kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

専門医に紹介してもらえることになった

ようやく専門医にかかれることになった

 

昨日は、メンタルクリニックの定期通院日でした。

この2週間、長かった!

待ちに待った通院日だった(笑)

 

いつものように、朝イチで診察券を出しに行って、「1時間待ちです」と言われたので、いったん帰宅。

そして、再び病院へ行きました。

病院まで徒歩1分なので、帰宅して待ち時間を過ごせるので、本当に助かっています。

 

誰?顔がわからない

 

病院に戻ったときに、すれ違った人に「おはようございます」ってあいさつされたんだけど。

誰かわからなくて、とっさに頭を下げて通り過ぎました。

誰?知ってる人?

歯医者さんの衛生士んさん?とか考えてたけど。

後から考えたら、もしかしてメンタルクリニックのお姉さんだったかも…。

 

診察と、紹介状

 

いつものように、気分表と絵のコピーを提出。

そして、今回はてんかんを大学病院で診てもらうため、紹介状を書いてほしいとお願いを書いた紙も渡しました。

 

紹介状を書いてほしいということに関しては、すぐOKが出ました。

「書くのはいいけど、すぐには書けないよ。2週間か…もしかしたらGW明けになるかも」とのこと。

書いてもらえるなら、別に急ぎはしません。

とりあえず、紹介してもらえるということで、ホッと一安心(#^^#)

 

絵のこと

 

そして、先生が絵のコピーを見ました。

「さくら」と「Mystic white」。

「今年は桜がまだ咲かないねぇ」という話をしていたところだったので、さくらの絵はナイスタイミングでした(笑)

そして、Mystic whiteについては、もう一つの意味、先生すぐ気づいていました。

うん、わかる人にはわかるよね(;^ω^)

 

ノートテイクが難しい

 

続いて、気分表の解読。

地元の観光名所でドラマの撮影をしていた話をして。

「書字障害にはフリクションペンが効果があるという話を聞いた」ということを話して。

ついでに、如月のノートテイクの困難さについても話しました。

 

黒板に書いてある文字を、ノートに書き写そうとすると、すごく時間がかかるんです。

その間に、黒板を消されてしまいます。

ひどいときは、3文字を覚えて写すのが精いっぱい。

それで、何度も黒板とノートを見比べるものだから、めちゃくちゃ時間がかかるんです。

 

その話をしたら、「不注意の極みだね」と言われました。

短期記憶が壊滅的だからなぁ…(´・ω・`)

絵を描く能力と、文字を書き写す能力と、やっぱり違うものなんだろうね、という結論になりました。

 

楽に生きることが、一番大事

 

そのあと、また紹介状の話に戻って。

先生が「医大に行ったら、ぼくらも知らんような神経系の検査もできるやろうし、行ってみるのもいいかもね。ただし、もし治せたとして、その後創作意欲が残るかどうかはわからない…」と。

もう、創作活動どうこうよりも、しんどいことに我慢がならない私は、ついに言いました。

「創作意欲なんかより、楽に生きることの方が大事!」と。

 

そうすると、先生が「そこまで覚悟があるなら、できるところまでやってみよう!」と。

いや、私はずっと覚悟してますよ?

渋ってたのは先生じゃないですか…。

そもそも、てんかん=創作意欲でもないし。

どうしてそれが先生の中で結びついているのか、謎です。

 

すれ違い

 

私の感覚としては、今描いている絵はてんかんに関係ないものです。

どちらかというと、発達障害由来のものだと思っています。

だから、もし原因がわかって、発作が治まったとしても、創作意欲は消えないと思っています。

どこからくるものかわかりませんが、自信があります。

 

それに、働くことができないから、絵を描いて少ないながらも収入を得ようとしているのです。

少しでも体が楽になって、障害者枠でも働けるなら、その方が、今のところは賃金を得る手段として、一番手っ取り早いのです。

もちろん、絵も描き続けますけど。

 

