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kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、てんかん、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

脳波検査の結果

脳波検査を受けた

 

昨日は、医大病院で脳波検査を受けてきました。

わざと過呼吸にしたり、フラッシュをたいたり、いろんな負荷をかけて脳波の状態を調べる検査です。

 

特殊なのりで電極を頭に貼り付けて、準備して、検査をして。

30~45分くらいだといわれていたのですが、50分かかりました(;^ω^)

 

終わった後は、一応のりをふき取ってくれるものの、全部取り切れるわけではないので、髪の毛がべたべた・バリバリです(笑)

 

医大の精神科を受診

 

そして、その後は神経精神科を受診しました。

そこで、今までの経緯を簡単に説明しました。

てんかんのこと、自閉症スペクトラムのこと、うつのことなどなど…。

 

その間に、神経内科からの紹介状が見えたのですが。

症状から、てんかんが強く疑われるが、精神症状との絡みなどについて診察してほしい、というようなことが書かれていました。

 

脳波検査の結果

 

脳波検査の結果は、ハッキリとした異状はない、とのことでした。

しかし、てんかんを否定する材料はなく(てんかん発作であっても、脳の深い部分が震源である場合、頭皮での脳波検査では異常が拾えない)、本当のてんかん発作と、心因性発作が混ざっている状態ではないか…とのことでした。

 

てんかん発作と心因性発作が混ざっていると、ややこしいんですよね…。

とりあえず、脳波に異常はないものの、てんかんである可能性は非常に高いので、てんかんの治療をするために、もういちど神経内科に戻ることになりました。

 

やっぱり、思った通り、精神科と神経内科の間で押し付け合いになってる(笑)

 

気分の上下の原因

 

精神的な問題について、質問はありますか?とのことだったので。

「うつて言われてるけど、本当にうつなの?って思うことがあります。気分の上下が激しくて…」と言うと。

「いわゆる、鬱病とかのうつの状態ではないと思う。一時的にうつ状態になったりする、非定型な状態ではあると思うけど…。自閉症スペクトラムからくる気分の上下なんじゃないかな」とのことでした。

 

なるほど…。

ということは、エビリファイを上手に使って、コントロールしていくしかないんだろうなぁ(´・ω・`)

 

医師不足

 

医大の神経精神科が医師不足で、一人異動になって、その後の人員の確保ができないので、「転院のご協力をお願いします」って書いてあった…。

人が足りなくて初診を限定してたり、受診日を限定してたり、だいぶんやばい感じなんだけど…大丈夫なの?(;^ω^)

 

そんな状態なので、メンタルのことは今まで通りかかりつけのメンタルクリニックで診てもらうことになりました。

 

再び神経内科

 

次回はまた神経内科に行くことになるのですが、神経精神科では予約が取れないので、自分で取ってくださいと言われ。

帰りに、神経内科の予約を取ってきました。

いつでもいい、最短でと言うと、水曜日に予約が入りました。

 

神経内科で、どんな話になるのやら…。

とりあえず、本当のてんかん発作もあるらしいので、それを何とかしてくれるといいな…。

あーとの教室に行ってきました

わわわアールブリュット あーとの教室

 

昨日は、わわわあーとの教室大阪校の開校日でした!

天下茶屋駅のすぐそばの場所での開催なので、家から徒歩1分の駅から特急に乗って、1時間弱で到着できます。

 

初日の教室に、もりちゃんと参加してきました(*^^)v

 

参加者は3人。

もりちゃんと私、そして小学3年生くらいの男の子が一人でした。

 

今回は、Tシャツに絵を描いてきました。

 

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ジンベエザメとネコです。

これ以外にも、ホシゾラフグを描きました。

全部で3枚です。

 

この、濃いグレーのTシャツは描くのが難しい。

色によっては、どす黒い色に変わってしまうからです。

 

