kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

てんかんの診断2

てんかんの診断」の続きです。

 

脳波検査の結果

次の診察の日。

私は、結果がどうだったのか、ドキドキしながら診察室に入りました。

 

診察に入る前に、先生は脳波の検査結果を教えてくれました。

結果は、ボーダー。

ボーダーは、本当に区別がつかないか、見る人が分かってないかのどちらかのときに出る判定のようです。

脳波のデータ自体は病院に送られてこないらしく。

ただ、ちゃんと大学病院に持って行ってるので、一応信用しようということで。


解説をしてもらうと、θ波が混じっていて、左右差はない。

θ波は、大人でも混じることがあるけれど、おそらくてんかんによく似た波がでているのだろう、と。

そして、けいれんや頭痛、一瞬意識が飛ぶ、ぼんやりしていて自動で動いているときがある、といった症状が明らかに出ているので、要治療という結果でした。


θ波は、リラックスしたり眠りに落ちるときに出る波らしいです。

つまり、ほんの一瞬、自分でも気づかない間に意識が飛んでいる、ということ。


高校時代に、友達曰く「先生が授業中に言った」ということも、私の記憶になかったことが何度かあったのですが。

もしかしたらそれも、一瞬意識が飛んでいるときだったのかもしれません。

 

てんかんの治療

そうして、治療が始まりました。

てんかんの薬は、いくつもありますが、極度の薬剤過敏の私が飲めそうなものを選ぶと、選択の余地があまりありませんでした。

ラミクタールは、双極性の治療のためにすでに飲んでいたので。

最初は、デパケンを飲みました。

でも、副作用が強く。

少しずつ調整して、飲める量ギリギリ最大での処方をしてもらっています。

普通ありえないくらいの、かなりの少量でしか飲めません。


一度、イーケプラを追加したのですが、通常成人量の1割で飲み始めて、腹痛・下痢・じんましんの副作用が強く出て。

さらに半分の量で飲んでも、副作用が消えなかったので、断念しました。


なので、今はラミクタールの最小錠を3分の1と、デパケン細粒をごく少量という、効果があるかどうかも分からない量で飲んでいます。

もう使える薬がなくなってしまい、完全に治療は詰みました。


自転車に乗ったまま一瞬意識が飛んだり、階段で一瞬意識が飛んで転んだり、結構危険です。

今は、毎日おとなしく家で過ごし、体力を回復させることで症状をおさえよう作戦に出ています。

ただ、それもあまり効果が出ている実感はないまま、様子を見ていました。

 

てんかんセンターへ

それから1年ほど様子を見続けたのですが、あまりにも症状がひどくなってきたので、地元の大学病院を経由して、日本一のてんかんの診療施設である、静岡のてんかんセンターにかかりました。

そこで精密検査を受けましたが、「脳波を見る分には、てんかんとは言い切れない。ただし、不随意運動は本物だ(偽発作などではない)」とのことで、地元の大学病院の神経内科で引き続き治療を行うことになりました。

 

大学病院では、ほかの神経疾患も視野に入れながら、てんかんとして治療を受けています。

現在は、リボトリールという薬の調整中です。

診断書では、一応、難治性のてんかんという表現が取られています。

てんかんの診断

私は、現在てんかん(もしくはほかの神経疾患の可能性も)の診断を受けています。

私が、てんかんの診断を受けるに至った経緯を書いておこうと思います。

 

