摘されました。

体調が悪いのは、てんかんの影響かもしれない、と治療が始まりました。

このころには、気力だけではどうにもならず、週に2日休みをもらうようになっていました。

また、出勤した日も、途中で少し長めに休憩を取らせてもらったり、メンバーにはずいぶん迷惑をかけました。

 

3月。

2月と変わらず、無理やり出勤しては休むような状態でした。

この時期はめちゃくちゃ忙しく。

長期の療養休暇を申請しようと思いましたが、非常勤にはメンタル面での療養休暇の制度はありませんでした。

有休を利用して1カ月休むしか手はない、と言われ。

その問い合わせを上司にしてもらっていたため、人事課に呼び出されました。

 

人事課との面談で、異動する可能性が高くなりました。

異動の発表がある3月末まで、すごく不安な気持ちで過ごすことになってしまいました。

静岡てんかんセンター受診の記録

静岡てんかんセンターへ

 

6月9日、静岡てんかんセンターに行ってきました。

 

前日入りして、静岡駅近くのホテルに泊まり、当日朝からバスで病院まで移動。

病院の案内では、静岡駅からバスで30分と書いてあったのですが、実際には通学・通勤で乗り降りする人も多く、40分ほどかかりました。

ブログで45分と書いていらっしゃった方もいて、覚悟をしていたので助かりました(*^^)v

 

バス停が病院の玄関の目の前なのですごく便利です。

 

静岡てんかんセンターのすぐ近くに、支援学校が2つあるため、いろんな子たちがバスに乗ってきます。

イヤーマフをして、前後に揺れながらバス待ちしている子がいたり。

如月の後ろに座っていた子は、おそらく自閉症

仮面ライダーストレッチマン!」などと独り言のオンパレードで、最後の方は仮面ライダーがとんでもないものと対決させられていました(笑)

 

問診

 

バスを降りてすぐ、病院の玄関があり、入って左側に受付があります。

そこで受付を済ませて、スタッフステーションに書類を持っていきます。

そこで初診の人向けの説明を受けました。

 

予約の時間になって、診察室に呼ばれました。

初診は1日に2人の医師が、それぞれ3人まで担当することになっていて、私は2番目の予約でした。

私の問診と診察の担当は、総合診療部長の先生でした。

優しい雰囲気の先生で、わかりやすく聞き取りや説明をしてくれました。

 

問診の前に、ちょっとした雑談がありました。

まず「一人で来たの!?」と聞かれ。

「はい」と答えると。

「遠いところから、大変だったでしょう…」と言われました。

 

その後も、検査技師さんやらいろんな人に「一人で来たの!?」って言われまくったんですが。

31歳なのに、「一人で来たの!?」ってびっくりしなくても…。

見た目の問題でしょうかね(;´・ω・)

 

問診はとても細かくて、1時間近くじっくりと時間をかけて聞いてくれました。

説明しにくいこともたくさんありましたが、きちんとまとめて、「こういうことですね?」と確認しながらカルテを書いてくれました。

予診票も細かく見ながら、発達過程のことも聞いてくれました。

 

「(発達障害の)診断出たとき、どう思った?やっぱりほっとした?」と聞かれて。

「はい」と答えると。

「そりゃそうやろうねぇ。小さいころからこれだけ言われてきたんやもんねぇ」と(;^_^A

 

発達障害も診ていることもあり、発達障害に関する適切な理解があり、非常に助かりました。

また、小さいころから先生の指示を聞き逃していたことについても、不注意と発作の両方の面から考えてくれました。

 

「お仕事は?」と聞かれて、「してません。でも、アールブリュットの絵を描いています」と言うと。

「え?アール・・・?」と聞き返されて。

簡単に説明して、診察室内に貼ってあったアールブリュットのポストカードを指さして、「ああいうやつ」と答えました。

すると、先生が一気に興味を示し、「絵を見てみたい!」と言ったので、スマホでわわわのHPを見てもらいました。

 

すると、「これは素晴らしい!立派に仕事やねぇ」とのこと。

あ、一応仕事になるのね…。

しばらく、アールブリュットについていろいろ話をしました。

先生、めっちゃ興味津々。

院内にも、てんかん患者の絵画作品が多数展示されていましたし、そういった活動を支援しているので、いろいろ聞いてくれたのでしょう(*^^)v

 

他にも、障害年金を受けているかとか、手帳を取得しているかとか、自立支援医療を利用しているかとか、福祉サービスのことなども確認されました。

 