そんなこんなで、やっぱり認識のすれ違いを感じながらも、とりあえず治療上、一歩前進ということで、ホッとしています。

診断書をもらったら、医大の予約を取って、検査して…。

しばらく時間がかかりますが、ぼちぼちこなしていこうと思います。

小学1年生のときの困りごと

  小学校1年生のころのこと

 

 

幼稚園を卒業して、私は小学校に入学しました。

幼稚園のすぐ向かい側に小学校がありました。

幼稚園の頃から、一年生になったらあの建物へ行くんだよと言われていたので、場所への不安はありませんでした。

幼稚園のメンバーも、ほとんどが同じ学校へ行くので、あまり変わり映えしませんでした。

 

入学式

 

私は、体育館に置かれた折りたたみ椅子に、座りました。

クラスの人数が奇数で、4人ずつ横に並んでたのですが、名前の順で一番最後だった私は、一人列からはみ出してしまい、一人で座ることになってしまいました。

隣りに誰もいなかったので、却ってよかったかもしれません(笑)

椅子が大きすぎるので、私は式の間中、足をぶらぶらさせていました。

何をしているのかよくわからず、暇だったからです。

後で、「なんでちゃんと座っていなかったの!」と母におこられました。

 

式の後は、教室に移動しました。

私は1年1組で、担任の先生は学年主任の、ベテランの先生でした。

全部で、4クラスありました。

自分の名前が書いてある机に座りました。

机に名前を貼っておいてくれたので、後々の学校生活で助かりました。

私は、自分の席がどこだかわからなくなるのです…。

 

机には、教科書やお道具箱が積み上げられていました。

ランドセルは、後ろのロッカーにいれました。

そこにも名前が貼ってありました。

一つのロッカーを、二人の児童で使います。

 

先生が前でなにやらいろいろと話し。

教科書が全部あるか、教材が全部あるか、チェックしました。

算数用のタイルの教材も、チェックしました。

 

そのあとは、明日から元気に登校しましょうとかなんとか言われて、解散になったと思います。

こうして、私の小学校生活が始まりました。

 

学校生活

 

最初は、身体測定があったり、学校探検をしたりして、お勉強はほとんどありませんでした。

学校探検は、みんなで名前の順に、男女1列ずつの2列に並んで、先生の後を歩いていきました。

トイレや、給食室、牛乳を取りに行く場所、図書室、保健室、体育館、運動場など、いろいろ見て歩きました。

 

そうして、少しずつ「学校」という場所を理解し、生活に慣れていきました。

幼稚園のように、「おやつ」がないことも分かりました(笑)

慣れたころ、お勉強が始まりました。

あいうえお50音を習ったり。

数字を習ったりしました。

このころは、ちゃんとお勉強にはついていけていました。

 

給食という大問題

 

そして、給食も始まりました。

給食当番が、班ごとに週替わりで回ってきます。

小のおかずはボールに入っていて、一人で運んでみんなに配り。

大のおかずは、バケツに入っていて、二人で運びました。

ごはんやパンは二人で運び。

牛乳も、二人で運びました。

牛乳は、牛乳瓶に入っていたので、二人で運んでも、メチャクチャ重かった。

エプロンも、自分でつけなくてはなりません。

後ろでちょうちょ結びをするタイプでした。

後ろにある紐を結ぶのは、私には難しいことでした。

そのため、エプロンをつけるのも手間取り、せかされました。

私にとっては、すごくつらい当番でした。

弟の入学の頃には、1年・2年生のエプロンは、結ばなくていいタイプに変わりました。

 

そして。

食べ物の好き嫌いはあまりなかったのですが。

もともと小食の私には、給食は量が多すぎました。

赤ちゃんの頃からミルクをあまり飲まず、その後もご飯を少量しか食べてこなかったのです。

給食は、「残してはいけない」と指導される、苦痛の場でした。

牛乳の量は200mlと多く、とても飲みきれませんでした。

1年生から6年生まで、全員が200ml飲むなんて、無理な話です。

 