てんかんの疑い

てんかんの診断を受ける2か月ほど前。

うつ状態」という診断から、「双極性障害Ⅱ型」では?と言われた私は。

気分の上下と、体調他もろもろのことを、グラフに書き込んで、診察のたびに先生に提出していました。


ある年末の12月31日。

朝起きると、右顔面だけがけいれんしました。

すぐ治まりました。

その二日前に、食中毒で日赤のERに駆け込み、脱水症状で5時間点滴を受けていたこともあり。

単に疲れているんだろう、と思っていました。


年が明けて、今年1月1日の朝。

また、右顔面だけがけいれんしました。

今度も、すぐ治まりました。


しかし、それから何度となく、日中に身体のあちこちがピクピク動くけいれんが続き。

何か変だと思いながら、グラフのコメント欄に記録していきました。


そして、診察日にそれを見た先生が、「けいれん、続いてるね。脳波を取ったことはある?」と聞きました。

私は、母から、赤ちゃんの時に一度取っていると聞いていたので。

「赤ちゃんの時に、一回だけ取ってるみたいです。」と答えました。

先生が、「赤ちゃんの時に取ってるってことは、その時になんかあったってことやろうね。そのあとは?」といいました。

「一回も取ってません」と私は答えました。


普通は、一回の脳波検査では分からないことも多いから、何度か時間をおいて取るそうですね。

特に、発達障害の子は、思春期ころまでに「てんかん」を発症する可能性が結構高いので、よく検査するようです。


先生が、「今までにもけいれんってあった?」と聞きました。

私は、「けいれんがどんな状態を指すのかが分かったのが中学生の時だから、その時にはすでにときどきあった。」と答えました。

それを聞いた先生は、「一回脳波取ってみてもいいかもしれんね。」と言いました。

その時は、私は軽く聞き流しました。


その話を母にすると。

「一回、ちゃんと調べてもらえ」と言われました。

 

手帳の申請を機会に

その次の診察の時。

私は、精神の手帳が取れるかどうか、年金の申請ができるかどうかの相談をしました。

けいれんが毎日続くようになっていたこともあり、すぐに疲れたり、体調が悪くなったり、体調が悪化する一方なのは、もしかすると「てんかん」かもしれない。

もし、「てんかん」の気があるのなら、手帳が取れるかどうかの判断も変わってくる、と言われました。

年金は、まだ申請ができる時期ではないので、先送りに。

そして、母に脳波検査を受けることを勧められたこともあり。

先生に、「検査受けたいけど、どこに行けばいいかわからない」と相談しました。

そして、検査ができる施設を紹介してもらい。

病院から、その施設に予約を取ってもらいました。


ただ、この時に、先生に「もしてんかんの脳波が出ても、あなたの場合、薬が有効な量まで飲めないから、治せないかもしれない」と言われました。

 

そして、検査の予約の日。

昼からの予約だったので、私は仕事を半日休ませてもらって、検査に行きました。

頭に、沢山の電極を、気持ちの悪い糊で張り付けられ。

「最初は寝ないでください」と言われ。

目を開けたり閉じたり。

深呼吸を繰り返したり。

フラッシュを目の前でたかれたり。

いろいろな指示に従いました。

そして、電極を全部はずしてもらって、検査は終了しました。

刺激を与えられてる間に、何回か意識飛びかけてた…。


結果は、一旦大学病院へ送って、専門の先生に診てもらって。

それから、直接いつもの病院へ送るということだったので。

結果は、次の受診日に聞くことになりました。

 

続きます。

龍笛

龍笛との出会い

大学を卒業した後は、習い事をすることもなく、フルートを吹くことからも遠ざかっていました。

ところが、7年前。

市の伝統文化・芸術の発展のための企画のなかに、「雅楽教室」の開催がありました。

雅楽」って、あの、神社などでよく耳にする音楽です。

 

私は、フルートを吹いているころから、和楽器に興味がありました。

その中でも、龍笛という、日本の横笛を吹いてみたいと思っていました。

また、漫画「陰陽師」に出てくる源博雅が笛の名手だということもあり、どうしても一度でいいから吹いてみたいと思っていました。

しかし、自分で習いに行くにも、どこへ行っていいのやら全く分からず、そのまま放っていました。

 

それが、半年間全10回、500円で教えてもらえるというのです。

これは絶好のチャンスです。

すぐさま、参加するために電話をかけました。

 

雅楽教室

そして、雅楽教室が始まりました。

その年で、2年めの開催でした。

私たち1年生は、30名ほど集まりました。

教室では、「篳篥(ひちりき)」「龍笛(りゅうてき)」「笙(しょう)」のうち、吹きたい楽器を一つ選びました。

私は、迷いなく龍笛を選択。

 

