kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

中学1年生

ついに中学生に

 

小学校を卒業して、私は中学生になりました。

中学校は、近隣の3つの小学校から、生徒が集まっていました。

その中でも、私が通っていた小学校が一番人数が多く、知ってる子はそれなりにいました。

が、一番仲の良かった子は、クラスが違いました。

 

クラスは1~4組まであり、1・2組が1階、3・4組が2階にありました。

私は1組、仲の良かった子は3組だったので、あまり会うことはありませんでした。

 

上級生が荒れていた

 

学校は、1年生4クラス、2年生4クラス、3年生5クラスでした。

2年生が、荒れていました。

 

私たちの学校は、校舎と校舎の間に、歩行者専用の公道が通っています。

学校の敷地が2分されているのです。

そのため、1年生だけが隔離された校舎でした。

 

ある日の授業中。

その公道に面した窓ガラスに、突然小さな穴が開いてヒビがはいりました。

窓を開けてみると、向かいの校舎の正面玄関に、授業をボイコットしている2年生がいました。

その子たちが、石を投げていたのです。

誰も怪我はしませんでした。

石を投げた先輩たちは、先生に怒られていました。

 

またあるときは、2階の教室(2年生のうち1クラスだけが2階にあった)の窓から、教卓が投げ落とされる事件もありました。

他にも、トイレでトイレットペーパーが燃やされ、警察と消防が来たこともありました。

ボヤで済みましたが、いたずらで済まされることではありません。

 

2年生が一番悪かったですが、3年生も結構柄が悪かったです。

 

そんな学校の中で、私たち1年生はおとなしく賢く、優秀な生徒でした。

先生たちからも、期待されていました。

私たちが3年生になった時は、学校はかなり状況が改善されていました。


いろんな子がいた

 

私が入ったクラスには、小学校で不登校になり、校区外通学をしている子がいました。

私の席の斜め前だったので、一番最初に仲良くなりました。

その子は、安定剤を飲みながら、学校に来ていました。

しかし、1か月くらい経つと、もう学校に来なくなりました。

その後聞いた噂では、地元の不良グループに入っていたようです。

この子も、何かしら生きづらい思いをしていたのでしょう。

 

私の真後ろの席の子は、県内トップクラスの成績の子でした。

名前が少し変わっていました。

頭がいいだけあって、中身も少し変わっていました(笑)

その子とは、中学3年生まで、結構仲が良かったです。

この子はその後、県内トップの高校に進学しましたが、その学校で1位の成績が取れなかったため中退した、という噂を聞きました。

 

勉強についていくのが少し厳しかった

 

学校の授業は、少し難しくなりました。

それでも、何とかついていきました。

英語も、苦手ながら赤点ギリギリですり抜けていました。

問題は、数学でした。

 

私は、因数分解連立方程式を、ただ解くだけならできました。

でも、文章題が解けませんでした。

図形の分野も得意で、そのテストのときだけは80点を取りました。

でも、それが応用問題になると、途端にできなくなりました。

1年生の間は、それでも赤点ギリギリで、何とか持ちこたえていました。

 

塾にも通わず、自宅学習だけで切り抜けていました。


部活

 

部活にも、所属しました。

1年生では、小学校からの友達が家庭科部に入ったので、私も一緒に入りました。

週一回だけの部活だったので、かなりのんびり活動していました。


遠足

 

中学生は、1年に1回、遠足がありました。

1年生の時は、2年生と一緒に、海で地引網体験をしました。

すでに仕掛けられている網を、全員で綱引きのように綱を引っ張り、海の底をさらって魚などの獲物を捕らえます。

網には、アジなどのさかなが、いろいろ入っていました。

なるべく平等になるようにわけて、ビニール袋に入れ、みんなで持って帰りました。

中には、タコを持って帰った子もいました。

結構楽しい遠足でした。


じっとしていられない子

 

クラスには、授業中にじっとしていられない男の子がいました。

私の家の近所の子で、悪ガキとして有名でした。

その子は、中学に入ってから、勉強にもついていけていませんでした。

そして、授業中もがさがさしたり、立ち歩いたりしていました。

先生にも、何度も「席に座りなさい」と言われていました。

この子は、中学校を卒業すると、不良になっていました。

この子も、発達障害だったのではないかと、思っています。


好きだった先生が…

 

