kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

「変人」は誉め言葉

変な奴

発達障害を抱えている人のほとんどが、一度は言われたことがあると思います。

「お前、変わってるな」

「変人だな」

そう言われて、傷ついた、という人も多いことでしょう。

 

しかし。

私は、それを褒め言葉として受け取っています。

 

開き直った

中学生や高校生の頃。

クラスにうまくなじめなかったり、周囲との関係をうまく構築できなかったり。

困ったことが、沢山ありました。

そのころの私は、「変人だな」って言われたら、傷ついていたことでしょう。

 

中学・高校時代を何とか生き延び。

大学に入って。

私は、「変人」という言葉は、褒め言葉だととらえるようになりました。

 

大学では、歴史学科に所属していたこともあり、先生も学生も、変わった人たちばかりでした。

勿論、仲良くなった友達も、変な奴ばっかり。

時々、このブログを見てくれている友達も、変わってます。

(怒るなよ~、ほめてるんだから・笑)

 

そのころから、私は、「変わっている」ことは、一つの個性であるととらえるようになりました。

開き直ったというかなんというか…(笑)

 

変わっているからこそ、人と違うことができる。

歴史を動かした人たちだって、変わった人たちばかりです。

世界がひっくり返るような、大発見をした人たちだって、周りから見れば「変人」ばかりです。

 

綺麗な曲を沢山作った人だって、ものすごく変な人だったりします。

凄い絵を描く人だって、「狂ってる」と言われていたりします。

私の高校の大先輩で、世界的に有名な博物学者も、「気持ち悪い」と言われていたそうです。

 

人とは違うという才能

「変」であることって、一種の才能なんじゃないのか?

というのが、今の私の考え方です。

それが何かの役に立つかどうかは置いておいて。

「他の人と違う」ということは、ある意味才能だと思うんです。

 

変わってるからこそ、違うものの見方ができる。

みんなが同じ角度から見ていたら解決できない物事でも。

みんなと違う角度で見るから、解決できる。

 

「変わっている」と言われて、落ち込んでいては何にもなりませんけど。

「変わっている」ことを受け止めて、上手に利用することができれば、それは才能となり得るのではないでしょうか?

 

そんなふうに考えているので。

私にとって、「変人」とか「変わっている」という言葉は褒め言葉であり。

そう言われることは、光栄なことでもあるのです。

障害告知に対する家族の反応

障害があることを親に伝える

大人になってから、発達障害であることが発覚した人にとって。

それを親にどう伝えるか?ということは、結構大きな問題だと思います。

親が「障害」という言葉に対して、拒否感が強い場合、なかなか説明しにくいようです。

私の周囲の話を聞いていると、そういったケースの方が多く見受けられます。

 

私の場合

母親は、割とすんなり受け入れたようです。

父親も、抵抗はありながらも、何となく飲みこんではいるようです。

消化不良を起こしているようですけれども(苦笑)

それは、おそらく私の生育環境や、家庭環境に要因があるのだと思います。

 

私は、生後半年頃、保健所の乳児検診で引っかかりました。

身体を突っ張って硬直させるので、「脳性まひの疑い」といわれたようです。

母子医療センターへ紹介され、そこで精密検査を受けています。

当時も現在も、重い病気や障害の診断・治療をする専門病院として、有名です。

 

そこでいろいろ検査を受けて。

脳性まひや、てんかんの疑いはなくなったものの、運動発達の遅れの診断が出ました。

そして、医師の勧めで療育に通うことになりました。

療育に通って、暫くすると歩けるようになったので、そこで療育は卒業しました。

 

生後半年~1歳半くらいまで、私は「障害児」と「健常児」の狭間にいました。

なので、親も必死だったようです。

 

そんな成育歴があるので、母親は、大人になった私が「発達障害」の診断を受けても、割とすんなり受け入れたようです。

妙なこだわりや、おかしな言葉遣い、変な行動、感覚の異常。

それらの謎が解けた、意味が分かるようになったことで、どちらかというと安心したようです。

勿論、発覚した当初は、戸惑いもあったでしょう。

しかし、取り乱すことはなく、今に至っています。

 