30人は、だいたい10人ずつ、三つの楽器に分かれました。

そして、それぞれ部屋にわかれ、練習が始まりました。

 

楽器は、5000円で貸し出してくれました。

大人サイズのプラ管(プラスチック製の管)と、子どもサイズの本管(竹制の管)がありましたが、手の小さい私は、子どもサイズの本管にすることにしました。

 

もともとフルートを吹いていた私は、すぐに音を出すことができました。

また、運指を教わった時に分かりましたが、運指もほとんどフルートと同じものでした。

これは、ラッキーでした。

そして、ここで私の耳コピ能力が発揮されました。

 

雅楽は、もともと口伝の音楽です。

今は一応、カタカナの羅列だけの楽譜がありますが、基本は先生から生徒へ、口で歌って覚え、先生が吹いたものを真似して吹いて、習得していくものです。

思った音がすぐに出せる。

音程も、かなり正確に出せる。

一度か二度聞けば、何とか曲になる。

そんな状態でしたので、私にとってはとても楽しい教室でした。

 

龍笛の2年生が全滅していたこともあり、2年生の授業の時間も、私は残って先生に教わっていました。

他の人がまだ吹いていない曲も、教わりました。

そして、最終的には、2年生の合奏にも参加。

飛び級していました(笑)

 

1年目の雅楽教室が終了したときに、最終的に残ったのは、5人でした。

 

そのあとの半年は、2年目が始まるまでお休みです。

雅楽を教えてくれていたのは、地元では唯一の雅楽会の先生方でした。

雅楽教室の生徒は、雅楽会の練習にも参加できるということだったので、わたしはその練習に参加することにしました。

 

先生方に、いろいろ丁寧に教えてもらいました。

 

雅楽教室の初級30人の内、本格的に習いたいと残ったのは、5~6人でした。

笙や篳篥には、2年生もいましたが、龍笛には2年生がいなかったので、私はずいぶん優遇されました(*^^)v

 

そして、その年、再び雅楽教室が開催されました。

私は、2年生になりました。

その時、龍笛で残っていたのは、私を含め2名。

もう一人は、雅楽経験者のおばさまでした。

笙も集まったのは、3年生を含め5名ほど。

篳篥も、3名ほどでした。

そして、2年生の中では、私が一番年下です。

後は、40代、50代60代くらいの人ばかりです。

私一人だけ、やたら年が離れいていました(笑)

やはり、根性がないと続かないようです。

ほとんどが雅楽会の練習に参加している人だったので、雅楽教室の練習も順調に進みました。

 

そして、そのメンバーが変わることはなく、無事に2年生も終了。

そして、雅楽会の定期演奏会に出演することになります。

雅楽教室のメンバーをメインにした出番が、用意されているのです。

 

その舞台で、私は、龍笛の主管(リーダー)に抜擢されました。

他の楽器の主管は、みんな雅楽教室3年生でした。

篳篥や笙の主管と違って、龍笛の主管は「音頭」という、曲の吹き出しの部分をしばらく一人で吹かなければなりません。

全くのソロです。

それでも、吹奏楽でも何度かソロをこなした私は、なんとか乗り切りました。

自分でも、しっかりホール内に響き渡る音で吹けたと思います。

久しぶりの舞台に、酔いしれました。

こればっかりは、舞台経験者でないとわからない快感です(笑)

 

その後も、雅楽会の練習に参加していました。

しかし、7月末ころから、体調がどんどん悪くなり。

8月からは、練習に行けなくなりました。

 

そして、今度は雅楽教室の3年生に進級しました。

二週間に一度、1時間程度の練習ならなんとか参加できました。

 

今度は、龍笛の2年生が全滅。

龍笛は、またしても2名でした。

他の楽器のメンバーも、変わらず。

練習は順調に進みました。

 

3年目は、雅楽教室が終わった後に、他の伝統芸能教室と合同の発表会がありました。

この舞台には、雅楽教室の1~3年生全員が乗ることになりました。

そこでも、私は主管を仰せつかりました。

 