濃いグレーのTシャツにいい感じに描ける人がいないらしく、もりちゃんと如月が担当することになそうです(笑)

 

Tシャツを描いている間も、もりちゃんとお話ししていました。

もりちゃんがクマと星の絵を描いていたから、「ポーラースター(北極星)!」「おおぐま!」「こぐま!」と単語だけ発していたら。

もりちゃんとの間で、会話が成立しました。

北極星おおぐま座こぐま座みたいだね」っていう意味だったんですが、それが見事に伝わるんです。

 

面白いですねぇ。

これが、私たちなりのコミュニケーションなんです。

多数派さんから見れば、奇妙に見えるかもしれないけど(笑)

 

お絵かき中に、いろんな話を聞いたし、いろんなことを教わりました。

私の絵が、どんどん貸し出されていること。

海外の方が絵を購入してくださったこと。

これで如月も世界的画家かな?(笑)

 

今後描く絵の裏に、サインを入れることになって。

そのサインも考えました。

アルファベットの筆記体のサインに、ちょこっと絵を添えます。

本当の画家っぽい(∩´∀`)∩

 

そして、人によって、使うのが得意な色、苦手な色があることがわかりました。

もりちゃんは茶色を使うのが上手で、黒が苦手。

如月は、黒を使うのが得意で、茶色が使えない。

お互い逆なところが、面白い!

 

おかげで、布描きペンの茶色と、マッキーの黒と黒のボールペンの物々交換が成立しました(#^^#)

 

そうそう、如月の絵の題名が難しいっていう話もあったなーw

もともと、題材自体が気象現象であまり知られていなかったりするから、余計だろうな(;^ω^)

 

得るものの多い、すごく濃厚な2時間でした。

男の子が途中で「もう帰るー」って言って帰っちゃったから、ほぼもりちゃんと貸切で、 特別授業状態だったから…(笑)

 

とにかく、とっても楽しかったです!

ガサガサしまくって、椅子に座ってるのに何回も机に脚をぶつけたけどw

 

これからしばらくは、通常のお絵かきと、Tシャツのお絵かきを並行していくことになりそうです(*'▽')

 

 

高校1年生・修学旅行

修学旅行へ

 

私の通っていた高校は、進学校なので、1年生の3月に修学旅行に行きます。

毎年、行先は沖縄と決まっていました。

 

行先変更

 

しかし、高校1年生の9月11日。

あの、アメリカの同時多発テロが起こりました。

そして、世界は混乱に陥りました。

沖縄には、米軍基地が沢山あります。

なので、私たちは先生に、「修学旅行は沖縄だが、行先をどうするか?」と聞かれました。

クラスは、沖縄はちょっと怖いかも、という意見で一致しました。

そして、先生方の会議でも、行先を変更することになりました。

 

修学旅行は、いくつか候補があったうち、多数決で長野でのスキーに決まりました。

沖縄へ行かなくなった代わりに、沖縄で勉強するはずだった戦争のことを、グループごとに自習という形で勉強し、レポートを提出しました。

 

スキー旅行へ

 

一日目は、朝からバスに乗り、長野へ。

これは、一度吹奏楽部の合宿でほぼ同じ場所へ行っていたので、不安はありませんでした。

実際、通った道は全く同じでした(笑)

ホテルに着いたのは、夜6時でした。

そこからすぐ、荷物を部屋に入れて食事をし。

クラスごとに風呂に入って。

みんなで寝ました。

部屋割りも、割と仲良くしてた子たちと同じだったので、楽しかったです。

 

次の日は、一日スキーをしました。

10人ずつのグループごとに、コーチがついてくれました。

私は、父親に少しだけスキーを教えてもらっていたので、初心者コースにはいましたが、それなりにすべっていました。

上級者の子たちは、グループに入らず勝手に滑っていいことになっていたので、周りは初心者ばかりでした。

その日は、夕方にみんなで餅つきをしました。

 

そして、次の日も一日スキーをしました。

この日は、直滑降をしました。

これが一番楽しかった!