父親も、「発達障害」に関して理解はないものの、「人と違う」ということは何となく飲みこんだようです。

元々、父の母(私から見ると祖母)が、白内障網膜剥離の影響で、視覚障害者だったこともあり。

「障害」という言葉に対して、拒否感はありませんでした。

祖母は身体障害者手帳を持っていましたし、白杖も持っていました。

父の扶養者として、父親の税金の障害者控除も受けていました。

また、父方の親戚には、重度の心身障害者がおり。

父親は、その人が小さいころからのことを知っています。

だから、「障害」に関しては、そこまで拒否はしませんでした。

 

ただ、父親の場合、「精神障害」というところに引っかかったようです。

実際には、発達障害精神障害とは別物ですが。

現行制度では、精神障害に分類されてしまっています。

だから、「精神障害の手帳を取る」と言った時は、やはり拒否感があった模様。

 

それでも、手帳が必要かどうかは、私自身の問題ですので、取りましたけど。

父親のために手帳を取るんじゃないですからね。

 

私には弟もいますが、弟は私の障害を知りません(多分)。

言う必要もないと思っています。

元々、「変な奴」と思っているようですから、それで十分かと(笑)

「あいつは宇宙人やから仕方ない」とか言ってました。

弟も変なこだわりがあったりして、充分変なんですけどね(;^ω^)


ラッキーなケース

私の家族の、私の障害に対する受け入れは、こんな感じです。

私の場合、小さいころから「障害児かもしれない」と言われていたこともあり。

家族は割とすんなり受け入れたほうなんだろうと思います。

これは、非常にラッキーなケースなのでしょう。

 

欲を言うなら、療育を受けている時点で、自閉症スペクトラムであることが分かっていればよかったんですけど…。

当時はまだ、古典的自閉症でないと診断されないような時代ですから、しかたないですね。

 

我が家は、そんな感じです。

体力について

燃費の良しあしはそれぞれ違う

以前、発達障害を抱える人の中にも、体力がある人とない人がいる、という記事を書きました。

私は、体力がない系の発達障害です。

昔から、体力がなくて。

すぐに疲れます。


体力がある人とない人がいるのは、多数派さんでも同じです。

みんなそれぞれ、持ち合わせている体力が違います。

また、消耗した体力を回復する力も、違います。

 

トレーニングでどうにかなるものではない

体力がない人に対して、「筋トレすれば?」とか「運動不足なんじゃないの?」なんていう言葉をかける人がいます。

発達障害の当事者同士であっても。

 

確かに、体力がない人の中には、単に運動不足だとか、筋力不足の人もいるでしょう。

しかし、体力がない人の中には、「生まれつき体力がない」人もいることを、忘れてはいけません。

みんながみんな、同じ効率のエンジンを持って生まれてきているわけではないのです。


運動をすれば、更にエンジンを効率よく使えるようになる人もいるでしょう。

しかし、そもそも燃費の悪いエンジンを持って生まれてきた人にとっては、運動すること自体が大変な負担になるのです。


もともとない体力を消耗してまで、体力を増やすような真似は、自殺行為です。

そんなことをするくらいなら、如何に少ない労力で最大の効果を発揮するか、ということを考えたほうが、建設的です。

また、如何に効率よく体力を回復させるか、温存するかを考えたほうが、身のためでしょう。

 

背景はみんなちがう

体力がない人にとっては、ちょっとした外出でも、サバイバルです。

沢山の人にもまれ。

沢山の刺激に耐え。

どうにかこうにか、目的地に到着し。

用事を済ませ。

再び、酷い刺激の中を帰宅する。


精神疾患を抱えていたり。

発達障害を抱えていたり。

身体的な病気を抱えていたり。


世の中には、いろんな条件の身体で生きている人が、沢山います。

疲れやすい身体を引きずって、何とか生きている人が、沢山いるのです。

自分がたまたま元気な身体だからといって、ほかの人も同じ条件である、と考えるのは危険です。


外出できる体力があることは、幸せなことなのです。

働ける体力があることは、幸せなことなのです。

行きたいところに行ける体力があることは、幸せなことなのです。


だからといって、体力がない人は不幸ではないし、それを悲観する必要はないと思います。

体力がある人のことを、羨ましく思うのはよくわかりますが…。

何事も、自分に合ったペースで、楽しめばいいと思うのです。

 