そして、本番は無事終了しました。

私の体力も、何とか持ってくれました。

 

因みに、2年目の定演も、3年目の発表会も、楽服(袖の広い着物と袴)と烏帽子で出演しました。

この着物も着てみたかったんです(∩´∀`)∩

 

そして、その後は今も、雅楽会の練習には行けていません。

でも、できる限り、練習は続けています。

今年は7年生として、時々講師もしながら頑張って練習しました。


向いている

フルートよりも、龍笛が向いていたわけ。

それは、龍笛タンギングをする必要がないこと。

そして、フルートみたいなめちゃくちゃな連符がなく、早い指回しがないこと。

龍笛しかやってない人に言わせれば「早い指回し」という部分も、フルートを吹いてきた私には、全然問題のない早さです。

やはり、日本古来の楽器のほうが、私には向いているようです(笑

フルート

フルートを習う

中学2年で吹奏楽部に入部した私は、打楽器の担当になりました。

その中で、フルートを吹いてみたいという気持ちが強くなり。

高校では、吹奏楽でフルートが吹きたいと思うようになり。

中学3年の秋、部活を引退してから、フルートを習い始めました。

「どんな形であれ、音楽を続けるならそれでいい」と親に許可をもらった私は、ピアノは吹奏楽部に入ってすぐやめていました。

 

吹奏楽部に入部すること自体は、親に反対されるどころか歓迎されました。

父親が、同じ中学出身で、しかも吹奏楽部に所属していたからです。

娘が同じ学校の吹奏楽部に入部するんですから、それは嬉しかったことでしょう。

 

個人レッスン

中学3年で、フルートを習うことを決心した私は、ヤ○ハの音楽教室のフルートコースの体験に行きました。

でも、先生が気に入らなくて。

近所のおばあさんが場所を提供して開催しているフルート教室に見学に行きました。

すると、そこにいたのはヤ○ハで教えていた先生で…。

仕方がないので、その教室に通うことになりました。

フルートは、6万円くらいの、初心者向きのを購入。

これがまたハズレで。

私、精密機器はことごとくハズレが手元に来るんですよね…。

 

とりあえず、フルート教室に毎週通いました。

フルートの音を出すこと自体は、割とすんなりできました。

運指も、すぐ覚えました。

 

吹奏楽

高校生になり、吹奏楽部に入部しました。

高校の吹奏楽では、なんとかフルートパートに入ることができました。

そして、フルート教室で教わりながら、高校の吹奏楽部で先輩にも教わり。

一時はスランプに陥りながらも、高校3年間でそれなりに吹けるようになっていきました。

 

フルートの運指などは、フルート教室の先生に教わりましたが、基礎的なこと、応用的なこと、ほとんどは高校の先輩に教わりました。

最初の直感通り、フルート教室の先生と私は、合いませんでした。

私がフルートをそれなりに吹けるようになったのは、先輩のおかげだと思っています。

毎日毎日、姿勢から運指方法まで、教えてもらいました。

他のパートの先輩が、私に嫌味を言っても、その先輩は決して私の前では私を否定することはありませんでした。

今でも、感謝しています。

 

そして、大学でも吹奏楽部に所属し、フルートを吹き続けました。

ピアノ

ピアノとの出会い

五歳から、私はピアノを習い始めました。
これは、私の中では一番の才能を開花させるきっかけだったと思います。
才能とは言っても、それで食べていけるほどのものではありませんが。

道教室の先生の娘さんが、音大に入学し。
自分の勉強のためにも、こどもにピアノを教えたいということで。
道教室の中でも、おとなしくて良く言うことを聞く私に、白羽の矢が立ちました。
道教室の先生に、「ピアノ、弾いてみる?」と聞かれて。
私は、やると即答しました。

家に帰って、私は母に「ピアノ、習う!」と報告しました。
母は、訳が分からなかったようですが、書道の先生から電話があり、事情をのみ込んだようです。
家にはピアノもないし、練習もちゃんとできるかわからないけれど、それでもいい、遊びでいいから習いに来てほしい、ということで。
破格の3000円というお月謝で、毎週土曜日にピアノを習うことになりました。
私が一番弟子でした。

