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kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、てんかん、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

年金の等級変更をすることになった

年金の手続きを模索していた

 

先日、年金が3級なのはどう考えてもおかしい、どうにかならないものか…ということを、記事に書きました。

どうせ何をしてもダメだ、2級になんてならないと思っていたのですが。

何とかなるかもしれません!!

 

ある方にアドバイスをいただき、審査請求の準備をしておりました。

その請求に添付するため、主治医に意見書を求めたところ、詳しく話を聞かれ、その結果、等級変更の手続きを取ることになりました!!

 

ガイドラインと診断書

 

まず、3級という裁定が現実にあまりにもあっていないから、審査請求をする、ということを伝えました。

すると主治医は「あれはびっくりしたね、まさか2級通らないなんて思っていなかった。同じように書いて2級通ってる人もいっぱいいるのに。何があかんのやろう?」と…。

え?先生、わかってないの?と思いながら。

「日常生活における支援の必要度がネックなんです。裏の3番、日常生活能力の程度が(4)であれば、2級になる確率が非常に高いです」と言いました。

 

ガイドラインに照らし合わせてみると、日常生活能力の程度が(3)の場合、2級もしくは3級になるのです。

それで、私の場合3級になってしまっているのです。

 

そこで、日常生活の困難度についての意見書を求めたところ。

主治医曰く、意見書を書くよりも、形式が決まっている診断書を書く方がいいとのこと。

審査請求のの場合、診断書を書き直してもらっても、差し替えはできないので意味がありません。

 

「診断書を書くというのなら、等級変更の手続きをすることになる」と私が言うと、主治医は「そっちの方がいいかも」と言いました。

「でも、前と同じ診断書だったら等級変更してもおそらく通らない」と言うと。

「じゃぁ、日常生活能力のところを何とかすればいいのね?そうするよ」とのこと。

 

また、1月末の時点で診断書を書いたときよりも、明らかに今の方が状態が悪いことがわかっているので(てんかんは静岡に行かなければならないレベル、未遂を起こしているなど)、充分に等級変更の理由になる、とのことでした。

 

等級変更をすることに

 

というわけで、審査請求ではなく、等級変更の手続きを行うことになりました。

年金事務所に電話をして、書類を送ってもらいます。

 

先生とケンカしてもいい、絶対に一歩も引かないぞ!という覚悟でいったのですが。

案外、淡々と話をして、先生の機嫌を損なうこともなく話が進んだので、ほっとしています。

そして何より、等級変更の手続きを了承してもらったことに安堵しています(#^^#)

 

前回の診察では、如月のオーラがまがまがしくて、入室したとたんに先生がじっと見ていたこと。

今回も、ケンカする勢いで、噛みつく勢いのオーラで行ったのがよかったのでしょうか(笑)

先生はちょっと投げやりながらも、診断書作成には協力してくれます。

 

主治医曰く「僕は割と厳しめに診断書を書く方やからね」と。

厳しめなんじゃなくて、私の診断書の場合、日常生活を反映していないんです。

「絵を描けてるし、ほんの少しとはいえ収入があるし、必ずしも就労不可とも書けないんよね」と。

絵を描いているといっても、1日に40分ほど。

それを仕事とは言いません。

今、絵でいただいているお金は、収入と呼ぶにはほど遠いものです。

(お金をいただけるのは非常にありがたいことです)

先生、仕事や生活の状態を、かなり勘違いしているとしか思えません。

 

慎重に

 

診断書を持っていくときは、日常生活の状態を書いた紙を一緒に渡そうと考えています。

それを参考に書いてもらい、おかしいところは指摘するつもりです。

そのくらい慎重にいきたいと思います。

 

大学1回生②

講義

 

新入生キャンプから帰った私たちは、本格的に講義を受ける準備に入りました。

 