まっすぐ滑るだけだし、すごいスピードが出るし。

他の子は怖がってしりもちをついていましたが、私だけはコーチと全く同じことができました。

褒められました(笑)

 

最終日。

お昼3時ころまで、スキーをしました。

中級者コースも滑りました。

 

ストックが使えない

 

私は、スキーはストックを使わない方が、ターンもしやすいみたいです。

普通は、ストックを使ってタイミングを取るそうですが。

一度にいくつものことができないからでしょうか、ストックを使うタイミングを取る方が難しいのです。

だから、ストックはほったらかしにして、板だけで、ターンもしていました。

ちょっと上級者っぽい?(笑)

 

コーチは50代くらいのおじさんでしたが、ベテランで教え方もうまく、好きでした。

このコーチのおかげで、私はとてもたのしむことができました。



帰宅

 

最終日、コーチたちにお礼を言って、私たちは再びバスに乗り。

夕食は、大型銭湯で食べました。

お風呂に入りたい子は入り。

そして、車中泊で、帰路につきました。

 

この修学旅行は、楽しかった。

クラスで浮き気味だったとはいえ、それなりに相手をしてくれる子たちもいたし。

スキーも好きだし。

楽しめる修学旅行で、よかったですニコニコ

高校3年生

高校3年生に進級

 

高校3年生になりました。

またクラス替えがあり(といっても、文系2クラスのクラス替えなので、メンバーの半分は同じままです)。

私は3年B組でした。

3年間B組(笑)

そして、1年生の時もそうでしたが、3年生でもまた、ハトコの男子が同じクラスになりました。

父親同士がいとこなのです。

 

先生は、英語の先生で。50代くらいの、独身の先生でした。

本名と、英語の教師であることから、ジョージと呼ばれていました。(笑)

 

授業は予備校状態・英語ができない

 

3年生になると、授業もほとんど、センター試験の過去問を解いていく内容になりました。

過去問を解き、先生が解説する。

そんな授業が、続きました。

定期テストもあり、私の数学と英語の成績は目も当てられないもので。

でも、センター試験では必須科目なので、どうにかしなければなりません。

三者面談では、担任が英語教師だったこともあり、英語はなんとかならんかと、特に言われてしましました。

私は、「授業を聞いてても分からない。どうやって文章を組み立てるのかが、分からない」と言いました。

先生も、解決方法は分かりませんでした。

 

塾にもずっと行っていましたが、英語も数学も、先生の方がお手上げ状態でした。

 

自衛隊の試験を受ける

 

9月。

私は、自衛隊一般曹候補生の試験を受けました。

学校で席が隣りの子も、受けに来ていました(びっくり!)

受付には、八尾駐屯地のヘリ搭乗体験の時にお世話になって、仲良くなった陸自のおじさんがいました。

このおじさんも吹奏楽をやっていたので、意気投合していました。

受付で、声をかけてくれて、嬉しかった!

 

10月。

今度は、防大の試験を受けました。

ここでもまた、仲良くなった陸自のおじさんが受付に!

他の受験生が受付する中、おじさんと二人でおしゃべりしてました(笑)

他の担当者も受験者も、「何者?」って思っただろうね(;^ω^)

 

残念ながら、どちらも落ちてしまいました。

私は、一生自衛隊ファンでいることを誓いました。

今でも、自衛隊(特に海上自衛隊)が大好きで。

毎年、必ず艦を見に行きます。

そして、自衛官に絡み倒して帰ってきます(*'▽')


文化祭

 

この年の文化祭は、模擬店でした。

3年生は模擬店と決まっていました。

みんなでおそろいの、短いエプロンを作って。

ユニフォームとして、Tシャツも作りました。

そして、私たちは、焼きそばを売りました。

ジョージが勝手に、イカ焼きの販売も決めて、イカも購入してしまいました。

仕方がないので、イカ焼きも売りました。

イカ焼きは、ずっとジョージが焼いていました(笑)