体力はいつまでもあるものではない

自分は大丈夫だと思っている、体力のある方々。

いつ自分も、体力のない人の側に立つことになるかもしれません。

年を取って、体力がなくなることもあるでしょう。

病気になって、体力がなくなることもあるでしょう。


「自分は大丈夫だ」と思うのではなく。

少しだけ、想像力を働かせて。

「もし、自分が体力がなくなったら、どうなるんだろう?電車で立っていられるだろうか?毎日働けるだろうか?外出できるだろうか?」

と、考えてみてください。


いつ、その日がやってくるかなんて、わからないのです。

私だって、外出も躊躇するような日が来るとは思ってもいなかったのですから…。

発達障害者にとっての自立とは?

自立って?

「自立したい」

「自立させたい」

そんな言葉を、よくききます。

障害者自立支援法」という法律もあります。


ふと思ったこと。

自立って、なんだろう?


辞書で「自立」の意味を調べると。

・他の援助や支配を受けず自分の力で身を立てること。ひとりだち。

とあります。


生活において、他の援助を受けずに…となると、障害者にとって「自立」というのは、事実上不可能になります。

ということは、障害者にとっての「自立」とは、別の意味で考えなければならないのではないでしょうか?

 

自分で自分に支援ができること

自分の力でお金を稼いで、そのお金で生活をする。

それは、「経済的自立」です。

それができるのが、一番だと思います。

しかし、障害の程度によっては、それはなかなか難しい場合も多い。


では、生活における「自立」とはなんでしょうか?

「経済的自立」も、生活における「自立」の一部ではありますが。

ここでは、それはちょっと横に置いておきたいと思います。


生活における「自立」。

特に、発達障害者における、「自立」。

私は、それは、発達障害者自身が、自分で自分に対して支援ができることではないか、と思います。


たとえば、話し言葉が苦手な場合。

自分の気持ちを伝えるために、文章を書いてみる。

絵カードを使ってみる。

絵に描いてみる。

気分表を使ってみる。


色々な方法があると思います。

これは、自分で自分にする視覚支援だと思います。

 

たとえば、耳からの入力が苦手な場合。

聞いたことを、すぐメモに書く。

ボイスレコーダーを利用する。

話している相手に、書いてもらう。

指示はメールで出してもらう。


自分の苦手な部分を補うため、他の人に協力をお願いすることもまた、自分に対する支援であると思います。

 

たとえば、感覚過敏の場合。

苦手な音から遠ざかる。

イヤーマフや耳栓を利用して、耳に入る騒音を軽減する。

まぶしいときは、サングラスをかける。

光量を調節する。

きついにおいから遠ざかる。


など、いろいろとあると思います。

自分の身を守るすべを見つける。

それも、自分に対する支援だと思います。

 

他にも、書くことが苦手なら、それに代わる方法ははいか?

片付けが苦手なら、どうすれば片づけられるようになるか?

苦手なことは、どうすれば少しでも苦手でなくなるか?

集中力が散漫なら、それを逆に利用する手はないか?

過集中なら、それを防ぐ方法はないか?


それを考えて、自分が生きやすいように工夫する。

自分で自分に対して支援を行うことができ。

自分で自分の暮らしを、より生きやすいものに変えていくことができる。

それが、「自立」ではないかと思うのです。


ただし、これはある程度の知能がないと難しいとは思います。

それぞれに適した「自立」というものがあると思います。

 