まず、時間割を自分で決めます。

1回生で必ず取らなければならない単位や、卒業までの必須科目、選択科目など、ルールがあります。

そして、シラバス(講義内容・成績のつけ方などを書いた、辞書並みの分厚さの資料)を読んで。

講義の時間がかち合わないように、それでもって必須科目がちゃんと受けられるように。

開いている時間に受けられる講義で、選択科目になっているものは受けて。

結構大変です。

でも、私はこういうパズルのようなことが得意なので、とりあえずほとんどの時間を講義で埋めました。

あとあと、これが正解だったことが分かります。

1時限目の授業は、高卒すぐの1回生の間に取っておくのが一番です。

 

そして、学校で、イツミ・アイ・ハツエ・ヨウコにどの授業を受けるのか聞き。

あいている時間や、どっちでもいい授業などは、彼女たちが受ける講義に変えたりもしました。

そして、みんなでパソコンセンターの棟で、授業登録をしました。

 

1回生の間は、授業はほとんど一般教養でした。

 

外国語の講義

 

英語は、入学してすぐ受けたTOEICの成績を基に、クラス分けされました。

私は、1番上のクラスでした。

高校時代のあの成績で(笑)

だから、英語の授業はそれなりに難しいものでした。

でも、高校までの授業とは違い、結構楽しかった。

英会話教室のように、本物の外国人の先生の授業もありました。

授業の説明も英語のみですが、簡単な英語を使ってくれたことと、ゲーム形式で学ぶ方法を使ってくれたため、楽しく学ぶことができました。

 

第二外国語として、中国語も学びました。

これは、楽しかった!

耳のいい私は、先生の発音をそのまま真似することで、完璧な発音をすることができました。

先生にあてられて、私が答えるたびに、先生が「素晴らしい!」とほめるのです。

音読テストも、クラスの中で2・3人しか取れなかった、A+を頂きました。

その時、真後ろに座っていたチセが、後々仲良くなります。

 

ゼミ

ゼミが大変でした…。

一番最初のゼミの授業では、図書館に連れて行かれます。

そして、図書館の中を見学し、歴史関係の辞書はここ。

歴史関係の史料は、4階書庫。

検索はパソコンで。

というように、すべて自分で調べられるよう、史料の場所を教えてもらいます。

 

そして、ゼミではすぐ、発表がありました。

1回生では、全員が前期・後期で必ず日本史・世界史を学びます。

私たちのゼミは、前期は世界史でした。

ゼミの担当は、他大学から来ている、20代の女性講師でした。

この先生がまた厳しくて!

名前の漢字を別読みして、「トクコ」と呼んでいたのですが。

ゼミの前になると、「トクコや~」とげっそりしていました(笑)

 

最初に、「世界史で、人生に一度でもいいから移動した人物」というテーマを与えられました。

その人物を一人選び、その人について発表しなさい、というのです。

持ち時間は、質疑応答も含めて、20分。

だから、15分は話さなければなりません。

発表の手順なども教えてもらい。

本格的に、ゼミが始まりました。

 

私は、名前の順が後の方だったので、発表までに時間がありました。

しかし、最初のほうで発表した子が、先生にぼろくそに言われ。

まぁ、「研究発表」の基礎を叩きこんでくれたから、よかったのだと後から思いましたが。

その恐怖で、みんなビビりながら発表していました。

そして、発表の後は、先生やみんなからの質問があり。

答えられないと、調べたりない!と叱られ。

一番最後に、みんなが感想や質問を書き。

先生が、封筒に入れて渡してくれます。

当然、先生のコメントも入っています。

こわかったー!!