1年生の3学期。

技術の先生が、肺癌か何かで亡くなりました。

私は、この先生がとても好きでした。

技術の授業自体が、好きだったこともあり。

この先生の授業は、とても分かりやすいものでした。

そして、上に書いた男の子も、この先生の授業ではおとなしくしていましたし、たとえ立ち歩いていても、先生が上手に対応していました。

とても素敵な先生でした。

亡くなったことは、とても残念でした。

小学6年生

6年生になった

 

私は、転校した学校で、6年生になりました。

この学校は人数が少なく、各学年2クラスしかありませんでした。

 

あまり良いクラスではなかった

 

クラスでは、一人の女の子が仲間外れにされていました。

その理由が、しばらくして私にもわかりました。

多分、その子も発達障害だったのだと思います。

お勉強も全体的にできていなかったので、知的にもギリギリだったのではないか、と。

(あくまで私の勝手な推測です)

 

元中学校教師で、小学校の高学年を受け持っていた先生は、あまりうまくクラスをまとめられていなかったように思います。

少なくとも、前の学校ではこのような先生はいませんでした。

県をまたいでの転校で、新しい県では日教組が強いらしく。

大阪の先生たちとは、雰囲気が全く違いました。

 

人間関係に困り始めた

 

5年生の3学期から転入して、仲の良い友達が2人できました。

1人は、発育がよく、体形ももうお姉さんでした(こちらをSちゃんとします)。

もう一人は、私と同じくらいで、少しだけわがままなところがありました(こちらはMちゃんとします)。

その二人は、もともと仲良しでした。

 

6年生になったある日。

二人と帰っていたところ。

Mちゃんが突然、Sちゃんに聞きました。

「Sちゃん、○○ちゃん(わたしのこと)と私と、どっちの方が好きなん?」

Sちゃんは、ちょっと困りながら、「どっちかっていうと、○○ちゃん(わたしのこと)」と言いました。

それを聞いたMちゃんは、怒って一人で走って帰ってしまいました。

私は、なぜMちゃんが怒ったのか、分かりませんでした。

そして、Sちゃんとはそこから道が別れるので、バイバイして帰りました。

 

家に帰った私は、母にそのことを話しました。

「なんでMちゃん怒ったん?」と、私は母に聞きました。

「先にMちゃんとSちゃんが友達やったからやん。」と母は言いました。

私は、全く意味が分かりませんでした。

「なんで?」を何度か繰り返しましたが、理解できなかったのでもう聞くのはやめました。

 

今は、その理由がちゃんとわかります。

元々、仲良しだった二人の間に、私が割って入ってしまったからなんですよね。

そして、Sちゃんが、後から来た私を選んだから、Mちゃんは「自分のほうが先に友達だったのに!」って、怒ったんですよね。

 

でも、当時の私には、それが分かりませんでした。

友達だった時間の長さなんて、関係ないと思っていました。

私には、「今」しか見えていませんでした。

他人の立場や、過去まで、見ることはできませんでした。

自分のことでさえ、「今」しか見えていなかったんですから。

私の中の時間軸には、「過去」と「未来」はまだなかったんです。

 

それでも、Mちゃんは次の日には謝ってくれました。


修学旅行

 

6年生では、修学旅行にも行きました。

行先は、奈良・京都でした。

バスで、清水寺や、平等院東大寺など、有名どころへ行きました。

泊まったのは、京都市役所の向かいにある、本能寺会館というホテルでした。

その時はもう、歴史に興味を持っていましたから、「信長が死んだ場所」ということも分かっていました。

だから、本能寺会館で信長の幽霊が出ないか、少し期待していました(笑)

 

後々、私は京都に住むことになり、このあたりもよくうろうろすることになります。

 

そして、ごちゃごちゃした学校生活ながらも、なんとか無事6年生を終了し。

大雨の中、卒業式も、終えました。

 

コンプレックス

 

当時、プリクラが流行りだしたころだったこともあり。

写真写りの悪い私は、自分の顔にコンプレックスを抱いていました。

 

卒業式で、後輩たちへのメッセージを読んだり、歌ったりするときは後ろを向きます。

そうすると、私は名前の順で後ろの方だったので、最後列に座っていますから、後輩たちと顔を見合わせることになります。

その時に、顔を上げられませんでした。

いまなら、「誰もそこまで見てないって」と思うんですが。

当時は、すごく嫌でした。

 

うまく笑顔を作れない

 

それからも、写真写りが悪いことは続き。

最近です、どうすればきれいに撮ってもらえるのか分かったのは。

原因は、「うまく笑顔を作れない」ことだったのです。

鏡を見て、ずいぶん練習しました。

証明写真機は、自分の表情が自分で見えるので、綺麗に撮れることもわかりました。

要は、自分の目で確かめないと、顔の表情も作れなかったということでした。

普段は気にせずに笑ったりもしますが、写真だけは今でも苦手です…。



小学校を卒業した私は、思春期まっただ中な中学生活を迎えることになります。

絵の新作「サンピラー」完成!