私は、母に牛乳が全部飲めなくて困ると言いました。

母は「先生に全部は飲めないと言いなさい」、と言いましたが、気の弱い私はそんなこと、言えませんでした。

そして、飲めないから一本まるまる、牛乳箱へ返すようになりました。

これは、多分母に言われてそうしたのだと思います。

そのあと、家庭訪問の時に、母が先生に相談しました。

それからは、半分でもいいからとりあえず飲もう、どうしても飲めなかったら、残してもいいということになり。

少しずつ、飲める量も増えていきました。

好き嫌いで言っているのではないので、許されたのかもしれません。

 

とにかく、学校での一番の困りごとは、給食の量が多いことでした。


お友達との関係

 

1年生のとき、特に決まった友達もなく、適当に誰かにまじって遊んでいたと思います。

仲良しの子は、いませんでした。

 

ある日、下駄箱によじ登って遊んでいる女子数名と一緒に、私も下駄箱に登って遊んでいました。

他の子が、「先生きた!」といって、みんなはさっと下駄箱から離れました。

下駄箱に登ることは、禁止されていたからです。

どんくさかった私は、下駄箱に取り残されてしまいました。

そして、あわてて降りた拍子に、木製の下駄箱で手をすりむきました。

それが、先生に見つかってしまいました。

先生はみんなに一言、「下駄箱に登ったらあかんって言ったやろう?」と言っただけでした。

そのあと、先生はけがをした私を、保健室に連れて行きました。

その時、「だから(怪我をするから)登ったらあかんって言ったやろう?アホやなぁ。」といいました。

「アホ」は大阪では、そんなにキツイ意味ではありませんが、私は傷つきました。

【他の子も登っていたのに、なぜ私だけがアホって言われるのか】

多分、そう思ったんだと思います。

その時は、そこまで分析できる力はありませんでした。

ふとした言葉で、こどもは傷つきます。

気を付けたいものです。

 

どろんこ遊び

 

ある天気のいい日、一度だけ、先生は校庭の砂場で、泥んこ遊びをさせてくれました。

先生が、校舎から長いホースを引っ張ってきて、水をまきました。

みんな、大喜びで遊びました。

すごく楽しかった記憶があります。


得意だったこと

 

1年生では、ハーモニカを習いました。

幼稚園の時に、吹けばいいだけの、「ド・ミ・ソ」だけは習っていたので、そんなに苦労はしませんでした。

今度は、吸って音を出す音を習いました。

すでに絶対音感を身に付けていたので、難なくクリアしました。

 

そして、新1年生を迎えるための出し物をする時には、ハーモニカ組に入りました。

毎年、新1年生を、新2年生が迎えます。

 

1年生が終わった時。

幼馴染の男の子が一人、転校していきました。


顔と名前が一致しない

 

私は今でもそうですが、人の名前と顔を一致させるのに、非常に時間がかかります。

1年間同じクラスだった子の名前も、ほとんど覚えられませんでした。

というより、覚える気もなかったのかもしれません。

 

こんな感じの、1年生でした。

世界自閉症啓発デー&発達障害啓発週間によせて

国連が定めた啓発デー

 

4月2日。

今日は、世界自閉症啓発デーです。

そして、4月2日~8日は、発達障害啓発週間です。

 

この機会に、ぜひ自閉症について、発達障害について知っていただきたいと思います。

私のブログでも、自閉症やその他の発達障害について、簡単に解説した記事を載せています。

また、たくさんの当事者の方、自閉症発達障害のお子さんを持つ保護者の方、専門家の方が、様々な方法で情報を発信していらっしゃいます。

 

まだまだ浸透していない、自閉症の正しい理解

 

自閉症って、何だろう?

名前を聞いたことはあるけれど…。

病気だと思ってたけど、生まれつきの障害だったんだ…。

引きこもりのことだと思ってたけど、違うんだ…。

多数派さんとは、いろんなことがちょっと違うんだね。

どんな手助けが必要なのかな?

