kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

テグレトールに変更(神経内科)

今日は、月に一度の医大の通院日でした。

 

この1か月間は、とても発作が多くて、疲れています。

瞬間的にバンザイするように手が突っ張ったり、ピク付きがあったり。

時々、意識がぼやけたり。

ふらついてこけるのも、薬の副作用かもしれない、とのこと。

 

リボトリールの副作用が強く出ていて、とても眠い割には全く効果がないので、薬がテグレトールに変更になりました。

 前に飲んだことがあって、眠くてあきらめたのですが、もう一度赤ちゃん量から挑戦です。

 

てんかん薬の中でも、ミオクロニー発作に効果のある薬を選ぼうと思うと、、選択肢が限られてきます。

そのうえ、薬疹が出た薬もあるので、さらに選択の余地が狭まってしまう。

主治医が「てんかんの薬を使うのはあきらめようかな…」と言っていましたが、発作の状況から、やはり抗てんかん薬を使うことにしたようです。

 危うく、抗てんかん薬の治療はあきらめられるところでした…(^^;;

 

てんかん薬がほぼ飲めないので、専門家が頭を抱える案件になってしまっています。

診断書でも、「薬が飲めないため難治性」と書かれている状態(´・ω・`)

  

困りました。

テグレトールが飲めるといいんですが…。

とりあえず、2週間様子見です。

あなたと私は同じではない

考え方が同じでも

以前から、ブログでもツイッターでもちょくちょく発言していることですが。

最近またもやもやすることも多く。

また、書こうかと思います。

 

時々、「○○について同じ考えだ」という方と出会います。

それは、とてもうれしいことです。

私だって、「あ、この人、同じ考え方するんだなー」っていう人に出会うと、うれしいです。

 

しかし、同じ考え方をするからといって、過度に絡まれたり、同意を求められるということが私は苦手です。

なぜなら、ある一つの物事に対して、「それには同意見です」となっても。

他のことに関しても同じ意見かどうかは、わからないからです。

 

それぞれの考え方

人間には、それぞれいろんな考えがあります。

人それぞれ、「これはこう思う」「それはちょっとちがうんじゃない?」と、いろんな考えを持っています。

なのに、ある一つの事象に対する感想だけを取り上げて、「私と同じ!分かり合える!」と思うのは、行き過ぎなのではないかと…。

 

そして、「分かり合える!」と思い込んで、やり取りを続けるうちに、「ここは意見が合わないな」となったときに、「そんな人だと思っていなかった!」という展開になることもしばしば。

それに、もやもやするのです。

 

「そんな人だとはおもわなかった」って、そりゃそうですよ、私はあなたの想像の中の私とは違います。

あなたの想像の中で自由に動かされている私とは、別物です。

 

たとえ、親子であっても、親と子は別の人格です。

決して、同じものではない。

それを忘れている人も、ちらほらいるように感じます。

 

 私は私、あなたはあなた

私は私。

私は一人の人間であり、考えも私の中にあります。

他人の想像の中の私とは違うんです。

 

私はあくまで私であり、あなたと同じではありません。

何度、それが口から出かけたことでしょう。

何度、それを伝えてきたことでしょう。

 

ひとつの事柄について、同意見であっても。

他の事柄については違う意見を持っている。

それが人間というものです。

どんなに仲の良い相手であっても。

一から百まで同じ考えだということは、ありえません。

 

ですから、違う意見を持ったときに怒ったり、悲しんだりするのではなく。

「そうか、そういう意見もあるんだねー、私は違うけど」と、さらっと流すのが相手に対して敬意を払うということだと思うんです。

 

相手の意見を尊重する。

しかし、決して相手に気に入られるために迎合する必要はない。

私は私、あなたはあなた。

それでいいと思うんです。

 

一番してはいけないのは、意見の違う人を攻撃することだと思っています。

そういう私も、カッとなって攻撃してしまうこともあるので、本当に気をつけなければいけないんですが(;^_^A

 

決して、同じ考え方をする人を否定するわけではありません。

また、違う考え方をする人を否定するわけでもありません。

 

同じ考え方をする人同士、つるむことも悪いことではありません。

ただ、同じ考え方をする人同士が集まって、ほかの意見を持つ人のことを攻撃するのは違うと思います。

 

人それぞれ、生まれてからの経験、育った環境、受けた教育など、違った背景を持っています。

ですから、自分と同じ意見だからと言って、すべてが同じとは限らないのです。

 

人と意見が違うからといって、自分はダメだとか、攻撃されたと感じる必要はないのです。

逆に、自分の意見を押し通そうとする必要もないのです。

 

合わない人とは合わない。

それが人付き合いの基本だと思います。

合わないなと感じたら、静観するなり、離れるなり、すればよいのです。

 

意見が合うと思う人にも、すべての意見に賛成しなくてもいいのです。

迎合する必要は、どこにもありません。

意見の合わない人に自分の意見を押し付ける必要もないのです。

ただし、時と場合によっては、折れることも必要です。

 

多数派の意見を持っている人だって、すべてがすべて分かり合えるわけではないのです。

むしろ、完璧に分かり合っている人なんて、いないのではないでしょうか?

