kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

2~3歳のころ

2~3歳のころのこと

 

2歳頃から、鮮明な記憶が一気に増えていきます。

このころに見た夢の内容も、覚えています。

 

2歳半のころ

 

もうすぐ弟が生まれる、ということで、家族で出かける機会が減るだろうからと、遊園地へ連れて行ってもらいました。

ステージショーの席のところで、おにぎり屋さんで買ったおにぎりを食べ、ソフトクリームを食べたことを覚えています。

そして、ポールを中心にして回る、ヘリコプター型の乗り物に乗ったことを覚えています。

あの、ディズニーのダンボの乗り物みたいなやつです。

ヘリコプターには、父親と乗りました。

私は、ハンドルを握って離しませんでした(笑)


2歳8か月のころ

 

弟が生まれる直前でした。

母方の祖母はもういなかったので、弟が生まれたら父方の実家に帰ることになっていました。

私と父は、一足先に祖母の家へ。

その時、はじめてチャイルドシートにくくりつけられました。

いつも、車の中では母が私を見ていましたが、父と二人なので、運転中に危険な目にあわないように。

いつもよりずっと視線が高くなり、視界が開けて、フロントガラスの向こうの景色が見えるのが新鮮で、泣くこともなくおとなしく座っていたことを、はっきり覚えています。

 

弟が生まれた

 

 

弟が生まれました。

母だけ先に、父の実家へ帰ってきました。

弟は黄疸でまだ産院にいたので、母は毎日母乳を絞って持って行っていました。

私も、それについて行ったことがあります。

弟は、保育器の中に入れられていました。

 

しばらくして、弟も退院して父の実家へ来ました。

 

弟は新生児ですから、昼夜関係なく泣きます。

同じ部屋で家族で寝ていたので、夜中にその泣き声で私も目覚めてしまうという毎日が続きました。

母は、当然弟の世話をしています。

私は、それが嫌で泣きました。

やきもちを焼いていたんですね。

(その時は嫌だとか、自分の感情はよくわかっていませんでした)

泣く私を寝かしつけようと、父が私のお腹をトントンしてくれました。

それが気に入らない私は、「お母さん、トントン!」と繰り返しながら、泣き叫びました。


小さくても、状況はわかっている

 

でも、ちゃんと頭では分かっているんです。

赤ちゃんがいるんだから、わがままを言ってはいけない

お父さんがちゃんと見てくれているんだから、お母さんを呼んではいけない。

心の中では、「おとうさん、ごめん。でも、おかあさんがいいのー!」と思いながら泣いていました。

 

小さくても、ちゃんと分かっているんです。

でも、まだ自分で自分をコントロールできないだけなんです。

自分の中に天邪鬼が住んでいる感じ、といったところでしょうか。

単に泣き叫んでいるのではなく、ちゃんと本人なりの理由があるのです。

そしてそれを、受け止めてほしいのです。


3歳のころ

 

3歳になったころ。

母は台所で、お昼ご飯のおにぎりを作っていました。

私は、それをすぐ横で見ていました。

そのとき、弟が泣き出しました。

母は私に、「ちょっとヒロ(弟のこと)トントンしてきて。」と言いました。

私は、おにぎりを作っているところを観察していたかったので、「イヤ」と言いました。

それでも、母に促されて、弟をあやしに行きました。

すごく不満だったことを覚えています。


記憶力のよさ

 

わたしにとって、こういう記憶はごく当たり前なのですが、周りの人に言うと驚かれます。

そんな昔のことまで覚えているのか、と。

今でも、○年前の○月○日、○○があった、なんていうとびっくりされます(笑)

大したことではありません。

だって、頭の中には、DVDが沢山、図書館のように理路整然と、カレンダー順に並んでいるのですから…。

絵の新作「Mystic white」

細密画の新作

 

 

絵の新作が完成しました!

題名は「Mystic White」です。

 

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今回は、細密画でシルエットにしてみました。

なんかいい感じになったんじゃないかなー!