 

私は、「ネルソン提督」をテーマに選びました。

ナポレオンとも戦った人です。

高校の世界史の教科書を開いて、興味のある人を探すと、この人でした。

海軍の提督として活躍しているので、私にとっては、絶好のテーマでした。

そして、他の子と絶対テーマがかぶらないだろうと思ったので、決めました。

 

充分に史料をあつめ、15分で話す練習を繰り返し。

私は、本番に臨みました。

発表が終わりました。

何を突っ込まれるのかと、壇上でひやひや。

ところが、先生は大して何も質問せず。

私が、艦の専門用語、「面舵・取り舵」や「急速回頭」、「Z旗」等を多用したため、そういった用語の説明をさせられただけで終わりました。

他の子は、多分話についてこられなかったのでしょう、質問はありませんでした。

 

みんなと違うことが認められる

 

先生が一言。

「○○さん(わたしのこと)が、みんなと発表の仕方が違うんだけど、何かわかる?」と。

「わからん?みんなは、一人の人間の一生を発表したけど、○○さんは、一人の人間の、一部の時間だけを切り取って発表しています。こういう方法も、あるのです。みんなとは違う方法をとっていて、素晴らしい。」と。

 

そう、私は、よくNHKの「その時歴史が動いた」のような歴史番組を見ていたので、その人が一番輝いた瞬間だけを取り出して、発表したのです。

ネルソン提督に関する史料が少なく、そうせざるを得なかったこともありますが。

 

ここでは、みんなと違うことが、認められました。

みんなが先生のお手本を見て、その通りに発表したのに対し。

私はそれにとらわれず、自分の方法で発表した。

それが、認められました。

大学って、そういうところです。

先生方も、変わってます。

 

私はようやく、自分がはみ出していても認めてくれるところを、見つけました。

こうして、はじめて学ぶことの楽しさを、知りました。

大学は、自分で学ぶところです。

私は、学ぶことに、意欲的になっていきました。

大学1回生

大学生になった

 

大学受験を乗り越え、無事高校を卒業した私は、ついに大学生になりました。

卒業前の、もう学校に通わなくてよくなった2月に、大学を訪れ、大学生協を通じて学生マンションも決めていました。

大学まで徒歩10分ほどの距離。

大家さん(管理人さんというより、ホント大家さんという感じ)もいい人で。

女子学生専用マンションで、男子連れ込み禁止。

部屋は7畳、キッチン2畳。

ちゃんとしたオートロックで家賃は4万1千円。

安いです。

田舎だから(笑)

周りは、山と畑と、学生マンションと民家しかありません。

何かあれば大家さんがすぐ来てくれるマンションでした。

 

4月上旬。

京都の某女子大に入学しました。

大学は、急な坂道を上った山の上にあり。

私が入学した当初は、建物が6つしかなく、キャンパスも狭い小さな大学でした。

私が卒業するころには、建物も3つ増え、学部も増え、共学にもなっていました。

 

入学式

 

入学式の前日、オリエンテーションがありました。

そこで、お友達を作りましょう、という行事です。

そして、私は同じ学科の子と、とりあえず知り合いになりました。 

 

入学式。

私は、一人で出席しました。

大学の入学式では、一人で出席してる子も多かったです。

私は、文学部歴史学科の1回生になりました。

はっきりと「歴史学科」と名前の付くところに入りたかった私は、満足でした。

関西では、大学1年生のことを、大学1回生と呼びます。

順番に、2回生、3回生、4回生となるのです。

 

入学式では、学部学科別に、名前の順に並びました。

歴史学科には、私と同じ苗字の子が他に3人いました。

だから、歴史学科には4人、同じ苗字の子がいました。

そして、私の左に座った子が、話しかけてきました。

その子を、イツミとします。

イツミは、「同じ苗字ですよね、よろしく」と声をかけてくれました。

お互い、下の名前も言いました。

でないと、ややこしいからです。

私は、イツミの珍しい読み方を、すぐに言い当てました。

高校の部活で、同じ名前の子がいたからです。

 

ゼミ

 

入学式が終わると、自分の所属するゼミごとに教室に分かれました。

この大学では、1回生からゼミに所属します。

高校までの、クラスと同じようなものです。

クラス担任のような、ゼミ担任教授もいます。

一つのゼミは、だいたい20人くらいでした。

教室に入ると、イツミと、私の右にいた同じ苗字の子も、ゼミが同じでした。

私の所属するゼミには、同じ苗字が3人もいました(笑)