 

全部完璧に理解して、とは言いません。

そんなこと、無理です。

健常者同士であっても、完璧に理解することなんて、不可能なんですから。

 

まずは少しだけ、知ってください

 

ほんのちょっとでいいんです。

ほんのちょっとだけ、私たちのことを知ってください。

この地球上に、まるで宇宙から来たかのように、一生懸命地球になじもうと努力して生きている少数派さんが存在すること。

そのことを、知ってほしいのです。

 

障害があっても、私たちは何もわからないわけではありません。

きちんといろんなことを理解していますし、喜怒哀楽、いろんな感情を多数派さんと同じように持ち合わせています。

間違った認識を持たれたり、勘違いされたら悲しくなります。

 

多数派さんから見ると、不思議な行動もたくさんあると思います。

例えば、こんな風に…↓

 

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私たちは、多数派さんとは違う感覚に苦しみます。

しかし、楽しいこと、美しいものを見つけるのが得意だったりします。

 

障害はかわいそうではない

 

決して、「障害があるから可哀想」ではないんです。

たった一人でも、理解してくれる人がいれば、私たちは幸せに生きていけます。

理解してくれる人が増えれば、もっと幸せに生きていけます。

 

幸せを手にすることを願うのは、健常者も、障害者も同じです。

 

「違う世界に生きる人」を知って。

「違う世界に生きる人」を排除することなく。

「違う世界に生きる人」と共存してほしい。

私は、そう願っていますし、そうなるようできることをしていきたいと思います。

乳幼児期の運動発達の遅れ(シャッフリング・ベビー)

乳幼児期の運動発達の遅れ

 

発達障害・乳幼児期」のテーマで、以前にも書きましたが。

私は、赤ちゃんの頃、運動面での発達が遅れ気味、と言われ。

少しの間、療育に通ったことがあります。

 

シャッフリング・ベビー

 

以前、ネットを見ていて、「シャッフリング・ベビー」という言葉を発見。

そこには、運動発達の遅れ、と書かれていて。

詳しく調べてみると。

 

・寝返りをしない

・ハイハイをしない

・ハイハイをする代わりに、足とおしりを使って、ずりずりと床を移動する(手は使わない)

・つかまり立ちや、歩行開始が遅れる、歩行開始が1歳半~2歳になることが多い

・初期の運動発達に遅れは見られるが、その後障害が残ることはない

(私は専門家ではありませんので、詳しくはご自身でお調べください)

 

これ、完全に1歳頃の私の状態です…。

私も、寝返りは一度もしなかったそうです。

自分で起き上がることもできず、朝になると母が私を起こして座らせていた、と。

そして、ハイハイをせず、足とお尻だけで移動。

 

おそらく、私も「シャッフリング・ベビー」だったのです。

因みに、シャッフリングとは、床をずるずる移動するという意味で。

赤ちゃんの何パーセントかに見られるそうです。

 

専門家の診断

 

そんな状態だったのと、身体を突っ張って硬直させるので、てんかんや脳性まひの疑いもあり、乳幼児健診でひっかかりました。

そして、母子医療センターで診察を受けることに。

当時も現在も、最先端の医療センターですね。

 

そこで診察を受けて。

ハイハイしない子は、時々いる、と説明されたそうで。

でも、運動が遅れ気味で、当時の日本では、療育の対象にはならないけれど。

ヨーロッパでは療育の対象になっている、とのことで、歩行が確立するまで、療育に通うよう、先生に勧められたのでした…。

 

訓練の成果か、1歳3か月で歩行開始。

放っておかれていたら、歩行開始はもっと遅かったかもしれません。

 

シャッフリング・ベビー自体は、発達障害とは関係がないようです。

カテゴリがないので、発達障害に含めて書いていますが…。

 

生粋の少数派

 

生まれたときから少数派。

育ってみても少数派。

生粋の少数派育ち。

もう、こうなったら、少数派の人生を謳歌してやります(笑)

絵の新作「かぶと」完成!

