言葉での指示がわかりにくい
言葉って、受け取りにくい
視覚優位タイプの自閉っ子は、言葉による指示が通りにくい、と言われています。
以前、病院でこんなことがありました。
検査を受けるとき、いろいろと言葉で指示を出されました。
たとえば。
「右を向いてください。」
「左を向いてください。」
など、次々と指示を出されます。
これらの指示が、瞬時に理解できないのです。
この程度なら、まだ何とかなりますが。
横になっている状態の時に、こんな指示が出ました。
「ヒダリノヒザヲタテテクダサイ」
どんな指示が出るか、予測ができていなかったので、一瞬何を言われたのか、分かりませんでした。
頭の中で、言われた言葉を繰り返し。
「左の膝を立ててください」と言われたことを、やっと理解しました。
そして、(左ってどっちだっけ?)と考えて、(こっちの足か)と理解。
(膝を立てるって?どうするの?)と、頭の中で映像化してイメージ。
そして、指示通りに動くことができました。
その間、数秒。
動かない私に、技師さんが少々戸惑った様子。
続いて、「ソノママミギヲムイテクダサイ」との指示。
また同じように頭の中で繰り返し。
「そのまま右を向いてください」と理解。
しかし、膝を立てたままどうやって右を向くのか、理解ができず。
頭の中で映像化しようにも、映像さえ出てこない状態。
しかし、指示には従わなければならないので、とりあえず、身体を右へねじってみました。
ところが、技師さんが言った体勢とは違ったようで。
直接、身体と足を動かされてしまいました(;^ω^)
そのあとも、いろいろな指示が出たのですが、言われたことがよくわかっていないことが伝わったのか、それ以後は、直接体に触れて、取るべき姿勢を整えてくれました(苦笑)
最初からそうしてくれればいいのに…。
なれない場所・相手では余計にわからない
しかし、慣れない場面での、言葉による指示って、本当に通りにくいです。
慣れた場面では、次にこういわれるだろう、言うとしたらこういうことだろう、という予測がついています。
だから、言葉で言われても、瞬時に反応することができます。
慣れない場面や、緊張しているときは、私は一見無反応になることがあります。
障害者の歯科口腔保健センターに行ったときも、慣れない人からの指示は、聞き取れません。
そのため、「あれ?聞こえてる?」とか、「分からないのかな?」と思われることがあります…。
そんな時は、かかりつけの歯医者さんがいるので、通訳をしてくれます。
言葉の認識
別に聞こえていないわけでも、無視をしているわけでもないのです。
ただ、上に書いたように、言われた言葉が音の羅列としてしか認識できず、言われたことの理解が追い付いていないだけなのです。
少し待ってもらえれば、理解が追い付くこともあります。
待ってもらっても、理解ができないこともありますけど…。
知的能力と認知の問題は別
聴覚過敏なのに、理解は視覚優位なのです。
知的には全く問題はなくても、認知の問題のせいで、言葉の理解ができないのです。
同じことを、紙に書いて見せてくれれば、すぐにわかります。
もしくは、ゆっくりはっきりと話してくれれば、分かります。
慣れた人、慣れた場面では全く問題はないのですが。
慣れない人、慣れない場面では、やはり少々問題が出てきてしまいます。
そのあたり、なかなか理解してもらえない部分ではあるのですが…。
なかなか、難しいものですね…。
目が回らない?