 

ピアノのレッスン

最初は、先生が私でも分かる曲を、ピアノで弾いて見せてくれました。
そして、鍵盤を触って遊ばせてくれました。
子供用の五線譜ノートを使って、ドレミを楽譜で書いてくれて。
私が楽しんでドレミを覚えることができるように、ドレミシールを用意し、音符の下に貼っていくことで覚えました。
私が、ピアノってどうやって音出してるの?と聞いた時には、ピアノのふたを開けて、ピアノ線と、それを叩くハンマーの動きを見せてくれました。
何でも分解して中身を見たい私にとって、とてもいい先生でした。

毎日練習するようになって、親が電子ピアノを買ってくれました。
狭い団地の部屋に、何とか設置して。
毎日一曲につき5回練習する、という決まりを守って、毎日頑張りました。
五線譜ノートには、先生が手帳のように、何月何日と書いたマスをつくり、練習した日にはそこに印をつけるようにしてくれました。
最初はマルだけでしたが、私はそのうち、絵を描くようになりました。

そして、練習した曲がある程度弾けるようになって、合格になったときは、その曲の横にシールを貼らせてくれました。
こどものご褒美として、とてもいい方法だと思います。

そして、先生の伴奏で、童謡などの歌も歌いました。
先生がピアノを弾き、私がその横に後ろ向きに立って、今弾いた音が何の音か当てる練習もしました。
それは、和音の区別ができるまでになりました。
このおかげで、私は絶対音感を身につけました。
絶対音感は、4から6歳の間でないと身につかない、と言われています。
絶好のチャンスでした。

先生が弾いた曲を聞いて、五線譜に書き起こすことも習いました。
それは、メロディーも伴奏も聞き取って書き起こすまでに発展していきました。

最初は私一人しか生徒がいなかったので、時間の制限もなく、私の集中が続く限り、音で遊び続けました。
ときには、書道の先生がジュースを出してくれたこともあります。
本当に、遊びに行っているという感覚でした。

こうして、大学生のお姉さん先生は、私に音楽の基礎をすべて教えてくれました。
通常の音楽教室では、ここまで習うことはできません。
それにしても、よく大学生で、訳の分からん5歳児にピアノを教えたものだ、と今の自分と比べて感心します。

この時の先生の指導のおかげで、私は、難易度が高いと言われるショパンの「子犬のワルツ」を、小学校六年生で弾きこなしました。
この時は、引っ越しをして、家の裏にあるピアノ教室に移っていましたが、習っている中では私が一番レベルが高く。
その先生が、前に教えてもらっていた先生が、基礎をしっかり学ばせてくれていると感心していました。
だから、「六年生だけど、この子なら弾ける」と、発表会で子犬のワルツをあえて選んだそうです。

後から分かったことですが、私は、毎回先生が弾いてくれたお手本を覚えて帰り、楽譜をろくに見ず(本人はちゃんと見てるつもり)、再現して弾いていたようです。
吹奏楽で音源なしの初見演奏をしたときに気付きました(笑)

しかし、この音楽の基礎と、耳コピ(耳で聞いてコピーする)の能力のおかげで、その後吹奏楽部に入り打楽器・フルートを演奏し、現在の雅楽龍笛にまで発展します。

一番最初のピアノの先生には、感謝してもしきれません。

 

平穏へのヒント

写経

以前、何もすることがない、何をするのも面倒だったときに、般若心経の写経をしていました。

一応我が家は仏教・神道両方信仰している形ですが、だからといって、宗教にこだわりがあるわけでもなく、単に集中できることが欲しい、というだけで写経していました。


購入した本は、禅僧による解説付きで、解説がとても分かりやすいものでした。

そして、ボールペンで写経できるのも、よいところ。


毎日少しずつ、写経をするようにペース配分がされていて。

その日写す分の解説が、次のページに書かれています。

その解説が、私の心理状況を楽にしてくれるものばかりでした。

 