後々、先生方が大混乱しますw

 

オリターという相談役

 

1回生の前期は、各ゼミに「オリター」とよっばれる、いわゆるお世話係の先輩が2名つきます。

はじめての大学生活ですから、何かと先輩に相談したいことも出てきます。

そのための、お世話役です。

教室では、オリターの先輩主導のもと、自己紹介などが行われました。

一人だけ、別の大学にいたけれど、どうしても歴史を学びたいと、大学受験をし直した同級生がいました。

年は、1つ上です。

 

新入生キャンプと友達

 

新入生は入学して1週間で、全員が「新入生キャンプ」に参加します。

キャンプと言っても、1泊2日の修学旅行のようなものです。

学科ごとに、行先が違います。

そこで、みんなで舞台発表をする決まりになっています。

そうやって、クラスでお友達をつくりましょう、という企画でした。

私たちのクラスは、当時ドラマで流行っていた「大奥」をすることになりました。

何度か話し合いをして、みんなで、配役を決めました。

1つ年上の同級生と、同い年だけど年上に見える子が、脚本を書き。

他の子で、役を分けることになりました。

私は、イツミと一緒に、御匙(医者)役をすることになりました。

 

練習をしている間に、イツミともっと仲良くなり、脚本を書いたアイと、東郷さん役のハツエ、そしてもう一人ヨウコと仲良くなりました。

最終的に、イツミとアイ、ハツエとは、4年間ずっと仲良くしていました。

卒業した今でも、時々連絡を取り合っています。

歴史学科なだけあり(しかも、女子大の歴史学科)、私と似た世界に住んでいる人が、多かった(笑)

 

新入生キャンプは、歴史学科なだけあって、歴史関係の場所めぐりでした。

みんなで、大学からバスに乗り、兵庫県に向かいます。

2つのゼミが一緒にバスに乗りました。

オリターさんも、教授・助教授も一緒です。

バスの車中でも、助教授による、その地その地の歴史解説がありました。

 

バスの車中では、私はハツエと一緒に座りました。

そこで、漫画の話をして。

当時はまっていた、「沈黙の艦隊」の話をして、ハツエを洗脳。

そして、漫画を貸し、自衛隊ファンへと引きずり込むのでした(笑)

 

最初に、大学に非常勤講師として来ている先生が館長を務める、兵庫県の博物館に行きました。

先生が館長なので、特別にタダで見学し、ガイドもついてくれました。

文化系の歴史博物館でした。

そして、そのあとは赤穂へ向かいました。

あの、赤穂浪士で有名な赤穂です。

赤穂城の前に、茶屋があります。

そこで、お昼ご飯を食べました。

 

そして、昼からは赤穂城を見学。

天守などはありませんでしたが、奥(城主の嫁などが住んでいたところ)の間取りが、地面に描かれていて、面白かった。

ここでも、イツミ・アイ・ハツエ・ヨウコと一緒に行動。

そして、赤穂の旅館に、宿泊しました。

夕方4時ころチェックインし、部屋に入りました。

ゼミごとに2つ部屋が与えられていました。

私たちの部屋は、ガラス張りの角部屋で、海が一望できました。

素敵な景色の、素晴らしい部屋でした。

ついでに、下にある露天風呂がのぞけました(笑)

 

そして、そこからは劇の最終チェックをして。

夕飯を食べ、そして宴会場の舞台で舞台発表をしました。

私たちのゼミの「大奥」も、お笑い要素を取り入れてそこそこ成功。

一番すごかったのは、宝塚をやったゼミで。

男役をやった子が、一躍人気に!