生徒の意見を無視するなんて、何という先生…。

それでも、それなりの収益を上げて、成功に終わりました。


試験に次ぐ試験

 

そして、文化祭が終わると、ついに追い込みに入ります。

模試の嵐です。

大嵐でした。

センター試験も、どんどん近づいてきます。

受ける大学も、本格的に絞り込まれていきました。

 

センター試験直前。

生物の先生が、神主さんだったので、合格祈願をした鉛筆を、3年生全員に配ってくれました。

 

センター試験当日は、二日間ともすごく冷え込み。

大雪でした。

私たちは、自分の学校で試験を受けました。

他の子たちは、W大学や、うちの学校まで試験を受けに来ました。



私は、大学で歴史を勉強して、学芸員資格を取ることに決めていました。

私が唯一、80点台をキープしていたのが、日本史だったからです。

日本史の先生にもそのことを話していました。

この先生は、名前から、「ケンショー先生」と呼ばれていました。

私はこの先生が好きでした。

 

そして、京女と関西大学、を受けました。

どちらも、落ちました。

 

大学に合格

 

そして、京都にある女子大、KT大学(2年生から共学になった)に、センター試験の成績だけで受験できるコースで受験し。

その大学の、文学部歴史学科に合格しました。

大学の地位としては、下の方でしたが。

この大学には、かなり有名な先生方がそろっていました。

歴史をやってて、その先生の名前を知らないなら、モグリだ!というくらいの先生方が。

入学してから分かったことでしたが、めちゃくちゃラッキーでした。

 

1月中に合格したので、私は担任と、日本史の先生に報告しに行きました。

日本史の先生が、「どこの大学?」と聞いてくれたので、「京都です」と言ったら。

「京都か、それはいい。日本史を勉強するなら京都が一番だ!」と言いました。

先生はいつもそう言っていました。

だから、私は京都の大学で歴史を学ぶことを決めました。

 

2月からは、登校日以外は学校に行かなくてもよくなります。

国公立の大学の試験が、本格的に始まるからです。

 

卒業

 

そして、3月。

私は、成績が悪いながらも、なんとか卒業しました。

式の後、先生にあいさつをしに行きました。

担任は、ずっと「国公立を受けろ、夜間でもいいから!」と言っていましたが、私は自分の道は自分で決める!と、言うことを聞きませんでした。

だから、「お前は、最後まで言うこと聞かんかったなぁ」と苦笑されました。

 

でも、私は自分で進路を決めたので、心残りはありませんでした。

絵の新作「忍者」完成!

絵の新作「忍者」が完成しました!

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忍者の横顔のシルエットに、手裏剣。

私、小さいころからずっと忍者が好きなんです。

忍者の知識も、そこそこ持ち合わせています。

↓線画

 

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これをいつもの細密画で埋めていくと…

↓完成です

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今度の日曜日は、わわわのあーとの教室・大阪校の開校日です!

とても楽しみです!!

神経内科から精神神経科へ

医大病院の神経内科に行ってきた

 

昨日、医大病院の神経内科に行ってきました。

 

9時30分の予約だったので、9時には到着するように家を出て、バスで病院へ。

病院について、紹介状と診察券を出して、手続きをしてもらい、30分ほど待ちました。

 

待っている間に、問診票を書くもんだと思っていたんですが、問診票は一切なし。

「問診票は?」と思っている間に、9時30分になり、そのまま診察室に呼ばれました。

 

診察

 

先生がまず自己紹介してくれて。

お願いしますと挨拶して。

本題に入りました。

 

優秀な患者?