自分と周りの関係は、切っても切れないものであること。

世界は、それらとの「縁」で成り立っていること。

それを大切にすることが、重要であること。

心のエネルギーが尽きているとき、私の周りにもたくさんある「縁」のことを、忘れかけていました。

元職場の上司たち。

元職場のメンバー。

趣味の集まりの人たち。

これまでに出逢った多くの人たち。

その縁を、大切にすることを、忘れかけていました。

 

足るを知る

 

足るを知ること。

今ある環境に満足をすること。

但し、このままでいいというわけではありません。

今、必要なものがそろっていれば、高望みせず、それに満足すること。

今の自分にはこれで十分、と思う気持ちが、心に安定をもたらすということ。

私は、少し焦っていました。

収入がないと暮らしていけない。

確かに、それはそうかもしれないけれど、この今、やりくりが苦しいわけではありません。

何とか、親の援助と障害年金で生活しています。

苦しくなるのは、一人になった時。

それは、少なくとも数年先のことでしょう。(断言はできませんけどね)

だから、今は足りている、ということにまず満足をしよう、と思います。

 

感情と向き合う

辛いときは、辛い感情にしっかりと浸かること。

気が済むまで、辛いと思う気持ちに付き合うこと。

そのあと、自分にできることを考えればいい。

しんどい時は、しんどいことを否定せずに、しっかりと受け入れようと思います。

 

自分は自分

人は人、自分は自分。

それぞれが絶対的な存在であること。

人と比べるから、苦しみが生まれること。

確かに、私は健康な人と自分を比べて、苦しんでいました。

健康な人がうらやましいと思いました。

でも、それって私にとっては高望みであり、健康であることへの執着です。

健康でない自分を否定しない。

自己肯定をしっかりしよう、ということだと解釈します。

 

丁寧に生きる

一瞬一瞬を大切に生きていくこと。

毎日同じように見えて、こまかく見れば毎日は必ず違う。

人間の細胞だって、刻々と入れ替わっている。

自分の気持ちだって刻々と入れ替わり、苦しみに耐えるうちに、いろいろなことを学んでいるのだと思います。

 

畏れない

失うことを畏れない。

私は、職と健康を失いました。

でも、縁まで失われたわけではありません。

職と健康を失ったおかげで得た縁も、あります。

 

流転

この世のすべては実体のないもので、すべては流動的なものである。

人間の目ではとらえきれないくらい早いスピードで、すべての物は流れている。

全ての存在は無いに等しいのだから、それらにこだわっても仕方がない。

人間だれでも、死ねば無に帰すのです。

現世で大成功をおさめても、死んでしまえばなかったも同じ。


そう考えると、今苦しんでいることも、楽しいことも、すべては一時の感情であり、気にするほどの物でもないのだな、と思います。

気にするから、余計に苦しくなる。

 

流れに身を任せて

とにかく、何事にもこだわらない。

自分の心の安定のために必要なこだわりは、捨てる必要はないとは思いますが。

欲に関するこだわりは、生きる上での重しにしかならない、ということを、思い出させてくれました。

さすがに、悟りを開いた人の教えは、違いますね。

人生をいかに平穏に生きるか。

究極のテーマの答えは、平穏に生きることにさえこだわらない。

何物をも超越していく。


以上、私の独自の解釈も含まれていますが。

いつか訪れる「死」までの修行と思って、「無」の考え方を頭に置いて、生きられたらいいなと思います。

絵の新作「ともだち」

絵の新作が完成しました!
「ともだち」です。
 
{E0307095-2341-4981-9835-2C3F9809D1DC}

 

VHC旅行のメンバーです。

手前真ん中がIちゃん、右がちっちゃ。

後ろが左から、ぶんぶんはっち、YAMAちゃん、如月。

 

集合写真を撮るとき、本当にこんな感じなんです。

Iちゃんが自撮りをして、後ろで私たちが並んでいて、ちっちゃがIちゃんにちょっかいを出しています(笑)

 

さて、次はまた阿修羅さんですよー。