いろいろな話をして、まだ問診の段階で「薬が飲めないから困ったねぇ…これは大変だ」と言われてしまいました(;^ω^)

 

検査

 

そのあと、検査に行きました。

血液検査をして、その後脳波検査をしました。

脳波検査の技師さんが、緊張をほぐすために、電極を貼りながらいろいろと話しかけてくれます。

「和歌山から来た」と言うと、「和歌山!?遠いねぇ」と言われました(笑)

「どのくらいかかるの?」と聞かれたので、「4~5時間くらいですねぇ」と答えると、「え、そんなもんなの?もっとかかるかと思った」とのこと。

そりゃ、白浜や新宮のイメージですわw

和歌山市内は、梅田から1時間ちょっとあれば着きます。

「パンダを見に行きたい」というので、「パンダの何が珍しいのかわからない…和歌山では生まれて当たり前のもの」という話もしました(笑)

 

そして、準備が整って、脳波検査が始まりました。

今までにやったのと同じ内容です。

ただ、完全に眠ってしまうまで、検査を続けます。

なので、入眠に時間がかかる私は、1時間半ほど時間がかかりました。

それでも、何とか睡眠導入剤を使わずに眠ることができました。

前日の疲れと寝不足のおかげですね(;^_^A

 

その後は、MRIをとりました。

それが終わったのが12時30分。

スタッフステーションに戻ると、「1番の初診の患者さんが今診察中なので、今のうちにご飯を食べてきてください。13時半には戻ってくださいね」と言われました。

 

ごはん休憩

 

食堂の場所を教えてもらって、そこでササッとご飯を食べました。

この食堂は、お弁当の持ち込みも可で、休憩スペースとして利用することができます。

もちろん、簡単な食事を注文して食べることもできます。

私は、和風明太スパを食べました。

そこそこ美味しかったです。

 

ご飯を食べて、少し早かったけど待合に戻りました。

1番目の患者さんが出てきたのが、13時40分。

先生たちが中で何やら話し合っていて、診察室に呼ばれたのが14時ころでした。

 

診察・検査結果

 

結果は、脳波もMRIも異常なし。

MRIの画像を、見せてもらいました。

脳には何も怪しい部分はなく、「海馬も立派です」と言われました(笑)

 

脳の血流も見せてもらいましたが、問題はないとのこと。

ただ、ちょっと引っかかる部分がないわけではないようで、先生が「ここがなぁ…うーん」と言っていました。

 

「脳波検査中に発作が出た?」と言われて。

「ちょこちょこあった」と答えました。

「脳波には何も出てないんよなぁ…」と言いながら、脳波とビデオを再生しているときに、「あれ、これかな?」という部分がありました。

ほんの少し、体がピクッと動いたときでした。

脳波には、少しだけトゲが出ていましたが、それだけでは判断がつかない、とのこと。

 

「これがてんかんかどうか、今はまだ判断できないなぁ。てんかんだと確定したとしても、治療はできない…。」と。

あぁ、やっぱり、薬が飲めないと治療は無理でしたか…(´・ω・`)

 

「入院して、長い脳波検査をした方がいいかもしれない…どうしますか?やった方がいいとは思いますが…。てんかんかどうかはっきりさせることもできるし、もしてんかんじゃなかったとしても、これだけしんどいんやから、ほかの原因を探らないといけないし…」ということで。

入院してロング脳波を取ってもらうことにしました。

 

その場ではっきりと返事をしたので、「そうだよね、白黒はっきりつけたいタイプだもんね」と言われましたよ(;^_^A

 

筋肉のぴくつきや、数秒の意識消失はビデオを見てもわからないので、自分で気づいたときにボタンを押すよう指導されました。

そうすることで、その時の脳波を確認するそうです。

 

入院手続きと見学

 

そのあと、入院の手続きのため、入院病棟に向かい、病棟の見学と入院の予約をしてきました。

看護師長さんが対応してくれたのですが、男性の方で、とても優しい人でした(*´ω`*)

他にも、数人男性看護師がいました。

力仕事もけっこうあるんでしょうね…。

 

入院するにあたって、飲んでいる薬のことや、ほかの疾患のことも聞かれました。

自閉症スペクトラムADHD」と説明すると、師長さんが「ASD,ADHD」とメモしていました。

自閉症スペクトラムをASDと書くなんて、やるなぁ!