 

「紹介状にいろいろ書いてくれてますね。このことについて、順番に聞かせてください。まず、最初に症状が出たのはいつ頃ですか?」と聞かれました。

何を聞かれるのかわかっていたので、今までの経過、症状、困っていること、心配なことなどをA4用紙にまとめて持っていました。

なので、「時系列に書いたものを持ってきました」と言って、それを先生に渡しました。

 

それを見た先生が、「おお、これはいいですね!素晴らしい!」と。

ダテにドクターGを見ているわけではありません(笑)

 

それに目を通して、大体把握できたらしく、問診はほとんどなし。

家族の発症歴など、書いていない部分のみ説明しました。

サクサクっと話が進んだので、「ホントにこれいいわー!ありがとうございます!」と先生に褒められました。

優秀な患者でしょう?(笑)

 

てんかんかどうかの判断

 

結局、てんかんかどうかを判断するのは非常に難しく、やはり診断を確定させるには静岡に行くしかない、とのことでした。

静岡で確定診断が出れば、もちろん医大で治療は可能だし、薬も調整が完了すれば、かかりつけのクリニックに戻ることも可能、と。

 

精神神経科へ

 

しかし、静岡は遠すぎて行くのが大変なので、同じ医大の精神神経科にてんかんに詳しい先生がいるので、そちらに回してもらうことになりました。

てんかんのほかに、発達障害やうつなど、ほかの症状がたくさんあるので、精神神経科で診てもらうのがいいかな、という判断です。

私としては、医大の精神科で診てもらえるのはラッキー!です。

メンタルクリニックは、ほかのところにかかったことはない?」と聞かれて。

「ここだけです」と答えると。

「それなら、精神科にかかってみるのもいいと思う」とのことでした。

神経内科の方から精神科に回してもらえるなら、ありがたい。

自分から、かかりつけ医にセカンドオピニオンを頼むのは非常に言い出しにくいから(;´・ω・)

 

やはり治療は難しい

 

そして、てんかんと確定したとしても、薬剤過敏で薬が飲めないので、難しいというようなことを言われました。

「この状態ではしんどいやろうから、治してあげたいんやけど…難しいなぁ…」と(苦笑)

とにかく、薬に慣れて眠気が治まるまで、「1日寝ててもいい!」くらいの大きな覚悟が必要だ、とのこと…。

 

メンタルクリニックの先生も、すごく少ない量で出してたと思うけど…。これだけの種類を試してダメだったなら、それはそのクリニックでは手に負えないと思うわ…」と言われました(;^ω^)

 

検査

 

というわけで、月曜日に脳波検査と精神神経科の予約を入れてもらいました。

CTとMRIは以前に取っているので、いらないとのこと。

 

難しい患者

 

とにかく、医大でも手こずる患者のようです…。

そして、神経内科と精神神経科の間でたらいまわしにされそうな気がしないでもない…。

とりあえず、どっちかで適切な処置をしてもらえて、少しでも楽になればいいな…。

 

自立支援制度さまさま

 

そうそう、費用は自立支援医療の自己負担上限額を超えていたので、無料でした。

ほんこの制度助かる…。

ありがたいです(*^^)v

高校の部活動

高校は3年間吹奏楽部に所属

 

高校に入学した私は、すぐ吹奏楽部に入部しました。

高校では、いろいろな部活を見学して回る期間が、1週間設けられていました。

1年生全員が、必ずどこかの部に所属しなければならないからです。

私は、吹奏楽部の見学に行き、その場で入部を申し出ました。

 

吹奏楽部に入部

 

入部するときには、中学での吹奏楽の経験の有無・担当楽器などを書かされました。

でも、私はフルートパートに入りたくて、フルートを習いだしていましたので、そのことも書きました。

そして、とりあえずすべての楽器を吹いて回り、適性も検査されました。

私は、口腔内の過敏のために、咥えて吹く楽器が吹けません。

なので、サックスやクラリネットなどのリード楽器は、吹けませんでした。

トランペットなどの金管楽器は、音を出すことができました。

 