わらわらして大変だった(笑)

女子だけだから、そういう子はあこがれの的になります。

 

そして、その日は風呂に入り。

布団をぎゅうぎゅうに敷きつめて、雑魚寝。

 

次の日は、またバスに乗り姫路城へ。

姫路城の天守を見学し。

先生方の解説も聞きながら、楽しみました。

ただ、時間が少なく、天守に駆け上がってすぐ降りるという見学だったので、心残りとなりました。

先生が、「あとからあとから継ぎ足して、構図が狂っている不細工な城」と言ったのが印象的でした。

一般的には、美しい城、と言われていますから。

でも、確かに中心線が変なところでずれていたり、構図が狂っていました。

 

そして、私たちは帰路につきました。

 

私の居場所

 

元々、「歴史が好き」という同好の士が集まっています。

しかも、「女子で歴史好き」です。

みんな、変わり者でした。

だから、私にはすごく居心地のいい場所でした。

すぐに数人と友達になれたのも、そのためだと思います。

この後、どんどんハチャメチャなグループになっていくのですが。

 

こうして、私の大学生活が、幕を開けました。

高校での人間関係

人間関係にけつまづいたままだった高校生活

 

高校生活3年間を通して、私はクラスになじめずにいました。

友達もいましたが、私が一方的にまとわりついてたというほうが正しいかもしれません。

その子に邪険にされなかっただけ、まだマシだったのだと思います。

そして、その子が優しかったから、私も甘えてしまったのだと思います。

色々と、迷惑をかけました。

 

1対1での人間関係

 

当時の私は、本当に1対1での人間関係が精いっぱいでした。

だから、クラスでも浮いていました。

それでも、なんとかグループに入っていればいいのは、お弁当を食べる時くらいです。

だから、なんとかしのいでいました。

 

私だけ、違う…

 

私は、私と他の子たちとの間のズレに、何となく気付き始めていました。

自分だけ、何かが違う。

何が違うのか、自分では分からないけれど、何か根本的に違っている気がする。

そんな思いも、言葉にならないまま、過ごしていました。


部活でも

 

部活でも、人間関係に悩まされました。

入部してすぐ、一人の大人しい子と仲良くなりました。

でも、その子は家庭の事情ですぐ退部し。

そのころには、周りはすでにグループを作ってしまっていたので、私は一人取り残されてしまいました。

そもそも、私と同じ中学から来た子で、同じ部活だった子がいなかったのに対し。

他の子たちは、同じ中学で同じ部活に所属していた子たちだったので、どうしても私はグループに入れませんでした。

 

高校から楽器を変更して下手だったこともあり。

みんなに迷惑をかけている部分もありました。

でも、初心者なんだから仕方ありません。

しかし、孤立していた私は、一部の先輩たちから、目の敵にされました。

同学年の子たちは、あまり表立ってそういった態度には出ませんでしたが、やはり邪魔者扱いされました。

後には、後輩にも馬鹿にされ。

もう、完全に人間不信に陥りました。

 

最初の頃の印象のために、3年生になっても、「何をやらせてもダメな子」と思われていました。

私も、失敗を恐れて、自分からは何もしない、何も言わないようになっていました。

完全に、部活でも浮いていました。

 

クラスで浮くより、部活で浮く方がキツかった。

 

フラッシュバック

 

中学でのイジメの体験が、ここでフラッシュバックの状態で襲いかかってきました。

中学の時よりも、フラッシュバックに痛めつけられました。

毎日が、地獄でした。

とにかく、はみ出さないように。

変なことをしないように。

変な発言をしないように。

周りの顔色をうかがう日々でした。

 

学校へ行くのは修行

 

だから、高校時代は、みんなが浮ついているイベント以外は、楽しかった覚えがありません。

毎日学校へ行くのは、苦行でした。

それでも、行くことが修行だと思って、毎日通い続けました。

 

そして、私は卒業式で皆勤賞をもらいました。

学年で2・3人だったと思います。

もう期待なんてしない

昨日は、メンタルクリニックの定期通院日でした。

いつもよりちょっと早く家を出たので、順番は4番目でした。

それでも、30分は待つようだったので、いったん帰宅。

 