くるくる回るのが好き
私は、その場でくるくる回ることが好きです。
そう言うと、「回って、目が回らないの?」と聞かれました。
そう聞かれて考えたことがあります。
目は回る
私の場合、ぐるぐる回り続けて、目が回らないわけではありません。
たとえば、棒におでこをつけて、下を向いてぐるぐる回り、走るとまっすぐ走れない、というゲームがありますよね。
あれをしたときは、目が回ります。
ついでに言うと、車酔いは酷いですし、ブランコで揺られているだけでも酔って気持ちが悪くなります。
ぐるぐる回るタイヤブランコで吐きそうになったことも、一度や二度ではありません。
なので、平衡感覚の機能が故障しているわけではない、と思います。
それを踏まえて、いろいろと考えてみました。
実験もして書いていますが、あくまで私の場合の話です。
くるくる回る自閉っ子がみな同じかどうかは、分かりません。
椅子でくるくる
まず、回転いすに座って、半回転ずつふらふらしている時。
その時は、絶対に目は回りません。
半回転しているときは、大抵一点を見つめています。
ダンスなどで、回転するときに一点を見つめて回り、目が回らないようにするのと同じことです。
顔だけを固定して、身体だけで回転しています。
ちょうど、ラジオ体操の、左右に体をひねる運動と同じ状態です。
回転いすで一回転するときは、視線は固定されていません。
流れる景色をそのまま見ています。
ただ、どこかを見ているのではなく、どこも見ていない状態です。
新幹線に乗って、窓の外を流れる景色を眺めているときに、防音壁が目に入りますよね?
その防音壁にピントを合わせて、一生懸命見ていると、目が回ってきます。
しかし、遠くの景色にピントが合っているときに、その防音壁が目に入っても、気分は悪くなりません。
それと同じ状況だと思われます。
また、回転することに気を取られていて、目からの情報が遮断されている状態であることも、理由としてあるかもしれません。
一つのことに集中すると、他の情報がお留守になる特性がありますので、ありえないことではないと思います。
立ってくるくる
立ったまま、自分の足で一回転する場合。
この時も、ぼんやりと定まらない視点で景色が流れるのを見ている感覚です。
回転いすで一回転するのと同じです。
ただ、時として、景色よりも手前に焦点が合っていることがあります。
要するに、「寄り目」の状態です。
そうすると、景色は目に入っていても見えていない状態ですから、目は回りません。
平衡感覚的には、めまいのような感覚はありますが、「目が回る」状態まではいかない、という感じです。
あとは、回転した後に何か目的がある場合には、目が回りません。
たとえば、誰かに呼ばれたけれど、どこから呼ばれたのか分からなくて回転した時など。
次にすることに気を取られているので、目が回っている感覚にまで気が回らない、という可能性があります。
スピード
また、回転のスピードも、時と場合によって違います。
くるっと勢いよく回ることもあれば、暇をもてあまして、何となく、ゆっくりくるりと一回転することもあります。
ゆっくり回っていれば、当然目が回ることはありません。
パノラマ写真を撮るように、少しずつ流れる景色を楽しみながら、視線は固定せずに回ります。
静止画を見ている?
私の場合、だいたいこんな感じです。
静止画を見ている、というのは半分は当たっています。
半回転しているときは、無意識にそうしていますから。
ただ、そうではなく、流れる景色をそのまま見ていることもあります。
目が回らない理由に、これが答えだ!というものはない、と考えます。
時と場合によって、いろいろな理由が考えられるのだろう、と思います。
才能?
得意なこと
今まで、つらつらと、他の人よりは少し得意なことを、いくつか取り上げて書いてきました。
音楽のこと。
パズルのこと。
文章を書くこと。
色彩感覚のこと。
人より少し得意なことは、最近になって気付きました。
その代り、人より劣っている部分にも、気付きました。