 

↓りんかく

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↓完成

 

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Mystic white。

神秘的な白。

白黒の絵の白の部分と、もう一つ別の意味があります。

その意味は…ナイショ(笑)

2歳ころ・脱走事件

2歳ころ

歩けるようになってからは、特に検診などで引っかかることもなく。

順調に成長しました。

スカートを嫌がった以外は…。

ずっとズボンをはいていたので、「これは着るもんじゃない!」と抵抗したのだとおもいます(笑)

結局父親に、可愛い、良く似合うとおだてられて、しぶしぶ着たそうです。

 

脱走事件

 

ただ、一つだけ事件がありました。

私の記憶にはありませんが。

一度だけ脱走しました。

 

祖父が、病院に入院して。

定期的に、母と一緒に、歩いてお見舞いに行っていたのです。

そして、祖父は退院して自宅に戻りました。

 

祖父が自宅に戻ったあと。

母が、「おじいちゃんのところに行くよ。」と私に言いました。

団地の3階に住んでいたので、「階段を降りて、下で待ってて」と私に言ったらしいのです。

家の鍵を閉めて、1階まで降りた母は、びっくりしました。

待ってて、と言われたはずの、私がいなかったからです。

あわてた母は、「おじいちゃんのところに行く」と言ったから、もしかしたら祖父宅に行ったのかもしれない、と祖父のところへ行きました。

でも、私はいませんでした。

 

母と祖父は、私が行きそうなところをあちこち探し回り(大きな団地だったので、公園も沢山ありました)。見つからないまま家に戻ると。

近所の知り合いのおばさんと一緒に、私がいたそうです。

おばさんに話を聞くと、「○○ちゃん(私の本名)が一人で道路を歩いているから、どうしたのかと思って声をかけた」ということだったらしいのです。

 

どこで見つかったかというと、なんと、祖父が入院していた病院に行く道の途中。

「おかあさんは?」と聞かれた私は、泣きもせず、「いない~!」と答えて平気でいたそうです。

祖父は死ぬまで、この時のことを憶えていて。

「一人でいて泣きもしない、なんて賢い子だと思った」そうです(笑)

 

小さかったのに、道順はちゃんと覚えていたんです。

これが、発達障害と関連があるのかはわかりません。

が、私は今でも、一度通った道は必ず覚えています。

空間認識力も高いようで。

そういったことから、関連は強いように思います。

 

以上、本人に脱走の意思はない、脱走事件でした。

誕生~1歳半ころ(療育のことも)

如月の乳幼児期

母親から聞いた、私の乳幼児期の様子を書き記したいと思います。

私は、発達障害の診断を受けたのは大人になってからですが、幼いころから手のかかる子だったようです。

 

 

誕生

 

私は、昭和も終わりのころ、真冬に生まれました。

出生時の体重は、2200g。

今でいう、低出生体重児でした。

冬も冬、雪が積もるような寒さだったうえ、小さく生まれたので、すぐ保育器に入れられたそうです。

 

哺乳力が弱い

 

産院でミルクを飲まされるわけですが。

どうやら、私は哺乳力が弱かったようで、他の赤ちゃんに比べて飲む量も少なく、スピードも遅かったそうです。

あまりにも飲まないので、看護師さんが障害児用の哺乳瓶(育児日記にはそう書いてありましたが、おそらく口唇口蓋裂児用のものかと)を用意してくれたようです。

それでも、嫌がってほとんどミルクを飲まかったとか。

 

両親も、はじめての育児です。

産院にいる間も、その後の検診などでも、「もっと飲ませるように」と指導はされたそうですが。

まぁ、こんなものかと思った部分もあったと思います。

今から思えば、口腔内の過敏のためだったのかもしれない、と思います。

 

この口腔内の過敏が、大人になった今でもいろいろ邪魔をしてくれます。

特に、歯医者さんで。

それはまた、別の機会に。

 

生後半年

 

そのまま、半年ほどは全体的には大きな問題はなく育ちました。

ただ、そのあとに、昼夜逆転があって、夜中に泣き叫んで寝なかったりはしましたが、これはまぁ、普通の赤ちゃんでもあることです。

通常の形の、四つん這いでのハイハイをしなかったり。

(おしりをつけて体育座りで、足だけを使ってずりずり移動してたらしい。手の過敏だったのか?)