そして、9時30分に病院に戻りました。

そこから待つこと約30分。

ようやく、診察室に呼ばれました。

 

今回は、途中までしか記入していない気分表のみ提出しました。

絵は提出していません。

なぜなら、主治医は私が絵が描けるから日常生活もできていると考えている節があるからです。

なので、あえて絵は提出しませんでした。

 

絵がないことに対して、主治医は「お、今回は珍しく絵がないね」と言ったので。

「それどころじゃなかった」と返しました。

心の中では「さっさと気分表読め。そしたらわかる」と毒づいていましたが(笑)

 

そして、気分表を読み進めていきました。

最初は、医大神経内科での治療の話をしました。

「ビムパットだめやった?薬変えたの?」と聞かれたので。

「薬変えたけどそれも飲めなかったから、静岡行く」と答えました。

「そうか、ついに静岡にいくか…」と先生。

 

さらに読み進めていくうちに、自傷というのか、未遂というのか、やらかしたことを書いてあるのに気づき、さすがに先生の雰囲気が変わりました。

なんというか、真面目なオーラが出た感じです。

(表情はよくわからないですが、そういった場の雰囲気の変化のようなものには敏感です)

 

そして、障害年金については、「普通は働いていたら2級は出ないんやけどねー。おかしいよねー」と。

いや、先生の解釈がおかしいんじゃないですかね??

働いているかどうかより、どれだけ支援を必要としているか、日常生活においてどれだけ困難を伴うかが判断基準になってるんですよ。

昔はどうだったか知りませんけど、今はそうなっていますよ?

 

先生のその発言を聞いて、改めて先生の障害年金の等級に関する認識がずれているとほぼ確信しました。

 

見た目と精神状態が一致しない件については、「なるほど」の一言のみでした。

どこまで伝わったのか…。

 

静岡てんかんセンターについては、「過剰すぎるほど期待していいと思うよ。薬についても、治療についても、マニアックなほどマニアックやと思う」と。

いや、もう期待はしませんよ。

期待して外れたらショックが大きいけど、期待せずに行って、思ってたより大きい結果が出たら喜べばいいじゃん。

 

「静岡てんかんセンターは日本一ってことは、アジア一やと思うし」と。

確かにそうなんやろうけど、だからといって絶対治せるわけでもないし、なにもかもわかるわけじゃないし、ちょっと神聖視しすぎなんじゃないかと…。

 

「やらかしたことみたいな、危険なことはしないでね。とりあえず静岡に行くまでは無事でいて。そういうことしちゃうくらいしんどいのはよくわかるけど。」と先生。

いや、全然わかってないよ。

わかるわけないじゃん。

前に、「そのしんどさはほかの人にはわからないよ。体験した本人でないとわからない」と言ったのは、あなたでしょうよ…。

 

そんなこんなで、やっぱりダメだ、と先生に対する信頼も何もかも吹っ飛んだ状態の現在です。

かといって、大人の発達障害を診られる病院がないので、病院を変えるわけにもいきません。

 

静岡に行って、いろいろ整理出来たら、年金額の改定の手続きをしようかと思っています。

その時は、先生との関係がこじれようとも、診断書を思いっきり添削して現状に合ったものにしてもらうつもりです。

 

あと、絵ももう二度と病院には持っていきません。

絵はこっそり描いて、病院には一切知らせず活動します。

そうでないと、「絵が描けるから大丈夫でしょー」みたいに思われることがはっきり分かったから。

 

先生への態度を一気に変えることになりますが、仕方ありません。

多数派さんでもそうでしょうが、発達さんにとっては人間関係ってそういう傾向が強いです。

一度信頼を裏切られてしまうと、もうその人のことは相手にしなくなってしまいます。

だからこそ、「裏切りだ」と勘違いさせないために、丁寧な説明が必要なのです。

中学2年生

中学2年生になった

 