入部してすぐは、とりあえずのパートに振り分けられました。

中学で所属していたパートに入ります。

同学年に、フルート経験者が一人しかいなかったので、私はとりあえずフルートに配属されました。

そのフルートパートには、中学の吹奏楽の先輩がいました。

その先輩は、中学でもフルートを吹いていて。

下の名前が、私と同じでした。

だから、かわいがってもらいました。

しかし、その先輩は、私が入部してすぐ、部活を辞めてしまいました。

私の味方になってくれる先輩が、早くもいなくなってしまいました。

 

フルートパートに所属

 

そして、入部者が決まって、パート分けが行われました。

これは、先生が決めます。

なので、中学でやっていた楽器と、違う楽器に振り分けられる可能性もありました。

発表は、クラリネットから順番に行われました。

私は、フルートパートに入ることができました。

他の子は、中学ではトランペットだったのにホルンに回されたり。

打楽器に回されたりと、いろいろありました。

初心者も数名いましたが、その子たちは中学校からの経験者がいないパートに配属になりました。

 

こうして、私の高校での吹奏楽生活が始まりました。

 

部活での人間関係

 

一番最初に、総合人文科の女の子と仲良くなりました。

その子は、市外から通学していたので、高校に知り合いはいなかったようで。

部活でも、知り合いがいないので、自然と私とペアになりました。

他の子は、みんな中学からの友達で。

同じ吹奏楽部から数人ずつ来ていたので、すでにグループが出来上がっていました。

 

しかし。

折角仲良くなったのに、その女の子は家の都合ですぐ退部してしまいました。

私は、また一人になってしまいました。

 

それから3年間。

なんとかみんなの中にまじりながら、居場所のない毎日が続きました。

平日は、授業終わりから夕方6時ころまでの練習なので、大したことはありませんでしたが。

土曜や日曜の練習は、あさ9時から夕方5時。

丸一日なので、すごく気を使いました。

お昼ご飯も食べないといけないからです。

私は、居場所確保に精一杯でした。


吹奏楽部は体育会系

 

コンクールなどの本番前は、平日は朝7時から朝練、8時30分からは授業。

放課後は3時30分から練習開始、終わるのが夜の7時や8時、時には10時になることもありました。

休みの日は朝7時から夜6時、舞台練習があるときは夜10時に帰宅したこともあります。

警察に補導される時間ギリギリです。

3泊4日くらいで、長野県や鳥取県の大山に、高山訓練にも行きました。

マラソン選手のように、酸欠状態にして訓練するのです。

そこでのロングトーンは、酸欠で目の前がホワイトアウトしました。

 

もう、文化部なんて甘っちょろいものではありません。

体育系の部活よりも、練習時間が長く。

練習も、厳しいものでした。

 

1年生の時

 

特に、1年生の時の顧問は口が悪く。

あまりにもできないと、「アホ!ボケ!カス!死んでまえ!」が口癖でした。

私は完全にひるんでしまいました。

 

1年生のコンクールでは、「タイタニック・サーガ」という、タイタニック号沈没をテーマにした曲を演奏。

私はフルートを吹いて、曲の最後のところだけ、パーカッションの手が足りないので、ヘルパー(助っ人)に行きました。

中学でパーカッションをやっていたから。

やっぱり、パーカッションは楽しかった。

きっと、一番向いているのだと思います。

 

そして、最初の内こそ、初心者でもある程度吹けたので許されていましたが。

私は、フルートを吹き始めて1年で、スランプに陥りました。

吹奏楽で一番難しい楽器は、打楽器で。

二番目に難しいのが、フルートだと言われています。

 

最初は勢いよく上達しましたが、途中で伸びない期間に突入してしまいました。

そのころは、3年生が引退し、2年生が権力を持っていました。

私がスランプに陥った時、フルートの先輩は何とかしてスランプを抜け出せるよう、あれこれ考えて指導してくれました。

それでも、なかなか抜け出せませんでした。

 