そんなところからも、発達障害に理解ありそうだ、大丈夫そうだと安心しました(笑)

 

見学中、入院中の患者さんがみんな仲いい感じで、廊下をうろうろしていて、ちょっと怖気づいてしまいました。

そこで、師長さんに「割とにぎやかな感じですけど、そういうの苦手なんです…」と言うと。

「その時によって、にぎやかだったり静かだったりするし、無理に部屋から出ろとは言わないから大丈夫。部屋も、できるだけ静かなように配慮はします」とのことでした。

 

あと、脳波検査は短くて2~3日、長くて10日とか14日くらいだとのことでしたが、2日に1度の入浴の時には電極を外して入浴させてくれるそうで、安心しました。

 

ロングビデオ脳波の場合、できるだけベッド上でビデオに映る位置にいないといけないので、洗濯はどうするの?と聞くと。

「お風呂に入ったときについでにするか、スタッフに声をかけて」と言われました。

 

今のところ、心配なことはすべて聞くことができました。

入院を前提に、いろいろ調べておいてよかった…。

 

どうなることやら…

 

というわけで、1か月後に入院です。

しかし、これでてんかんと確定しても、結局治療できないんだよな…。

この地球上に、如月のてんかんを治療できる人はいないってことなんだよな…。

つくづく面倒だな、この宇宙人の体は(;´・ω・)

引きこもり、再び社会に出る

再就職

 

3か月間、一応派遣会社に登録したりしながら、ほとんど引きこもった状態で過ごしました。

出かけようとすると、お腹が壊れるから、出かけるのも大変でした。

でも、私は「9月になったら働く!」と決めていました。

そして、周りにも言っていました。

 

8月初旬。

地元の公的機関の、アルバイト登録の案内が、その機関のHPに掲載されました。

もともと、目指していた職でもあり、私はすぐにアルバイト登録に行きました。

担当の、人事課で簡単なテストと簡単な面接を受け。

HPに掲載されてすぐだったようで、私一人でした。

元々営業だったということで、窓口でも構いませんと伝えました。

すぐに就職できるかわかりませんが、しばらく待機していてくださいと言われました。

 

職場見学

 

それから半月。

8月28日だったと思います。

その機関から連絡が来ました。

窓口、それも「顔」と言われる場所に空きがありますがどうですか?という内容でした。

私は、すぐOKしました。

他の候補者に断られ続けたのか、「断ってもらっても大丈夫なんですよ。本当にいいですか?」と言われました。

その理由は、働いていく中で分かりましたが(笑)

何度も確認されましたが、私は別にかまわないと思っていたので、その配属でお願いしました。

制服あわせも必要だし、一度見学に来てくださいと言われ。

次の日に、見学に行きました。

それが、今回異動する前の持ち場のメンバーとの出会いでした。

 

見学に行くと、メンバーに、「覚えることありすぎて無理!」と1日で辞めてしまった人がいるから見学に来てもらった、と言われました。

覚えるのは、私の得意分野です。

問題はないと思いました。

そして、働くメンバーの様子を見ていて、大丈夫だと思った私は、それを伝え。

正式に、採用になりました。

 

向いている仕事だった

 

公言していた通り、9月1日から働くことになりました。

この日から5年7か月。

私は働き続けることができました。

 

メンバーがそれぞれ個性的だったので、私が多少枠からはみ出していても問題なく。

いきなり窓口に座らされる、完全OJT方式の研修でしたが、メンバーが手取り足取り教えてくれるので、私でもなんとかついてくことができました。

 

そして、一番大きかったのは、一問一答形式で対応することが仕事だった、ということです。

私は、国語のテストの自由記述式のような問題が苦手です。

何を答えていいか、分からないからです。

逆に、算数のように、答えが一つに決まっている方が答えやすい。

この窓口は、「○○の手続きがしたい」→「○階の○○課です」という対応をする窓口でした。

そのため、聞かれるパターンさえ覚えてしまえば、記憶力をフル活用して働ける職場でした。

 

制度の変更

 

就職してから3か月。

アルバイトを減らし、非常勤という制度を新設する、という制度改革がありました。

初回の非常勤の合格定員は200名。

アルバイトは全員が受けるよう指示されたので、6~7倍の倍率になりました。

最終的に、私たち7人のメンバーから、受かったのは2人でした。

私は、そのうちの1人でした。

そして、4月から非常勤として働くことになりました。

 

その時に、関空の窓口で働いていたというお姉さんが、新しく配属されてきました。

私は、このお姉さんにいろんなことを教わりました。

4月から、私は非常勤になったので、アルバイトさんの上に立つ立場になりました。

メンバーも2人入れ替わり、私は早くも一人立ちしなければならなくなりました。

そんなとき、私は自分用にマニュアルを作りました。

 