特殊教育
アメリカでは、能力に偏りのある子で、特殊な教育により、突出した能力を伸ばすことができる可能性のある子たちは、特別な教育を受けることができるそうです。
日本では、特殊教育というと、障害児教育ということになるわけですが。
アメリカでは、天才児にも、特殊教育が施されるようです。
サヴァンというのは有名ですが。
サヴァンまではいかなくとも、発達障害などの障害をを抱えながらも、何らかの才能のある子どもたち。
ギフテッド(神様から贈り物を与えられた子)とか、2Eキッズ、3Eキッズなどと呼ばれ、特殊教育の対象となるようです。
ギフテッドクラスや、2Eキッズクラスというものがある学校もあるとか。
日本の教育
日本では、他の子より秀でた能力は、学校では逆に押さえつけられることも多いです。
他の子と同じことをしましょう。
それが、日本の教育方針です。
他の子よりも知識が豊富な子は、学校の授業はつまらないでしょう。
そして、授業中は上の空になったり、もしかしたら授業を妨害してしまうようなことになるかもしれません。
勉強以外の能力のある子は、他の子の妬みの対象になることもあるでしょう。
唯一、運動能力を除いて。
なぜか、昔から運動能力に秀でた子は、スターになることが多いです。
音楽や絵画の才能は、見捨てられるのに。
そういった子は、いじめに遭う確率も高くなります。
他の子と、波長が合わなかったりするからです。
もしも…
私が、アメリカに生まれていたら、もしかしたらギフテッドとして才能を伸ばしてもらうことができていたのだろうか、と思うことがあります。
まぁ、才能と呼べるほどのものではなく、特殊教育の対象にもならなかったかもしれませんが。
もしそうなら、私の人生もまた違ったものになっていたのかなぁ、なんて想像もするわけです。
実際には、日本に生まれ、日本の教育を受けてきましたから、他の育ち方をしていたら…なんて考えるのはナンセンスですが。
才能なのか、単に他の人より少しだけ得意なのか。
もっと伸びたものなのか、そもそも今の状態までしか伸びなかったものなのか。
ちょっと、気になっているところです。
「話す」という能力
言葉が出てこない
昔からそうなんですが。
私、伝えたいことが上手く言葉にならないのです。
こうやって文章にすれば、どんどん言葉が出てきて、言いたいことが書けます。
でも、しゃべろうとすると、うまく文章にならない。
伝えたいことが、正しい言葉として出てこないのです。
たとえば、ハンドソープがなくなったから詰めておいて、ということを伝えたい時。
「三階の…石鹸…」
それだけ言うのが精いっぱい。
「三階の石鹸がなくなったから、足しておいて」と、文章でなら書けます。
なのに、話すと、その文章が口から出てこないのです。
虹を見つけたとき。
「虹が出てるよ!見に来て!」と言いたいのに。
「虹! 虹! 虹!虹!虹!」と連呼することしかできません。
頭の中では、文章ができているのに。
どうしても、「虹が出てる」という文章が、口から出てこないのです。
言葉が消えていく
興奮している時や、あわてているときはなおさらです。
伝えたいことを伝えようと焦れば焦るほど、言葉は消えていってしまいます。
まるで、私の興奮した激しい気持ちが大きな圧力となって、言葉のシャボン玉を、できた端からつぶしていってしまうようです。
話しかけられた時も、うまく答えることができないので、頷くか首を横に振るだけ、なんてことも多いです。
これは、話したくないのではなく、言いたいことがあっても、話したくても、とっさに言葉が出てこないからです。
自分で自分にイライラ
落ち着いて話していても、言葉にならないこともある。
そんな時は、自分で自分にイライラします。
相手が言いたいことを想像して、先回りして言ってくれることもあるけれど。
それが外れていることが多くて、余計にイライラ。
どうして、言葉が出てこないんだ!
違う、そういうことが言いたいんじゃない!
ちょっと待って!今言葉をさがしてる!