当時の育児書から外れた行動は、あったようです。

あと、ひきつけと思われるようなことも、一度あって、脳波検査もしたことがあるとか。

 

乳幼児健診でひっかかり、療育へ

 

乳幼児検診で引っかかりました。

身体の左右で、片側の動きが鈍い、と。

脳性まひの可能性ということで、専門の病院で診てもらったそうです。

 

そこでは、あれやこれや、ひっくり返したりしながら診察され。

「左右の差はあまり心配するほどのものではない。ただ、運動面の発達が遅れ気味」と言われたそうです。

「知能は月齢より進んでいるくらいなのに、この子は体の動かし方を知らない。困った子だね。」と言われ。

さらに、療育をするかどうかの話にもなったそうです。

医師は、「欧米であれば、この遅れなら療育の対象になる」と言ったそうで、両親は私を療育に連れて行くことに決めました。

 

肢体不自由児の療育

 

療育は平日だったので、もう定年していた祖父が車で連れて行ってくれたみたいです。

当時、療育を受けている子供たちは、肢体不自由など、重度の障害を持っている子たちでした。

私のように、一見どこに問題があるのかわからない子はいなかったそうで。

母親は、少し肩身の狭い思いをしたようです。

それでも、「歩けるようになるまで」ということで、通いました。

 

しばらく療育園へ通った私は、歩く訓練をして。

無事、一人で歩けるようになりました。

医師の診察も受け、「もう大丈夫」ということで、療育を卒業。

 

これが、一歳すぎのころのことでした。

単なる運動音痴だったのか。

発達障害の症状(協調運動障害)だったのか。

この後も、少々不器用ながら、なんとか成長していきました。

 

一歳半のころの記憶

 

一歳半の頃。

祖父母の家の、一段の段差を、はじめて一人で降りたときのことを覚えています。

階段より少し高い段差で。

当時の私から見たら、腰の高さくらいあって。

とても、怖かった記憶があります。

それを、一人で越えたときの嬉しさはすごくて。

あわてて、キーキー言いながら(まだ言葉は話せませんので・笑)、母親を呼びに行き。

「もう、何?」と言われながらも、母親の手を引っ張って、段差のところまで連れて行き。

実際に段差を降りて見せて、ほめられて喜んだことを、はっきりと思い出せます。



検診で引っかかっていた

 

大人になって発達障害が発覚した人のほとんどが、乳幼児健診をすり抜けているようですが、私は一応検診で引っかかって、療育にも行っています。

それが発達障害と関係があるのか、ないのかは今となっては分からないことです。

ただ、可能性はあるのかな、とは思います。

発達障害の診断が出た

発達障害と診断された

前回の続きです。

結論から言うと、私は自閉症スペクトラム障害と診断されました。

 

いざ!精神科へ!

 

相談したいことなどをすべて書き出した私は、思い切ってメンタルクリニックに電話しました。

初診のみ、予約制だったからです。

そして、数日後の夕方の予約を取りました。

仕事を終えてから行くため、夕方でなければ行けなかったからです。

 

そして、当日。

仕事を終えて、病院に電話すると、偶然空いていて、すぐ来てくださいとのこと。

徒歩一分です。

すぐに到着しました。

 

そこで、アンケートのような、心理テストのようなものを渡されました。

結構な数の質問がありました。

それに、はい・いいえなど、答えていきます。

5段階くらいの評価だったかな?

中には、「あ、これは認知症の関連の質問かな?」と思うようなものもありました。

それらの質問にすべて答えて。

受付のお姉さんに提出ました。

 

診察

 

ついに、診察室に呼ばれました。

メンタルクリニックって、どんな診察室なんだろう?

と、ドキドキしながら入りました。

 

そこには、ベッドと血圧計、どっしりとした木製のテーブルと、患者用の丸椅子。

そして、どんと構えた、くまさんのような先生が

いや、体格が、まるくてどっしりしていてですね(笑)

くまさんだけど、全然怖くなくて、テディ―ベアみたいな雰囲気の先生でした。

 

「どうしましたか?」と聞かれて。

「話すとうまく伝わらないと思うので、書いてきました」

と言って、メモ書きを渡しました。

「うん、それはいいことだね」

と、しょっぱなから否定せずに話を聞いてくれました。

一通り、メモすべてに目を通していく先生。

私は、そわそわと落ち着かない気持ちで待っていました。

 