絵の新作が完成しました!

お題は「かぶと」です。

 

孫市祭りのカメラマンをしてきましたからね、かぶとを描きました。

子どもの日も近いですしね(*^^)v

 

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カラフルな兜。

虹色の兜になりました。

前立(まえたて)は、雑賀衆のシンボル、ヤタガラス。

 

↓線画

 

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↓完成

 

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ずーっと、描きたいお題の中にストックされていて。

祭に触発されて、ようやく形にすることができました。

 

次は、また細密画だなー。

何を描こうかな(*'▽')

5歳・幼稚園2年目

5歳のころ

 

幼稚園も二年目。

上級生になりました。

今度は、私は竹ぐみさんになりました。

帽子も、黄緑色になりました。

この年だったかな、「けし」ぐみさんが、なくなりました。

「けし」の一部は麻薬だとかなんとか、意味の分からない理由でなくなりました。

 

幼稚園に慣れた

 

幼稚園の1年間の行事を経験した私は、2年目は何とか不安も少なく迎えることができました。

先生は、少し厳しい先生に変わりました。

クラスメイトも変わりましたが、周りの子に興味がなかった私には何でもないことでした。

 

クラスメイトにいじめられた

 

ただ、私とロッカーが上下に並んでいる女の子が、荷物を取りに行くたびに私の頭を叩くという事件がありました。

私は、母にそれが嫌だと言いました。

母は、「先生に言いなさい」と言いましたが、幼稚園での活動中、いつ先生にそれを言えばいいのか、タイミングが全く分かりませんでした。

 

そして、ついにある日、先生がその現場を目撃。

その女の子は、先生に叱られました。

私は、やっと苦痛から逃れることができたと安心しました。

周りの子は、叱られて泣いている女の子を慰めていました。

悪いことをして叱られているのに、泣いていれば可哀想で、いじめられても泣いていなければ可哀想ではないのかと、ずいぶん不思議に思いました。

 

実はこの女の子、小学校3・4年生の時に、私が一番仲よくなった子です。

不思議なもんですね(笑)

 

障害のある子も一緒

 

私のクラスメイトには、知的障害のある男の子もいました。

統合教育が進んでいる地域だったみたいです。

周りのみんなも、障害があることは、なんとなくですが分かっていました。

それでも、みんな仲良しでした。

ただ、この年齢ではあまり差を感じることはありませんでした。

小学校に上がると、格段に差が出てしまいましたが。

この子も、小学校3年・4年生で同じクラスになりました。

 

発表会

 

2年目の子たちは、発表会で音楽をすることになっていました。

1年目は、劇です。

記憶はありません(笑)

その音楽会で、私は鉄琴(ヴィブラフォン)を担当することになりました。

このころ、私はピアノを習い始めていたので、その担当になったのだとおもいます。

ドレミは分かっていたし、先生が教えてくれましたが、なぜか私はきちんと叩くことができませんでした。

おそらく、周りの演奏がめちゃくちゃで(幼稚園児だからリズム感もなく、仕方ないのですが)、合奏になると訳が分からなくなっていたのだとおもいます。

そこで、先生は、木琴(シロフォン)担当の女の子に、昼休みに私に教えるように言いました。

その女の子は、一応教えてくれましたが、その子だって遊びに行きたいのです。

すぐ、「もうできたことにしよう」と言って、先生の所へ私を連れて行きました。

そして、その子が先生に、「できた」とうそをつきました。

先生は私にも確認しましたが、私は頷くしかできませんでした。

 

この発表会を録画したビデオを、大人になってから見ました。

そこでは、私はクラス一といっても過言でないくらい、リズム感が良いのです。

裏拍も、ナイスタイミングでたたけています(吹奏楽部でも群を抜いてリズム感がよく、本職の先生にも認められていたので、間違いありません)。

周りがバラバラなのです。

私が間違っていたのではなく、私が異様に正確だったため、先生が周りからずれていると思ってしまったのかもしれません。


ある男の子の思い出

 