自立するために

「自立」するためには、何が必要か。

発達障害者自身が、発達障害者への「支援」を学ぶことだと思います。


ネットでも、調べれば支援の方法がいろいろと出てきます。

多くのものは、子供向けの支援について書かれていますが。

それは大人にも応用できるものが多いです。


どんな支援があるか、学ぶことによって。

自分にはどんな支援が合っているのか、知ることができます。

誰かに支援をお願いするときに、「こうしてもらえると分かりやすいです」と伝えることが、できるようになります。


一通りの生活を、パニックを起こさずにできるようになること。

それが「自立」の目標だとすれば。

「支援」を学ぶことが、一番の近道なのかもしれない、と思った次第です。

左右盲

以前、「左右盲」という言葉を知りました。

医学的に定義された言葉ではないようですが。

左右の区別が分かりにく状態のことのようです。


発達障害があったり、左利きの人が右利きに矯正すると、そうなることがあるとか…。

病気ではなく、あくまで「得意不得意」というとらえ方のようです。


私も、もしかしたら、左右盲があるかもしれない。

左右が全く分からないわけではないけれど。

突然「右!」とか「左!」って言われると。

「右ってどっちだっけ?えーっと、あ、こっちだ」みたいなことはたまにある。


突然、「右に曲がって」なんて言われると、その場で一瞬フリーズする。

右…右…どっち?ってなる。

目の前で、「あっち」って指さしてくれたら、すぐにわかる。


右利き?左利き?って聞かれて。

とっさに答えられなかったことも…(苦笑)


鉛筆もお箸も右手で使うし、基本的には右手優位だけど。

ふとした瞬間、とっさに出るのは、左手だったり。

左手の方が使いやすいものがあるのも事実。

それは、ピアノとか、楽器をやっていたことにも関係があるかもしれない。


あと、鏡文字が普通に書ける。

図を、その場で右反転させて書けたりする。

これってもしかして、左右の区別がはっきりついていないからできるのかな?

って思ったり。


前にも記事にしたけど、上下逆さの文字も、普通に書ける。

上下逆さに見ても、雑誌とかの文章は普通に読める。

むしろ、みんなが見えるように横向きにされた方が、読みにくい。


左右盲というより、左右の役割分担が完成されていない、と言った方が良いのかもしれないけど…。

とにかく、左右差が多数派さんよりは少ないのは事実かな、と。


世の中にはいろんな得意不得意があるものですね~。

「体力ない系」発達障害

いろんなパターンがある

最近、ネット上で、いろんな発達障害の方との交流があります。

ネットがなければ、知り合えない方たち。

まさに、ネットの恩恵です。

 

そして、そんな仲間たちと交流する中で、一口に「発達障害」と言っても、本当にいろんなタイプがいるなぁ、と実感しています。

 

自閉症スペクトラムだけの人。

自閉症スペクトラムと、ADHDのハイブリッドさん。

自閉症スペクトラムADHD、さらにLDもある人。

二次障害の有無も、人それぞれ。

 

私の場合、自閉症スペクトラムと、ADHDを併発しています。

そして、二次障害はうつ(躁鬱かもしれない)。

さらに、てんかん(もしくはほかの神経系の疾患)があります。

他にも、いろいろ病気を抱えていて。

もう、何が何やら分からない状態です…。

 

体力は生活への影響が大きい

いろんなタイプの発達障害の人がいる中で、一つ言えることがあるように思います。

それは、「体力ある系」の発達障害か、「体力がない・身体弱い系」の発達障害かの違い。

体力があるかないかだけでも、生活のクオリティが全然違うと思うのです。

 

体力が多数派さんと同じくらいある場合。

二次障害を抱えていても、まだ、周囲の配慮次第で何とか社会で生きて行けるのではないか、と。

体力がない・身体弱い系の人は、周囲の配慮があっても、体力がなく、常に体調が悪いため、社会に出ることすら難しい。

 

私も、てんかんの発作がおさまらず、常に頭痛があって。

喘息様発作があって。

「体力がない・身体弱い系」に入るのですが。

「体力がない・身体弱い系」は、社会に出ようとする前に、まず、毎日外に出られるのか?という問題が…(´・ω・`)

 

社会適応が良いかどうかは、自閉度だけでは測れないと思うのです。

その人の体力によっても、ずいぶんと左右されると思うのです。

 

馬力のある人とない人では、支援の方法も違ってくるのではないかと…。

難しい問題ですね。

自閉症児への教育(テンプル・グランディン博士のスピーチ)