環境整備

 

私は、周りの環境を、自分で整え始めました。

みんながやっている口伝のような方法は、私に合っていなかったから。

そのマニュアルを作って、先輩方に間違いがないか、見てもらいました。

そうすると、全員が「これ、欲しい」と言い出しました。

 

それをきっかけに、私は情報収集を始め、パソコンでデータ入力をしました。

しかし、マニュアルなど作ったことのない私が作ったものは少しみにくく。

そこで、関空で働いていたお姉さんが、きれいに体裁を整えてくれました。

その後も、そのお姉さんんがエクセルで地図を作ったりしているのを見て覚え(教わってはいない。門前の小僧習わぬ経を読む、です)ていきました。

このマニュアルで、全員が情報を共有できるようになりました。

 

また、そのお姉さんが2年目はリーダーを務めてくれました。

会議に出席したこともありました。

ずいぶんと、根本的な体制を確立してもらったと思います。

 

それから2年。

私が3年目に突入した時。

お姉さんは、看護師になるため、持ち場を卒業していきました。

そこからは、私と、もう一人、同い年の非常勤の子と、二人でリーダーの仕事をしました。

上司との交渉は、口の立つもう一人の子がしてくれました。

私は主に、データの処理や、窓口の仕事の環境整備を担当しました。

もう一人の子は、何かあったら課に怒鳴り込んで、上司にでも噛みつく勢いのある子でした(笑)

そうやって、うまく回っていました。

絵の新作「天の泉」完成!

絵の新作が完成しました!

「天の泉」です。

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本当はもう少し明るいきれいな色なんですが、どうにも黒っぽく写ってしまいます(;^_^A

 

実はこれ、失敗作を白い絵の具で塗りつぶしたものなんです。

塗りつぶしにも失敗し、水性ペンの色が混ざって、こんな色になってしまいました↓

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これはこれでいいんじゃない?

と思ったので、そのまま細密画を描いてみました。

 

↓描きはじめ

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↓完成

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色からイメージした絵です。

珍しく、題名は色を見てから決めました。

 

さて、次は何を描こうかなー。

社会人1年目でドロップアウト

引きこもり

 

会社を辞めた私は、人材派遣会社に登録しながら、3か月ほど引きこもり状態で過ごしました。

 

今から思えば、新卒で就職して起きたのは、発達障害の特性による適応障害だったのでしょう。

でも、そのころは自分が発達障害だなんて知りもしませんから、なぜみんなは何とか耐えてるのに、自分だけこんなにダメなんだろう…と悩みました。

 

意味の分からないい人間関係

 

先輩との付き合いも、謎でした。

女子だけの部署で、学校の部活の上下関係の、悪い部分をそのまま持ってきたような雰囲気なのです。

同期の子が、先輩を「○○さん」と呼びました。

普通の会社では、当たり前のことです。

が。

その子は、「さんじゃない、先輩と呼びなさい」と怒られていました。

 

普通ってなんですか

 

先輩の同行で営業に行った帰り。

事務所のビルの1階にあるコンビニで、先輩とお昼ご飯を買っていました。

私はさっさと選び終わり。

先輩はとても時間がかかっていました。

私は、先輩を待つべきかどうか、悩みました。

私なら、後輩に「先に戻って休憩していなさい」と言うからです。

でも、先輩は何も言いません。

だから、入口で一応待っていました。

先輩がレジを終えてこちらへ向かったので、私は入口を出て、つかず離れずの一定の距離のまま、ビルのエレベーターに先輩と一緒に乗りました。

そこで、先輩は言いました。

「いくらイヤやとか、嫌いやからって、普通待ってるもんやで。」

私は、「は?誰が嫌いだと言った??どれだけ気を使ってたと思ってるんだ!」と心の中で思いながら、「はい」としか言えませんでした。

 

向いていなかった

 

元々、脳の作りが違って、コミュニケーションや社会性に躓きがあるのですから、全く向いていない仕事でした。

先輩との付き合いも、独特過ぎて、意味が分かりませんでした。

学校の先輩後輩関係とも少し違う。

通常の社会人の先輩後輩の関係とも、違っているようで。

どうしていいのやら、途方に暮れていました。

 

所詮、私がついていけるような会社ではなかったのです。

周りの環境も、私に適していませんでした。

今考えると、それがよくわかります。



社会からドロップアウトして、これからどうしようか、不安でいっぱいでした。