4月。

中学2年生になりました。

まだクラス発表がされていないので、まずは1年生の時のクラスに入ります。

そして、そこでクラス発表があり。

私は、2年4組になりました。

そして、言われたクラスへ移動します。

校舎が、向かい側の校舎に変わりました。

1組だけが、階が違っていました。

 

そして、教室に入り、席順を確認し、席に着くと。

新しい担任の先生が来ました。

男性の先生でした。

私は、この先生とは全く合いませんでした。

 

そして、すぐ体育館へ行って、始業式をして。

またクラスに戻って、委員会決めなどをしました。

 

中学生活、仕切り直し

 

このクラスには、私の知らない子がたくさんいました。

1年の時に同じクラスだった子が、あまりいませんでした。

そして、小学校が違う、全く知らない子と仲良くなりました。

その子は、1人っ子で、すごくのんびりした子でした。

 

そして、その子には他のクラスにも友達がいました。

その子たちは、みんな吹奏楽部でした。

私は、その子たちに誘われて、吹奏楽部に入部しました。

 

不登校一歩手前

 

このクラスでは、いじめられるようなこともなく、すごく平穏に毎日が過ぎていきました。

ただ、5月頃から、朝起きると吐き気が酷くて、起きられない日が続きました。

それでも無理やり起きて行っていましたが、あまりにひどくて起きられないことが、2回ほどありました。

その2回だけは、学校を休みました。

母が学校に休むという連絡を入れると、不思議と体調は戻りました。

完全に、不登校一歩手前でした。

クラス替えという、環境の変化に、対応しきれていなかったのでしょう。

それでも、無理やり学校に行っている間に、慣れていき、普通に登校できるようになっていました。


遠足

 

この年の遠足は、ちょうど熊野博が開催されていたので、みんなでバスで博覧会に行きました。

その前に、通り道にある梅農園で、梅狩りもしました。

 

先生の指導に困惑

授業も大体ついていけていました。

 

ただ、数学だけは、ついていけなくなってきました。

1年生の時の数学の先生と変わり、「この辺りはもう塾で習ってるだろうから、説明飛ばします」なんていう先生で。

塾に通っていなかった私には、非常に困った事態になってしまいました。

 

ただでさえ、私は数学の式と式の間のつながりが分からないことが多かったので。

その間の説明も、本当はしてほしいところなのに。

それ以上に省略されては、どこをどう変形させたら次の式が出てくるのかが、分からなくなってしまいました。

そして、数学では、テストの度に補習授業を受ける羽目になってしまいました。


特性による困難

 

2年生で一番不満で記憶に残っていることがあります。

あるとき、私は友達と、トイレ掃除をして、トイレットペーパーを倉庫から持ってきていました。

階段を上がって、角を曲がると、担任の先生が突然目の前に現れました。

体格も大きい先生でしたから、私は飛び上がるくらい驚いて、「わぁっ!」と叫んでしまいました。

それを聞いて、先生は、「そんなに驚かんでも!失礼な!」といいました。

 

私は、突然視覚に飛び込んでくるものに、ものすごい恐怖を感じるのです。

お化け屋敷と同じ気分だと言えば、わかってもらえるでしょうか。

だから、本当にびっくりしたのに、どうして怒られなければならないのか、訳が分かりませんでした。

今から思えば、先生は冗談で言ったのかもしれませんが、人の顔をみて話すのが苦手な私は、先生の顔など見ていません。

そして、口調と言葉の意味のみで、相手の感情を判断してしまいます。

だから、この時も、私は「一方的に怒られた」と思ってしまったのだと思います。

 

最近は、「怒られた」と思ったら、言葉の切れ目に、相手の表情を読むようになりました。

それで、「声が大きい」だけなのか、「怒っている」のか、「怒っている口調だけど冗談を言っている」のか、区別をするように努力しています。

着衣の乱れと精神状態は必ずしも一致しない

元気そうに見えて実はギリギリ

 