自閉症に関するスピーチ

以前、NHKの「スーパープレゼンテーション」という番組で、テンプル・グランディン博士のプレゼンテーションが放送されていました。

 

私は時々、この番組を見ています。

いろんな人が、それぞれの立場で、いろいろな事柄に関するプレゼンテーションを行う番組で、内容はもちろん、話し方など、いろいろと勉強になります。

 

テンプル・グランディン博士

 その番組で、その時の放送はたまたま、「自閉症」に関するもので、スピーチをするのが、かの有名な自閉症の動物学者、テンプル・グランディン博士でした。


彼女は、幼いころ自閉症と診断され、一生話すことは出来ないだろうと言われていました。

しかし、母親が熱心で、彼女に様々な療育を受けさせ。

彼女の周りには、素晴らしい支援者もいて。

彼女自身の必死の努力で、話せるようになりました。

そして、自分が一番身近に感じていた牛の研究で、世界的に有名な動物学者となりました。

 

彼女は著書などで、「自閉症とは、人間と動物の間の駅のようなもの」という表現をしています。

自閉症の人は、人間よりも動物に近い感覚を持っている、と言います。

その意見が、今回のプレゼンテーションにも反映されていました。

 

プレゼンの内容

プレゼンテーションの内容を要約すると、以下のような内容でした。

※【 】内は私が考えたことです。

 

「テーマ」

 世の中にはいろんなタイプの頭脳が必要だ

自閉症スペクトラムの話。

 自閉症か、単なるオタクなのか?その分類は難しい。アインシュタインモーツァルトも、今ならASD(自閉症スペクトラム)と診断されるだろう。

 

・自閉脳は細部に注目する。多数派は全体を見るが、自閉症の人は全体より細部により注意を払っている。

 

・動物と自閉症について。動物と自閉症の人の脳には、共通点がある。

 

自閉症の人は、絵で考える脳である。視覚思考(ビジュアル・シンキング)で、言葉を聞いた時に、そのものの絵が頭の中に浮かぶ。しかも、その絵は写真のように詳細で鮮明である。それはいわば、インターネットで画像検索をかけるのと似ている。

【私もそうです。逆に、視覚思考でない人は、どうやって物を考えているのか不思議で仕方ありません】

 

・頭のなかで、シミュレーションができる。何かをしようとする時、画像としてそれを思い浮かべ、自由自在に動かすことができる。だから、実験での検証と同じことが、頭の中だけで検証できる。

【これもそう。頭の中で、何パターンものシミュレーションができます。】

 

・自閉っ子の将来が心配…。

 未だに、自閉症の子どもへの教育は、適切でない。

 

・グランディン博士は視覚思考タイプだが、視覚的でない自閉っ子もいる。

 

・グランディン博士の場合は、脳の画像検査で、視覚思考タイプとわかった。

 

自閉症の脳は、得意・不得意がはっきり分かれる。

 例)パターン思考 → 数学・音楽が得意
   言語思考 → 物知り
 など。

 どこかの分野がとんでもなく秀でているかわりに、社会性に障害があったり、コミュニケーションが苦手といったように、得意・不得意が激しい。

メンタルクリニックの先生が言っていました。人間の能力は凸凹があっても、必ず±ゼロになるようにできている。だから、不得意なことが大きければ大きいほど、得意なことは突出してくる、と。】

 

自閉症者は、様々な感覚過敏を持っている。それは、感覚で物を考えるということにもつながる。動物は感覚で考えている。だから、自閉症の脳と動物は、近い。

 

・自閉っ子は分類が得意なことが多い。多数派は分類が苦手で、不具合の場所の発見が遅く、対処が遅い。

【私もそう思います。だから仕事でイライラしたのか…と納得】

 

・世の中にはいろんな頭脳が必要だ。だからあらゆる人をサポートすべきなのに、まだ世間はそうなっていない。なんてクレイジーなの!