 

分かり合えないのが人間。

だから、何とかして分かり合おうと努力する。

それでいいのではないでしょうか?

 

自分は自分の意志をもって。

自分に自信を持って。

生きていけばよいと、私は思います。

気づかせてくれる人の存在

自分が作り上げたもの

以前、とっても良くしてもらっている人と、少しお話をしてきました。

その時に、近況報告をしたのですが。

「いいね、どんどんいい方向に向かってるね。前進してるね」と言ってもらいました(*'▽')

 

「私、昔からチャンスに恵まれるんです。気づいたら、手の中にチャンスを握っていた、ということが多いんです」というと。

その人が言いました。

「それはね、今まで自分が一生懸命、そうなるように環境を整えてきたんだよ」と。

 

落ち込んでいたときとか、前に進めなくて右往左往していたときに。

自分で、自分の周りの土台を一生懸命作っていたから、今どんどん前に進めているんだ、と。

自分で、自分の足元をしっかりと固めていたから、今どんどん先へ進めているんだ、と。

そう、いわれました。

言われてはじめて、「なるほど…」と思いました。

 

気づかせてもらった

私自身には、自分の土台を固めようとか、そういう意思は一切なく。

ただ、もがき苦しんで、どうすればいいのかわからなくて、たくさん泣いて。

そうしているうちに、なんとなくチャンスが降ってきた感じなんですけど。

本当はそうじゃなくて、自分でちゃんと物事を進めてきた結果なんだよ、と教えてもらいました。

 

私が人に恵まれているのも、「あなたが一生懸命土台を固めたから、相手の人も一緒に土台を固めてくれる。だから、恵まれているんだよ」というようなことを、お話ししてくれました。

 

いまだに私は、自分で自分の環境を整えている感覚は、あまりありません。

どちらかというと、行き当たりばったりなことも多いし、衝動的な行動も多い。

でも、無意識に、良い方向に向かうように行動しているのかもしれないな、ということは理解できました。

 

根本的な考え方というか、性格なんでしょうか。

どこか、楽天的なところがあるんでしょうね…。

 

だめなら、あきらめて別の道を探す。

できないことがあるなら、無理に体当たりして砕けるんじゃなくて、回り道をしたり、あえて避けて通る。

今できることを、とにかくやる。

 

私が私のままで生きていける道を探して。

私を助けてくれる人、見守ってくれる人を大事にして。

感謝の気持ちを伝えて。

ただ、それだけ。

私がしてきたのは、ただそれだけなんだけど。

それが、本当に大切なことだったのかもしれない。

そう思います。

 

こうして、私自身が気づけないことを教えてくれる人の存在もまた、私の人生を豊かにしてくれる。

本当に、ありがたいことです(∩´∀`)∩

「ネコの手貸します」完成!

絵の新作が完成しました。
「ネコの手貸します」です。
 
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最近、なぜか描くのにとても時間がかかります。

原因は不明…。

 

このネコ、手を貸すとは言っていますが、自分の好きなものを持っているのであまり手助けにはならないかもしれませんね…。

リフレッシュ専門に手を貸すのかな?(笑)

 

あーとの教室に行ってきました

昨日、わわわアールブリュットのあーとの教室に行ってきました。

前回の参加が2月18日だったので、ほぼ二か月ぶりです。

 

今回の課題は、「題名のつけ方」でした。

これはとても難しい。

自分の語彙力のなさを実感します。

なんというか、難しい堅苦しい言葉は知っているけれど、言葉をうまく操れているわけではない、ということを目の当たりにします(;^ω^)

 

行くたびに、新たな課題が出てきます。

一つ越えるのに時間がかからないこともあれば、どうすればいいのかわからなくてさまようこともあります。

 

そして、その課題が生活における課題とリンクしているな…と思います。

私にとって、絵は仕事でありながら、療育的側面も少なからずあるな、と思うのです。

お金を稼いだり、楽しんだりするだけでなく、自分を知るツールとなっているという感じです。

 