そんな幼稚園生活の中で、一人の男の子が、私の面倒をよく見てくれました。

どうやら、大人たちの話からすると、その子は近所の「乳児園」から来ていたそうです。

乳児園とは、児童養護施設のことです。

大きくなってから、知りました。

他にも何人か、そんな子たちがいました。

凄く優しい男の子で、この子のことは今でも覚えています。

一人でおどおどしていた私を見かねたのか、どこへ行くにも手をつないで連れて行ってくれました。

何かをする時も、教えてくれました。

 

きっと、乳児園でもっと小さい子たちの面倒を見ていたのでしょう。

上手に、私の相手をしてくれました。

先生も、「二人とも、いつも一緒やなぁ、仲良いなぁ。」と認めるほど。

とても優しい男の子でした。

この子がいなければ、幼稚園生活は良い記憶がほとんど残らなかったかもしれません。

彼には、感謝しています。

 

大人たちは、「あの子、乳児園から来てるんやろう?」と差別的な雰囲気で話していました。

私には、優しい男の子が、何か悪いことをしたのだろうか?と不思議でたまりませんでした。

 

その男の子は、幼稚園を卒業すると乳児園も卒業し、小学生以上が対象の児童養護施設に移ったため、幼稚園卒業以来ずっと会っていません。

 

卒園

 

そうして私は、無事に幼稚園を卒園しました。

 

卒園式では、飴をたくさんつけたリボンを輪っかにした、レイのようなものをもらいました。

それを持ったまま、新幹線に乗り、ディズニーランドに行ったことを覚えています。

4歳・幼稚園入園

幼稚園へ

 

4歳になってすぐ、私は幼稚園に入園しました。

二年保育なのですが、私は2月生まれのため、4歳になってすぐ入園することになりました。

4月・5月生まれの子と比べると、ほぼ1歳違うので、大きな差です。

周りの子は、すごくお兄さんお姉さんに思えました。

 

入園式の日。

私は、近所の中の良い子3~4人と一緒に入園しました。

同い年の他の子は、みんな男の子。

ずっと、この男の子たちと遊んでいました。

時々、その子たちのお姉さんや、年下の女の子とも遊びましたが、メインは男の子たちでした。

そのかわり、仲間はずれにもされましたが(;^_^A

 

入園式では、まずクラスわけをされ。

全部で5クラスあった気がします。

2年目は、4クラスに減ったかな?

私は、ゆりぐみさんでした。

白い帽子で、裏が黄色の帽子をかぶりました。

幼稚園への行き帰りは裏返して黄色にする帽子でした。

きくぐみさんだけは、裏も表も黄色です(仕方ない・笑)

 

よくわからなかった、幼稚園

 

先生は、いつもにこにこしている優しい先生でした。

私は、良くわからないまま、入園式を済ませ、教室にいました。

「これから毎日幼稚園に行く」ということは、母に教え込まれていたのでなんとなく分かっていましたが、何のために行くのかはさっぱりわからないまま。

とにかく、言われたことはしなければならないのだろうと、そんな風に思っていました。

 

だから、登園渋りもなく、毎日男の子たちと一緒に、幼稚園に行きました。

ただ、幼稚園ではよく泣いたようです。

家庭訪問時に、母がそう言われたらしいです。

「子供らしい子供」と言われたそうですが(笑)

 

不安で仕方なかった

 

なぜ、泣いていたのか。

それは、とにかく不安だったからです。

みんなが何をしているのか分からない。

自由時間も、何をしていいかわからない。

意味の分からないことだらけで、不安おばけがたくさん出ました。

今、当時のことを思い出すと、とにかく不安だったことが理解できます。

 

感覚過敏

 

 

幼稚園で、誰かと一緒に遊んだ記憶が、ほとんどありません。

先生が絵本を読んでくれたり。

灰色の油粘土で遊んだりしました。

この油粘土が、ねちゃねちゃして気持ち悪くて、匂いも嫌だったことを憶えています。

 