メモを読み終わった先生は、まず、家族構成や出身校など、私の経歴を聞き取り。

それから、メモの上から順番に、細かく話を聞いていきました。

それに、一つずつ答えていきます。

 

新卒で入った会社を、すぐ辞めて3か月引きこもったこと。

そのあとは自力で脱出し、再就職したこと。

 

昔の異常な恐怖心のこと。

小学校2年生くらいだったかな、「火事怖い」と言い続けて、母親に怒られたこと。

 

人がすぐ隣にいると、ぞわぞわしてたまらないこと。

電車なんかで、密着して座るなんて、とんでもなく気持ちが悪いこと。

 

音やにおいに敏感なこと。

光がまぶしくて、頭が痛くなること。

 

ずっと、頭痛が治らないこと。

 

歯医者さんが異常に苦手なこと。

 

その他、いろいろお話しました。

 

そして、「素晴らしい、ここには僕が聞きたいことがすべて書いてある。それに、自力で引きこもりから脱出したのは、偉いね。」とほめてくれました。

客観的に文章を書くのが上手い、とも言ってもらいました。

 

診断名

 

そして、「ここはクリニックだから、何らかの病名をつけることになります。」と前置きした上で。

「名前を聞いたことがあるかもしれんけど、たぶん、高機能…ってやつだと思うよ。その上に、不安障害とかが乗ってる。」と。

高機能の後は濁されました。

 

そのあとに、「パソコンのように、ちゃんとコマンドを打ち込まないと、動かなくなる。」など、いろいろ説明をしてもらいました。

 

自閉症スペクトラムの話も出ました。

「あなたはスペクトラムの真っ黒から真っ白まである中で、グレーのところにいる。薄いグレー。でも真っ白ではない。真っ黒でもない。真っ黒の自閉症だと、家族の中でも孤立する。」

という説明をされ。

「あぁ、やっぱり、高機能広汎性発達障害なんだなぁ。」と半分内側に籠った意識の中で思いました。

 

(この後、定期的に診察を受け、はっきりと先生の口から「障害」という言葉が出たので、先生の中でのグレーの濃さが、変化したと思われます。また、典型的な自閉症スペクトラム障害であることも確定しました。)

 

「今は大丈夫でも、今後仕事で異動したりしたときに困るかもしれないから、『いつ、どこで、何を、いつまでに』とか、ちゃんと言ってもわらないと分かりません!パソコンみたいにすべてコマンド打ち込まないと、固まって動きません!ってちゃんと言えるようになろうね。」

と。

 

そして、かかりつけの歯医者さんだけは、理解してくれているという話もしたので、

「その歯医者さんみたいに、理解してくれる人を増やしていこうね、周りの人に理解してもらおうね。」

と。

 

「高機能関係の本、沢山出てるから、読んでみるといいよ。きっと、自分のことが分かるから。」

と教えてもらい。

診断はこれで終了しました。

 

そのあと、「因みに、その歯医者さんって、誰?」と聞かれ。

「あの~、ここの隣です(;^ω^)」

って答えたら。

「え?○○先生!?たまに廊下で会って挨拶するけど、へぇ~、あの先生、そんなこと(障害者の治療をしている話をすでにしていた)してるんや~。」と(笑)

 

因みに、心理テストの結果は、次の診察の日に出ました。

先生曰く、「今すぐどうこうなるほど困ってはいないけど、全く困っていないわけではない」とのことでした。

(実は、めちゃくちゃ困っていたことが後々わかります)

処方と薬剤過敏

安定剤を処方してもらいました。

皮膚科などで、副作用のため飲めない薬が沢山あること。

歯医者で、一番弱い安定剤のリーゼを飲んで、ふらふらになったこと。

それらを説明して、「薬剤過敏だ」と言われ。

一番弱いセルシンを、4分の1から始めて徐々に増やし、飲める量を確かめながら飲むよう指示を受けました。

日中の興奮が続き、夜眠れないことも多かったので、メイラックスも出してもらい。

こちらも、4分の1から始めることになりました。

 

この後も、薬は一般成人量の1割以下で飲んだりすることになっていきます。

 

診断を受けることについて

 

以上が、診断を受けた時の出来事でした。

診断を受けてまず思ったのは、「ほっとした」でした。

自分と周りの違い、違和感の正体が分かったこと。

自分が何者であり、どういうグループに属しているのか分かったこと。

その安心感が一番大きかったです。

 