絵の新作が完成しました!

「サンピラー(太陽柱)」です。

 

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なぜかすごく時間がかかりました(;^_^A

 

【サンピラー(英語:sun pillar)】

太陽柱(たいようちゅう)。大気光学現象の一種であり、日出または日没時に地平線に対して垂直方向へ、太陽から炎のような形の光芒が見られる現象を言う。

 

すごくきれいな現象です。

検索すると、いろんな画像がヒットします。

とても不思議で、美しい光景です。

その美しさを表現しきれなかったのが残念。

 

さて、次は何にしようかなー。

小学5年生

5年生になった

 

小学校5年生になりました。

私は、5年3組でした。

また、クラス替えがありました。

先生も、変わりました。

「はるまき」というあだ名の、男の先生でした。

 

他の子と何か違う?

 

クラスの子たちは、もう体もどんどん大きくなってきている子も多く。

私は、クラス一のチビでした。

周りの子たちは、中身もどんどん大人になっていました。

同じクラスの子と遊んだりもしましたが、どうしても私が遊んでもらっている感がありました。

私の精神的な成長が、遅れていたんだと思います。

 

私を含め、3人の女子が、2人の男子を追い掛け回して遊んでて、男子を泣かせてしまったこともあったなぁ(笑)

 

授業中に見た爆発事故

 

夏のある日。

授業中に、臨海工業地帯で爆発事故がありました。

授業中に突然、「ドーン!」とういう雷のような音が鳴り。

晴れているのに、雷だとは思えないし、何だ?と教室中がざわざわしました。

先生は最初、静かに!と言っていましたが。

教室の窓から外を見ると、真っ黒い煙が遠くの方で上がっていました。

その後、もう一度爆発音が。

さすがに、異変に気付いた先生が、教室のテレビをつけました。

その時は、テロップでニュースが流れただけでした。

その次の授業は、プールだったので、その後のことは何もわかりませんでした。

私たちは、普通にプールの授業を受けました。

後々家でニュースを見て、工場で爆発事故があったことを知りました。

 

林間学校

 

5年生では、林間学校に行きました。

夏休みに入ってすぐだったとおもいます。

奈良の瀞峡(どろきょう)へ、2泊3日で旅行です。

みんなでバスに乗っていきました。

大きな吊り橋を渡ったり。

ニジマスのつかみ取りをして、それを焼いてもらって食べたりしました。

 

肝試し

 

夜には、男女ペアになって、二人ずつ歩き、肝試しをしました。

このペアを作るの、男子を座らせて、女子に「好きな子を選べ」という方式でした。

何とも大胆だよな、先生方(苦笑)

私は恥ずかしくて最後のほうまで残ってましたが、結局気に入っていた男子のうちの1人とペアになることができました(*^-^*)

 

肝試しの道中には、先生が潜んでいて。

こどもが通ると、首つり人形をライトで照らして脅かしたり、大声を出して怖がらせたりしていました。

真っ暗な、山の中の夜道です。

それだけでスリルがありました。

前の子たちが恐怖でのろのろ進んだり。

私たちがあわてて走って通り抜けたりしたので、結局3グループ6人でゴールへ。

怖かったけど、結構楽しかった!

そして、暗い山の中、蛍が沢山飛んでいました。

幻想的ですごくきれいだった。

ゴールでは、男子が蛍を捕まえて。

手のひらにのせて、光るところを見せてくれました。

 

忘れもの

 

最終日は、川遊びでした。

そのために、みんな着替えも持ってきていました。

制服を脱いで、Tシャツで川へ飛び込みました。

私も、飛び込みました。

そして、帰りに着替えようとしたところ。

パンツは忘れず持ってきていたのに、タンクトップを忘れていて。

服を入れているカバンは、もうバスのトランクで。

仕方なく、制服のブラウスを一枚で着て帰りました。

帰りのバスの中で、寒かった!