そんな風に、イライラしてしまいます。
だから、決まり文句のようなものがあると、助かります。
前の仕事は、ほとんど決まり文句でしゃべっていたので、接客でも仕事ができていました。
何百通りもの決まり文句を覚えて、その中から選んで話せばいから、話せていました。
要するに、アドリブが効かない、といったところでしょうか。
だから、どうでもいいような会話ができない。
その瞬間に、適切な言葉を発することができない。
文章を書くことと話すことは、別の能力
一体、頭の中で何が起こっているのでしょう。
言葉を文章にすることと、しゃべることは、どうしてこんなに違うのでしょう。
全く違う能力なんですね。
だから、ネット上での会話は、とても楽です。
生でしゃべると、間を考えたり、消えゆく言葉を必死で追いかけたり、沢山のことをしなければなりません。
文章を目で追いかけることが、できません。
不思議です。
その代り、言葉が話せないくらい小さい子や、言葉を苦手とする障害を持つ子たちとは、なぜかテレパシーのようにコミュニケーションが取れます。
本当に、不思議です。
考えていることを話すという能力。
それについて、もっと研究が進めばいいと思います。
ロッキング
ゆらゆら揺れる
ロッキング。
何のことか、わかる人は、自閉症に詳しい人ですね。
ロッキングとは、重度の自閉症者によく見られる、身体を前後に揺する動きのことです。
しかし、ロッキングはアスペルガーなどの、高機能系のASD(自閉症スペクトラム)者にもみられるそうです。
ビル・ゲイツ氏が会議中にロッキングをする、という話も、聞きますね。
高機能系の人の場合、知らない人がいるところや、外ではあまりしないそうです。
一人でいるときや、神経質になっている時に出現することがあるとか。
実は私も、ロッキングをします。
無意識に行っている
最初は、ロッキングには気付いていませんでした。
しかし、手持無沙汰で、立っているときに、左右の足に交互に体重をかけて、横に揺れるという動作をしていることには気付いていました。
これは、「光とともに」のドラマでも表現されていましたから、気付きやすかったのだと思います。
左右に揺れるのは、外出中でも、気を許している人と一緒にいる時は、時々出ます。
でも、ロッキングには気が付いていませんでした。
しかし、ある時ふと、自分が無意識に前後に揺れていることに気づきました。
テレビを見ながら、スマホで大好きなパズルゲームをしている時でした。
パズルゲームに集中しているときに、三角座り(体育座りのこと)でお尻を浮かせた状態で、しゃがみこんで、前後にゆっくりと揺れていました。
「あ、これがロッキングか!」
はじめて気づいた時に、そう思いました。
本当に、無意識にやっていたのです。
なぜ揺れているのか。
無意識だから、はっきりとしたことは言えませんが、何となく落ち着く気がします。
前後に揺れる感覚が、何となく心地よいのです。
赤ちゃんがお母さんに抱かれて、揺られているのと同じ感覚なのかもしれません。
落ち着く
心が安らいでいるから、ロッキングをするのか。
それとも、ロッキングをすることで、心が安らぐのか。
たまごが先か、にわとりが先か論争みたいになるので、これ以上追及はしませんが。
とにかく、落ち着くことは確かです。
私の場合は、落ち着く動作である、ということは間違いありません。
。
横目でものを見る
横目
自閉っ子の特性の一つとして、「横目で物を見る」ということが取り上げられることがあります。
斜視で、横目で物を見ているように見えるからといって、自閉症を疑われた、という話を身近に聞いたこともあります。
横目の方が見えやすい
私も、横目で物を見ていることが、時々あります。
横目といっても、完全に目が端まで寄っているわけではなく、中心で見ていない、といった感じです。
要するに、真正面で物をとらえていない状態です。
今、こうして記事を書いている時も、顔を少し左へ向けて、中心からずれた位置でパソコンの画面を見ています。
どうしてそうするのか、自分でも分かりません。
でも、何となく、真正面で見ると疲れる気がするのです。
右なり、左なり、少し視線が横を向いている方が、物が見えやすいような気がします。
見えるものが面白い
道を歩いているときは、金網フェンスが横を通り過ぎていくのが面白くて(実際には自分がとおりすぎているんですけど)、横目でずっと見ていることがあります。
最初は壁のように平面に見えていたフェンスが、だんだんと隙間が見えてきて、その隙間も、移動するとともに形を変える。
それが、面白くて見ています。
だからといって、完全に横を向いてしまうとまっすぐ歩けませんから、目は自然と横目になります。
道を歩くときは前を見て!と、幼いころから叩き込まれてきましたから、頭だけ前に向けてしまうのかもしれませんが(笑)
自転車に乗っているときも、道端の看板に気を取られて見入ってしまい、うっかり正面にあるものにぶつかりそうになったりします。
それが車だった時は、ヒヤリとします。
人を見るとき
見る対象が人間だと、なおさら顔を少し横に向けて、斜めに見ていることが多いです。
それは、相手と目が合うのが苦手だ、ということと関係があるかもしれません。
まっすぐに目が合ってしまうと、凄い威圧感を感じてしまいます。
しかし、斜めに見ることで、鏡に当たる光が、ある角度になると反射するように(入射角と反射角の関係)、視線がそれるように感じるのです。
斜めに見ることで圧迫感を減らしている、と言えば、分かっていただけるでしょうか。
真正面に相手がいるのに、目を合わさずに横を見ているような目つきをしているからといって、その相手が嫌いなわけではありません。
むしろ、相手が言っていることを聞き取ろうと、必死になっているからこそ、目線をそらせているときもあります。
そうしなければ、目からの情報が勝ってしまい、耳がお留守になるからです。
また、相手をしっかりと見たいからこそ、横目で見ていることもあります。
横目に意味がある
私にとって、横目で物を見ることは、意味のあることです。
話をする時は相手の目を見て、なんていいますが、それができる人はそうすればいい。
相手の目を見ると他のことができなくなる人も、いるのです。
そもそも、動物にとって、視線が合うことは敵対の意思を表します。
威圧感を感じるのは、そのためです。
なのに、目を合わさないことが失礼にあたるなんて、一体だれが決めたのでしょう?