ですが、新たな課題が出てくるたびに、着実に前進しているな、という実感はあります。

一つ一つ、着実に階段を上っているんだな、と思います。

 

あと、やっぱり私は気が散りすぎ…(;^ω^)

ちょっとした物音や話し声で反射的にそちらを向いてしまったり、そちらに意識が向いてしまうので、始終きょろきょろそわそわ。

落ち着きません。

ストラテラを自分が飲める上限まで飲んでこれだから、もう上手に付き合っていくしかないですね…(´・ω・`)

 

新しいテーマや、新しく取り組む作品があるので、わくわくドキドキしています。

しばらくは、「何か面白いことないかなー」ということも減りそうです(笑)

 

 

床暮らし脱出の計画をしています。

楽な姿勢で、集中して絵を描けるように、ちゃんとした机を買おうと思っています。

(今は幅の狭い折り畳み式のローテーブルで絵を描いています。今更ですが、絵を描くことを長く続けられそうなので、そろそろ投資してもよいかと)

椅子からずり落ちてしまわないように、姿勢保持をしやすくするグッズを使って、工夫もします。

 

「絵が一つ売れたら机を買う」と決めたので、ぼちぼちなめなめ、頑張って絵を描いていきます!

神話・民話の中の障害者

歴史の中の障害者

私、神話や民話に興味がありまして。

それというのも、大学時代、言い伝えについて発表する機会があり、柳田國男の、民俗学の本に手を出したことがきっかけで。

その関係で、歴史のなかの障害者についての研究をした本を手に取る機会がありました。


そして、最近、新聞でも、『古事記』における障害者像関係の記事を読み、いろいろと考えたことああるので、書いていみようかと。

 

神話にも登場する

実は、神話にも障害者って、登場するんです。

イザナギイザナミの最初の子どもは、ヒルコと言われます。

手足がなかったとか、3歳になっても歩かなかった、などと言われています。

このヒルコ、実は恵比寿様なのですが。

どうして神様としてまつられるようになったのか。


神話によると、イザナギイザナミは、歩かない子を、川に捨ててしまったそうです。

その子は川を下流まで流され、やがて海に流れ着き、浜に打ち上げられます。

その子はその流れ着いた土地に繁栄をもたらし、やがて神として祭られたそうです。


他にも、歩けない神様がいます。

その神様は、歩けないけれど知恵があり、後々カカシとして信仰の対象になったそうです。


大昔の天皇の子の中に、成人しても一言も発さない子がいた、とか。

生まれてから数年間歩けなかった子がいた、とか。

記録に残っているものは少ないですが、明らかに障害者と分かる人や神様が、登場します。

 

民話にも登場する

また、民話の中にも、そういったものがあります。

墓の中で、死んだ母親から生まれた子の話が有名です。

「幽霊子育て飴」のお話を、ご存知の方もいらっしゃると思います。


詳しい説明は割愛しますが、墓から掘り出された赤ちゃんは、全身が真っ白で、目も見えず。

身寄りがないので、寺に預けられ、後に高僧となります。

こういった話は、全国各地にあり。

柳田國男の研究では、「赤子塚の話」としてまとめられています。


これって、あきらかにアルビノの子どもですよね。

生まれたときから、髪も皮膚も、真っ白。

そう言われて思い出すのは、「雪女」の話。


昔は、障害のある子や、見た目が他の人とは違う子は捨てられたり、寺に預けられたりしたそうです。

お寺が、今でいう福祉施設の役割を担っていた、とも言われています。


寺に一つ目小僧の妖怪が出る、なんていう話も、よく聞きます。

おそらく、寺のそういった役割から、寺に妖怪が出る、という話ができてきたのではないか、と思います。

 

原始より共存してきた

文献もない、本当に古い時代。

原始人の頃にも、障害者を皆で支えて生活していた、という証拠も、出てきています。

 

歴史の中にも、障害者は登場するんです。

その中で言えるのは、恐れられたり、敬われたり、とにかく奇異の対象ではあっても、社会の中に溶け込んでいる例がある、ということです。

他人とは違っても、特殊な能力を持っていれば、その能力を発揮した人も、いたのです。

神様として崇められたりしているので、特別扱いと言えば特別扱いですが。


大昔から、障害者と健常者が共存してきたことは、間違いのない事実だと思うのです。

それが、今は「働けるか働けないか」という価値観で見られ。

働けない障害者はお荷物だ、なんて風潮があります。

それは、案外最近の風潮なのではないのか、と思うのです。

昔の方が、固定観念にとらわれず、障害者も社会に受け入れられていたのではないかと思うのです。


勿論、差別なんて全くなかったと言うつもりはありません。

河原者としての生活を強いられたこともあるでしょう。

しかし、芸能の一部は、その河原者が発祥でもあるのです。

 