診断時には、高機能広汎性発達障害の中の、細かい分類までは聞いていませんでした。

先生も、ハッキリとは言いませんでした。

細かく分類するのはナンセンスだという、医学界の流れのためかもしれません。

 

しかし、やはり白黒つけたい特性を持つ私は、その後、「私の立ち位置はどこなの?」と質問をして、答えをもらうことになります。

発達障害の診断の為に病院を受診

発達障害の診断を受けるに至るまで

私は、26歳の時に自閉症スペクトラム障害の診断を受けています。

なぜ、大人になって診断を受けるに至ったのか。

その経緯を、書いてみようと思います。

 

大学生のころ

 

 

事の始まりは、大学生の頃。

当時、「光とともに」がドラマ化されました。

メインテーマである、「自閉症」という障害。

この時、はじめて「自閉症」という言葉を知りました。

 

元々、知識欲が旺盛だった(今から思うと、これも発達障害の特性なんですよね)私は、インターネットで「自閉症」について、片っ端から調べました。

当時はまだ、子どもの事をつづったブログやHPが多く、「へぇ~、見えてる世界が違うこどもたちがいるんだなぁ。」くらいにしか思いませんでした。

 

検索の中で、いくつかヒットした数少ない大人の当事者のページを見つけました。

その時は、アスペルガー症候群のページだけがヒットしていました。

 

特性を読んでみて、「あれ、何か自分と似てるなぁ。」と思いました。

でも、自分には友達もいるし、吹奏楽部でちゃんと活動も出来てるし、コミュニケーションが取れないとかいうことはないなぁと思い。

「私は違うな」というふうに、考えていました。

今思えば、まだ学生だったから、困ったことにはなっていなかったんですね。

 

しかし。

そのあとすぐ、あの有名な、「自閉症だった私へ」という本を読むと。

半分くらい、あてはまるんです。

だから、「自分もこれかもしれない。いやでも、ここまで酷くはないからきっと違うんだろう。」と考えて、その時はそこで終わってしまいました。

 

社会での挫折

 

その後、私は就職活動を始めます。
某有名保険会社で、保険外交員として営業職に就き。

全く合わず、毎日出勤することが苦痛で仕方がなくなりました。

「死んだら楽になるだろうか」と、地下鉄に吸い込まれそうになりました。

 

1カ月と少しで、会社に行こうとすると足が震えて立っていられなくなりました。

会社に行けなくなったのです。

完全にうつ状態だと思い、心療内科に行きました。

そこでいろいろ話を聞かれ。

うつ状態である」と診断されました。

このままではいつか自殺してしまう。

そう思った私は、退職しました。

 

そこから3か月引きこもりました。

地元へ帰り、地元の某公共機関のアルバイトとして働き始めます。

たまたま空きが出ていた窓口に、元営業職ということで、配属されました。

ここは、メンバーがとてもよくて、最終的に6年間在籍しました。

 

再びの不調

 

その間に、出かけると酷く疲れたり、頭痛がして動けなくなったりすることが多くなり。

後輩としゃべっている時に、「気になるのなら、病院に行くだけ行ってみれば?」という流れになりました。


 おそらく、不安障害とかになるだろう、行くなら心療内科だろうと思い、近所の病院の検索をはじめました。

一番近くにある病院の、診療実績の中に、「発達障害自閉症、LDなど)」という言葉を見つけ。

ふと、大学時代に似てると思った自閉症のことを思い出しました。

 

もう一度、自閉症について調べてみる

 

ここからまた、ネット検索が始まりました。

以前検索した時よりも、高機能自閉症アスペルガー症候群といった、大人の発達障害などのページが増えていて。

当事者さんの声も、沢山聴けるようになっていました。

いろいろ調べて、やっぱり自分もあてはまるんじゃないか、と気になりだしました。

AS指数の簡易チェックもみつけて、やってみました。

結果、閾値を超えていました。

 

歯医者さんの対応との共通点

 

検索しているときに、あることに気が付きました。

私は歯の治療が大の苦手なのですが。

調べている間に、自閉症の子どもの歯科治療の支援についての情報も得ました。

それは、かかりつけの歯医者さんが、私にしてくれていることと一部同じもので。

また、障害者専用の歯科センターで、かかりつけの歯医者さんの同行の元、治療してもらったこともあり。

 