夏には、全員にゴム製のビーチサンダルが配られました。

夏には水遊びや、プールがあるので。

足の大きさに合わせて買うので、一人ずつ先生に呼ばれて、ためし履きをした記憶があります。

しかし、このビーチサンダル、乾きやすいように、足の裏に当たる部分が小さな点々の突起が沢山あって。

しかも、鼻緒もかたいゴム素材なので、足が痛くてたまりませんでした。

 

夏になると、帽子も麦わら帽子に変わります。

私は、麦わら帽子が大嫌いでした。

真ん中の、頭のてっぺんの部分が、ちくちくして痛いからです。

 

サンダルも、麦わら帽子も、痛いから嫌だ、と母に言ったのですが、みんなが使う決まりだからと、むりやり使わされました。

母には、どちらも「痛い」ということが、よくわからなかったのだと思います。

 

あと、毎日かぶる帽子のあごにかけるゴムが大嫌いでした。

首を絞められるような不快感がありました。

いまでも、首回りに何かを巻くのは苦手です。

ハイネックの服も、首回りが緩くないと着られません。

そのため、ずっとゴムを手で引っ張っていました。

当然、ゴムはすぐ伸びてびろんびろんになりました。

首が締まる感覚が分からない母に、ずいぶん叱られました。

 

指示を聞いていない

 

先生の指示には一応従っていましたが、先生の指示を聞いていないことがよくありました。

一つ例を挙げると。

クリスマスの時期、サンタさんにプレゼントを入れてもらう靴下を、画用紙で作りました。

私は、配られた靴下型の真っ赤な画用紙をじっと見ていました。

「これをどうするのかな~」というようなことを考えていたと思います。

 

ふと気が付くと。

周りの子たちは、なにやら作業を始めています。

先生の指示があったはずなのですが、私はそのことに全く気付いていませんでした。

あわてて、私は周りの子たちがしている行動を観察します。

そして、数人の行動を見て、「どうやらティッシュを丸めて靴下の入口に付けているようだ」ということに気づきます。

何人かを見て、その子たちの行動の共通点をさがして、答えを見つけていたのです。

そうやって、しばらく観察した後、私は作業にとりかかります。

遅れて作業に取り掛かりますが、作業自体は非常に早かったので、いつも1番に作業が終わっていました。

だから、先生も、私に指示が通っていないとは、思ってもいなかったでしょう。

 

単にのんびりした子?

 

参観日の様子を、母が書き記していましたが、そこにも「周りを見てから作業を始めるから、何をするにも一歩遅れる子。のろまなカメさん。」と書かれていました。

親も、単にのんびりした子だ、くらいにしか思っていなかったようですσ(^_^;)

 

だから、周りから見ても困っているようには見えなかったのかもしれません。

今、幼稚園に行っていたら、もしかしたら「気になる子」として保護者に報告されていたかもしれませんね。


とても悲しかったこと

 

もう一つ、おまけ。

幼稚園に、消防車が2台やってきたことがあります。

こどもたちに、消防車の見学をさせてくれました。

そのあと、教室で、みんなで消防車の絵を描きました。

先生が、自由に描いていいと言ったので、私は私の思う消防車を描きました。

一枚の画用紙に、3台ほど描いたと思います。

一生懸命、熱中して描いていました。

 

突然、先生が目の前に現れて、「これ、あかんわ」と言いました。

何がいけなかったのか。

「消防車に、顔かいたらあかんよ。描きなおそうか。」先生は言いました。

そう、私は消防車に、顔を描いていたのです。

今でいう、トーマスみたいに。

自由に描いていいと言ったから、自分の思うままに描いたのに。

私は、自分が全否定されたと感じて、悲しくなりました。

クレヨンも、赤が二本(たぶん片方は朱色だったのでしょうが、識別できていませんでした)あったのに、描き直したせいで、赤だけが極端に減って、他の色と長さが違ってしまったことも、不満でした。