 

・普通の脳は言葉を話せる。そのかわりに、言葉が視覚思考を遮る。

 例)ゴッホの有名な渦巻きの絵は、数学的パターンの視覚思考ではないか。

【私も、言葉を上手に操れる多数派さんは、言葉を獲得したことによって、他の大事な能力を失っていると思っています。言葉が他の感覚を邪魔していると感じています】

 

・自閉脳は、今後社会で必要になる。だから、自閉症の子どもたちへの教育をきちんとしなければならない。

 

・自閉っ子に、時間をまもるなどのしつけをしっかりすべき。自分は「しつけ」をしっかりしてもらった。そのおかげで、今社会で認められている。

 しかし、今の自閉っ子は時間が守れなかったり、好きなことしかしなかったりする。

 好きなことだけをしていてはダメ。嫌なことでも、少しずつチャレンジさせるようにする。そうしないと、社会に出られない。

 

・では、自閉症の子供に、どうやって上手に学ばせるか。

 それには、こだわりを利用してやる気を起こさせることが必要。

 車が好きなら、それに関連して計算問題を教えたりする。そうすると、自閉症の子供は自分から学びだす。

 

・思考パターンによって、職業の向き不向きが変わる。

 例)言語思考タイプなら、俳優・女優が向いていたりする

 それは、自閉症者は他人との交流の方法を、芝居感覚で身につけるから。

【他人との交流を芝居感覚で行っている、というのはまさにその通りだと思います。私も、「演技」することで常識的なふるまいをすることを覚えました】

 

自閉症の子が自ら学ぶようにしむけるため、指導者が必要


 ・自閉っ子には分かりやすく具体的な説明が大事

 

・グランディン博士自身、うまく話せず、学校でイジメに遭った。しかし、それ以上に、自分を理解してくれる存在や、支援者がいたから成功できた。

 

自閉症の子どもへのサポートの大切さ



ざっとまとめると、こんな感じでした。

聞いたり見たりしながらメモを取るのが苦手な私が、一生懸命、字幕を見ながらスマホにメモを取ったので、少々ニュアンスが変わってしまっている部分もあるかもしれません。

抜け落ちている部分も沢山あると思います。

 

個々に合った教育を

グランディン博士は、自閉症の子どもへの教育の在り方、関わり方の大切さを、必死に訴えておられました。

自閉症の子どもに合った教育がなされないなんて、どうかしている!と。

(何度も「クレイジー!(狂ってる)」という発言がありました)

 

一生話せないかもしれないと言われた女の子が、世界的に有名な動物学者になれたのは、理解と支援のおかげだった、と。

 

才能ってなんだろう?

グランディン博士は、自閉症者の中でも、たまたま運良く才能を発揮できた、一握りのラッキーな人なのかもしれません。

自閉症者みんながみんな、才能を発揮できるわけではない。

むしろ、才能を発揮できない人の方が多い。

それは確かに、そうかもしれません。

 

でもね。

私、思うんです。

「みんながみんな、才能を持っているわけではない」って主張している人たちって、そもそも何を持って「才能」を定義しているのか?って。

 

才能って、数学ができるとか、音楽ができるとか、それだけが才能じゃないと思うんです。

人と違うものの見方ができる。

それだって、充分「才能」だと思うんです。

それを、周りの大人が自分に都合の良い「才能」でないからといって、「この子には才能がない」って決めつけてる部分も、沢山あるんじゃないかなって。

 

能力で食っていければそれは「才能」で。

食っていけなければ「才能」ではない。

その定義って、ちょっと違うんじゃないかな、って思うんです。

結局、何が「才能」かを決めるのは、本人なんじゃないかな?

 

タダの落書き魔だと思っていた自閉症の子の落書きが、物理学の難しい方程式だった、なんていう話もあります。

親は「無駄なことだからやめさせよう」と思っていたのですが。

専門家にその落書きを見せたら、「素晴らしい!そのまま続けさせなさい!」と言われた、と。

親や、周りの大人が、何の知識もなく「才能」かどうかを決めるのは、違うと思うんです。

 

素晴らしく面白かった

しかし、テンプル・グランディン博士、すごい早口だし、聴衆の反応を待たないし。

自閉症の特性丸出しだなぁって思いました(笑)

なかなか、面白いプレゼンテーションでした!