昨日、Twitterでちょこっと話題になって、話し合っていたことがあります。

それが、「元気そうに見えて実はギリギリ」。

これ、発達障害の人あるあるだと思います。

 

自分の体調がわからない

 

発達障害の人は、自分の体調がうまくつかめなかったり、自分の状況を理解するのが難しかったりします。

また、「しんどい」と感じていても、それを表現する術を持たなかったり、人に伝えることが難しいことがあります。

生きてきた中で、疲れ果ててぐったりしていると「そのくらいで疲れるはずがない!ちゃんとしなさい!」と言われ続け、ぐったりすることが悪いことだと学習してしまっている場合もあります。

 

そのため、ニコニコといつも通りにふるまってしまい、どんなにしんどくても「しんどいです」とか「つらいです」をつたえることができなくなっていることがあります。

 

私も、そんなタイプの一人です。

発達障害の人にとって、自分の体調を把握し、それを人に伝え、適切に休むということは、非常に難しいことなのです。

 

医療関係者でさえ見抜けない

元気そうに見えて実はギリギリの状態で生きていることについて、医者や心理士でさえ、その状況を見抜けないことが多々あるのではないかと思います。

長い時間をかけて、言葉を尽くして説明して、多少わかってもらえてるかも…って思うこともあるけれど、それでもまだまだ理解というにはほど遠い。

能力の凸凹で補い合って、ギリギリいっぱい無理して生きている状態。

ギリギリまで我慢できちゃう、ギリギリまで踏ん張ってしまう方が、誰も気がつかないまま急に死ぬ、ということがあるので、「死にたい」「しんどい」という信号を発することができない分、危ないと思います。

 

 

身だしなみと精神状態について

 

発達障害の人は、二次障害として統合失調症鬱病躁うつ病を抱えていることがあります。

そうした病気を抱えていると、身だしなみをきちんとすることができないといわれています。

そのことについて、昨日Twitterで少し意見交換をしました。

 

外見の乱れ

 

うつなどの症状があっても、外見の乱れがないからといって、精神的に安定しているとか、大丈夫な状況であるとは限らない、ということ。

医者ですら、いわゆる「障害者らしい格好」に縛られているのではないか。

(うつの状態であれば、髪はぼさぼさで化粧もしない、いつも同じ服を着ていたり、着衣が乱れているなど)

 

外見の乱れは、男女で分けて考える必要があるのではないか。

女性の場合、外見の乱れが全くないないということはないけれど、男性の乱れとはちょっと種類が違うと思う。

ギリギリの状態でなんとか生きていても、ちゃんと化粧をしているのは、死ぬなら綺麗に死にたいからってところがある。

女性であれば、この心理は前提として考えなければならないのではないか…。

だから、外見の乱れは男女で分けて考える必要があるのではないか…。

 

男性のことはちょっとわかりませんが、女性に関しては、外見と精神状態が直結しないということが多々あるのではないか。

私なら、外で自殺するときに化粧していく。

要するに、私にとってお化粧することは、出かけるときに毎回死に化粧をしているのと同じことである。

 

医師も気づいていないのでは?

 

こういう話を、していました。

私の主治医は男性です。

そして、診断基準を作る人も、今はまだ男性の方が多いでしょう。

ですから、女性の場合、精神状態が身なりに現れないことがあるということが、抜け落ちているのではないか…。

私はそう思っています。

 

発達障害と二次障害がある場合、発達障害の特性により、ルーチンに縛られてしまうことがあります。

ですから、「外出時には化粧をする」と決めてしまっていると、精神状態がどんなにひどかろうと、化粧をしなければならないのです。

これは、こだわりです。

 

女性としての感覚と、発達障害によるこだわり。

これらが相まって、より一層精神状態と身なりが一致しないのではないか、と思っています。

 

このことは、次回の診察で主治医に伝えるつもりです。

主治医がどこまで理解できるかは不明ですが…。