発達障害の可能性は高いかもしれない。

そう思った私は、出かけるのが辛いことの相談のついでに、発達障害についても調べてほしいと考えるようになりました。

 

受診することを決意

 

もう一度、通えそうな病院をチェックし。

おとなの発達障害の診断ができる病院を検索し。

そうすると、市内には2軒しかありませんでした。

そのうち一つが、一番近い(徒歩一分)メンタルクリニックでした。

一番近い病院で、と選びましたが、これが後々、幸運だったことが分かります。

 

メンタルクリニックを受診するのに少し抵抗のあった私は、ネットで精神科ってこんなところだよ、怖くないよ、というHPを見て。

受診することを決心しました。

 

受診するにあたって、そのときすでに話し言葉が得意ではないことを自覚していたので、困っていること、聞きたいこと、気になること、今まであったエピソードで関係のありそうなこと、すべてピックアップしてメモにしました。

A4のルーズリーフの裏表、びっしりいっぱいになりました。

ここまで準備して。

次は、いよいよ受診です。

 

 

自閉症スペクトラム障害と疲れやすさ

自閉症スペクトラム障害の人は疲れやすい

 

自閉症スペクトラム障害の人には、疲れやすい人が多いように思います。

 

元々持って生まれた体力や、年齢的なものもあるかもしれませんが。

基本的に、出かけると疲れ果てて爆睡してしまったり。

仕事などで疲れ果てて、それ以外の生活行動ができなくなってしまったり。

そういったことが多いように見受けられます。

 

そういう私も、体力がなく、非常に疲れやすいです。

1日1~2時間の簡単な外出であっても、ぐったりしてそのあと爆睡してしまいます。

主治医からは、「連日の外出は無理、せめて1日おきがいいところ」と言われています。

 

二次障害の有無や、合併症の有無によっても、疲れやすさは変わってくると思いますが…。

 

感覚過敏との関係

 

自閉症スペクトラム障害の人が、多数派さんに比べて疲れやすい理由は、感覚の過敏によるものが多いと思います。

 

音の洪水、視覚的刺激、嗅覚的刺激、触覚刺激など、通常より沢山の刺激にさらされている自閉症スペクトラム障害の人は、常に多数派さんの何倍ものストレスを身にまとって生きています。

それらに対応し、なんとかやり過ごすために、エネルギーを消費してしまっていると思うのです。


適応する努力にエネルギーを費やす

 

そのうえ、コミュニケーションや社会性に問題を抱えているために、うまく社会適応しようと必死に努力しています。

人と話をするたびに、いろいろ考え、一生懸命言葉を探し。

その場にふさわしい行動をしようと、頭はフル回転。

 

他人との接触は、非常にストレスです。

エネルギーを莫大に消費します。

 

それゆえ、非常に疲れやすいのではないかと思うのです。

 

その程度で…は禁句

 

昔から、私はすぐに「疲れた」と言っていました。

そのたびに、親は「このくらいで疲れるはずない!ちゃんとしなさい!」と言いました。

まだ、自閉症スペクトラム障害なんていう言葉も聞いたことがない時代です。

疲れやすいタイプの人がいるなんて、親も知りませんでした。

 

私自身は本当に疲れていたのですが。

面倒くさがってそう言っているように思われてしまったのです。

 

そんなことが繰り返された結果、私は「疲れた」と言えなくなってしまいました。

「疲れた」ということは、悪いことだと誤った学習をしてしまったのです。

 

そして、「疲れたら休む」という当たり前のことが、できなくなってしまいました。

そして、無理を重ねた結果、二次障害を発症し、働けない状態になってしまいました。

 

疲れやすさは大問題

 

自閉症スペクトラム障害の人の「疲れやすさ」は、生活をするうえで非常に大きな問題となることがあります。

このあたりの理解が、まだ進んでいないように思います。

 

当事者が「疲れた」と言ったら。

否定せずに、休ませてあげてください。

 

また、本人が疲れを自覚できていない場合、上手く休めるよう誘導してあげてください。

その支援が、実は二次障害を防ぐうえで、一番大切なのかもしれません。