世間的には、態度が重要なようですが。
本当に大事なのは、態度よりも、話の内容なのです。
コミュニケーションの取り方が、多数派と違っていて、理解しがたい部分もたくさんあるかもしれません。
でも、少数派は少数派なりに、多数派とコミュニケーションを取ろうと努力しています。
そのことは、忘れないでほしいな、と思います。
独特の表現
表現がおかしいらしい
今まで、普通に話しているつもりなのに、表現がおかしいとか、独特だとか、言われることが多々ありました。
普通、一般的にしないような言葉の言い回しをしたり、擬音語を作り出したりしてしまうようなのです。
例えば
食べ物の食感を言った時に、「何それ、意味わからん」とか「おいしくなさそう」と言って笑われます。
一番多いのは、「むちむちする」かな~。
もちもちする、よりも少し柔らかい感じで。
弾力が少し強めのときの表現です。
ときどき、びっくりされます。
でも、私にとっては、それ以外の食感の表現がないのです。
それがぴったりだとおもうから、そう発言するのですが、なかなか伝わらないことも多い。
仲間たちの表現
最近、ツイッターやブログで、同じ発達障害の人とかかわることが多くなりました。
ありがたいことです。
私以外にも、いろんな苦労をしている人がいることが、分かった。
生きにくさを感じている人が結構いることも、分かった。
ネットの発達は、そういった出逢いの場としては、素晴らしいものです。
同じタイプの人たちの文章を見ていると、多数派とは違う文章を綴っていることが多いことに、気付きました。
何というか、どことなく「詩的」なのです。
短文で、言葉を綴るからかもしれません。
また、多数派とは少し違った意味で言葉を使っているようにも感じられます。
言葉のとらえ方が違うような気がするのです。
それは、多数派とは、見えているものが違うからかもしれません。
自分が見ている世界を、そのまま言葉として表現している。
でも、自分が見ている世界が、多数派とは少し違うから、言葉を紡いだ時に、言葉のとらえ方が違うように見えてしまうのかもしれません。
ちょっと変わった不思議な世界に住んでいることが、見かけ上、不思議な表現をするように見えるのかもしれません。
私が、何か発言するときに、「それ、どういうこと?」とか、「そう感じるんや~」とか言われるわけが、他の発達障害の方の文章を見ていて、何となくわかった気がします。
宮沢賢治
有名な作家、宮沢賢治も、実はASDだったのでは?という人もいます。
水に浮かべた船の上で、リンゴを水面に出し入れして、水と戯れていたそうなのです。
それをふまえて考えると、確かに、賢治も不思議な表現を多用しています。
「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ」
意味が分かりませんよね(笑)
でも、きっと、賢治にとっては、それが一番しっくりくる表現だったのでしょう。
文学的
見えているものが違うからこその、独特の表現。
文学的でさえあると思うのです。
言葉を操れるASD者の綴る文章を見比べてみるのも、なかなか面白いものだなぁ、と思う次第です。