歴史的見地から思ったこと

以上の考察は、あくまで歴史(文献史学)が専門の私の意見です。

障害者の人権どうこうということに関しては、全くの素人ですので、深く追及することは出来ません。

なので、歴史と障害者について、ちょっと考えてみたよ、くらいの感覚です。

これ以上深いことは、本当に難しい問題なので、私もよくわかりません。

それだけは、お断りしておきたいと思います。

外見の乱れと精神状態は必ずしも一致しない

元気そうに見えて実はギリギリ

以前、Twitterでちょこっと話題になって、話し合っていたことがあります。

それが、「元気そうに見えて実はギリギリ」。

これ、発達障害の人あるあるだと思います。

 

発達障害の人は、自分の体調がうまくつかめなかったり、自分の状況を理解するのが難しかったりします。

また、「しんどい」と感じていても、それを表現する術を持たなかったり、人に伝えることが難しいことがあります。

生きてきた中で、疲れ果ててぐったりしていると「そのくらいで疲れるはずがない!ちゃんとしなさい!」と言われ続け、ぐったりすることが悪いことだと学習してしまっている場合もあります。

そのため、ニコニコといつも通りにふるまってしまい、どんなにしんどくても「しんどいです」とか「つらいです」をつたえることができなくなっていることがあります。

 

私も、そんなタイプの一人です。

発達障害の人にとって、自分の体調を把握し、それを人に伝え、適切に休むということは、非常に難しいことなのです。

 

身だしなみと精神状態はリンクしない

発達障害の人は、二次障害として統合失調症鬱病躁うつ病を抱えていることがあります。

そうした病気を抱えていると、身だしなみをきちんとすることができないといわれています。

そのことについて、Twitterで少し意見交換をしました。

 

まず、元気そうに見えて実はギリギリの状態で生きていることについて。

医者や心理士でさえ、その状況を見抜けないことが多々ある。

長い時間をかけて、言葉を尽くして説明して、多少わかってもらえてるかも…って思うこともあるけれど、それでもまだまだ理解というにはほど遠い。

能力の凸凹で補い合って、ギリギリいっぱい無理して生きている状態である。

ギリギリまで我慢できちゃう、ギリギリまで踏ん張ってしまう方が、誰も気がつかないまま急に死ぬ、ということがあるので、「死にたい」「しんどい」という信号を発することができない分、危ない。

 

外見の乱れに関して。

うつなどの症状があっても、外見の乱れがないからといって、精神的に安定しているとか、大丈夫な状況であるとは限らない、ということ。

医者ですら、いわゆる「障害者らしい格好」に縛られているのではないか。

(うつの状態であれば、髪はぼさぼさで化粧もしない、いつも同じ服を着ていたり、着衣が乱れているなど)

 

外見の乱れは、男女で分けて考える必要があるのではないか。

女性の場合、外見の乱れが全くないないということはないけれど、男性の乱れとはちょっと種類が違うと思う。

ギリギリの状態でなんとか生きていても、ちゃんと化粧をしているのは、死ぬなら綺麗に死にたいからってところがある。

女性であれば、この心理は前提として考えなければならないのではないか…。

だから、外見の乱れは男女で分けて考える必要があるのではないか…。

 

男性のことはちょっとわかりませんが、女性に関しては、外見と精神状態が直結しないということが多々あるのではないか。

私なら、外で自殺するときに化粧していく。

要するに、私にとってお化粧することは、出かけるときに毎回死に化粧をしているのと同じことである。

 

こういう話を、していました。

私の主治医は男性です。

そして、診断基準を作る人も、今はまだ男性の方が多いでしょう。

ですから、女性の場合、精神状態が身なりに現れないことがあるということが、抜け落ちているのではないか…。

私はそう思っています。

 

こだわりによるもの

発達障害と二次障害がある場合、発達障害の特性により、ルーチンに縛られてしまうことがあります。

ですから、「外出時には化粧をする」と決めてしまっていると、精神状態がどんなにひどかろうと、化粧をしなければならないのです。

これは、こだわりです。

 

女性としての感覚と、発達障害によるこだわり。

これらが相まって、より一層精神状態と身なりが一致しないのではないか、と思っています。