同じ旋律を吹くパート同士が集まって練習する、セクション練習というものがありました。

あるとき、そのセクション練習で、私が最も苦手とする、トランペットのN先輩と一緒に練習することになってしまいました。

N先輩は、めちゃくちゃ気が強く、自分が一番!な性格でした。

なぜか、私のことが気に入らないらしく、目の敵にしていました。

N先輩は、フルートパートの先輩に、何か耳打ちしました。

何と言われたかは、分かりませんが、私のことだと思いました。

多分、間違ってはいないと思います。

フルートの先輩は、「さすがにそれは言ったらあかんやろ!」と言ってくれましたが…。

そんなことがあり、私のスランプは増々酷くなりました。

 

今考えると、おそらく、私が委縮してしまっていたからだと思います。

出来ることも、できなくなってしまっていました。

 

2年生の時

 

そのまま、私は2年生になり。

辛いまま、吹奏楽を続けていました。

何だか、辞めてはいけない気がしていたから。

音楽自体は嫌いではないし、私の唯一の自己表現の手段だったから。

言葉で自分の気持ちを伝えることができない私にとって、音楽は、自分の気持ちをぶつけられる唯一の「コトバ」でした。

 

後輩が、入ってきました。

その子は、中学からの経験者で、手のかからない子でした。

私は、更に委縮しましたが、ここで気持ちを切り替え。

なんとか、スランプからは抜け出しました。

先輩も、「なんか最近うまくなったなぁ。何があったん?」と言っていました(笑)

 

しかし。

トランペットに入った後輩が曲者で。

前出のN先輩と同じ中学出身なこともあり、私のことを何か吹き込まれたのでしょう。

ものすごく強く当たってきました。

この子も、性格に難ありでした。

私が引退するまで、ずっと私のことを見下す態度を取ってきました。

 

私は、後輩たちが入部しても、誰が誰やら、見分けがつきませんでした。

もちろん、自分のパートの後輩の名前と顔はすぐ覚えました。

でも、後輩全員の顔と名前は、1年経っても完全には一致していませんでした。

だから、クラリネットセカンドを吹いている○○さん、という風に言ってもらわないと、分かりませんでした。

 

2年生のコンクールでは、「パリの幻影」という曲を演奏しました。

この時に、ずいぶん和音の知識を得ました。

 

3年生の時

 

そして、3年生になりました。

二つ下の後輩が、2人入ってきました。

可愛い可愛い後輩でした。

そのころには、私もずいぶん吹けるようになっていたので、同学年の子と二人で、2人の後輩の指導をしました。

後輩の指導をすることで、私もずいぶん上達しました。

人に教えることは、自分のレベルアップの一番の近道です。

それを、この時に痛感しました。

だから、今でも人に教えるときには、自分も学びなおす気持ちでいます。

 

3年生のコンクールでは、「GR」を演奏。

分かる人は分かると思いますが、あの横山光輝の「ジャイアントロボ」の中で使われた名曲です。

この曲は、演奏しているだけで泣ける名曲でした。

そして、高校生活最後のコンクールの曲、最後の舞台で。

本番の舞台上で、今までの苦労を思い出し、泣きそうになりました。

 

そうして、私は無事、吹奏楽部を引退しました。

 

部活動で得たもの

 

人間関係では苦労しました。

でも、それ以上に、音楽に関する知識を手に入れることができました。

全員にフルスコア(指揮者用の楽譜)が配られ。

3年生は、そこに書かれている音から、これは何の和音で、どう組み合わせると綺麗に鳴るのか、ということも分かっていなければなりませんでした。

そして、セクション練習などでは、20名ほどを前にして、交代で練習を仕切ることもしました。

そのおかげで、私は人前で意見を言うことができるようになりました。

 

そういう意味では、辛かったけれど、非常に有意義な時間だったと思っています。