 

バスが脱輪

 

帰りは、到着時刻が少し遅れました。

バスが山の中の細い道を通った時。

私たち3組が乗ったバスが、脱輪したからです。

道路脇、山側の側溝に、タイヤを落としました。

谷側でなくてよかった、とおもいます。

そのバスを引き上げるのに、時間がかかりました。

 

4クラスだったので、バスは4台。

3組だった私たちのバスは、前から3台目。

後で、父親が言っていたのですが、バスが連なるときは、一番前と一番後ろにベテランの運転手を配置し、中間に経験の浅い人を入れるそうです。

そのため、私たちの乗ったバスが、脱輪したのかもしれません。

一番のスリルでした(笑)

 

帰還

 

学校に着いて、全員が並んで集会をしているとき。

3・4年生でクラスが一緒だった子の家が、火事になったという報告が来ました。

その子は、先生に「すぐ帰れ」と言われ、集会を抜けていきました。

 

不調が出始めていた

 

林間学校の間、頭が痛くなったり、お腹が痛くなったり、夕方になると体調を崩しまくってましたが。

結構楽しんで帰ってきました。

思えば、このころから、出かけると体調を崩すことが多くなってたなぁ。

 

引っ越しという転機

 

そして、5年生の12月、私は和歌山へ引っ越すことになりました。

和歌山の祖父母の家を建て替えたからです。

 

1月から、私は新しい学校に通いました。

そこは、今までの学校と、全然雰囲気が違いました。

男女は別々に遊ぶし。

私がターゲットだったわけではないですが、軽いいじめのようなこともありました。

 

後で聞いたところ、私が一番好きだった男子も、5年生の3月に東京へ転校していったとのこと。

結構、ショックだったなぁ(笑)

 

歴史のワークショップ

 

5年生になった夏から半年間、私は弥生文化博物館の縄文時代弥生時代の生活を体験するワークショップに参加していました。

毎月1回、いろんな体験をしました。

稲を植え。

石包丁を作り。

その石包丁で稲を収穫し。

臼と杵を使って脱穀し。

もち米だったので、餅を作って食べ。

最後は、縄文土器を作り、みんなで焼き上げ。

中には割れてしまった人もいたけれど、私のはきれいに焼きあがりました!

今でも、我が家の納戸にあります。

 

実は、ここに、当時私が一番好きだった男子が、いたんです。

 

この時の体験が、最終的に私を歴史の道に誘いました。

そのお話は、大学時代の項目で語られると思います。



療養生活4年目だけど

療養生活4年目、変化なし

 

療養生活が続いていて、すっかり忘れておりましたが。

4月頭で、療養生活も4年目に突入しております。

 

仕事を続けられなくなって、休養+退職の為に有給消化に入ったのが、4月頭でした。

なので、まる3年仕事をせずに療養生活をしたことになります。

ということは、発達障害などの診断を受けて、まる4年が過ぎたということです。

 

3年間、通院以外はほぼ引きこもりの状態で生活しているわけですが。

状態はちっとも改善していません。

心身ともに、壊れたころのままです。

 

心と体が壊れたら元に戻らない

 

4月から、社会人として働きだした人たち。

環境が変わった人たちがたくさんいます。

どうか、命を削るほどの無理だけはしないでください。

 

私を見てもらえれば、わかると思います。

一度壊れた心と体は、簡単には元に戻りません。

数か月では、元には戻らないのです。

年単位で休養を必要としたり。

もしかしたら、一生もとには戻らないかもしれません。

「回復」と言われる状態に持って行けたとしても、完全な元の状態には戻りません。

 

疲れやすかったり、頭の回転が落ちたり、いろんな不具合を抱えたまま、生きていかなければならなくなります。

 

携帯電話と同じ

 

それは、例えるなら、電池がバカになった携帯電話です。

フル充電するのに時間がかかる。

フル充電したのに、すぐに電池が減ってしまう。

突然電源が落ちる。

そんな携帯電話と同じ状態が、人間にも起こるのです。

 

人間も、一度壊れたら、元には戻らないのです。

元に戻らない状態で生きていくのは、非常につらいことです。

壊れる前には難なくこなせていたことが、できなくなってしまうのですから…。

 

SOSは無視しないで

 

だから、自分の体や心が発するSOSは、無視しないでください。

SOSを無視して、今無理して、後々ずっとつらい思いをして生きるか。

今、SOSに従って、少し我慢して休養して、回復して生きるか。

どちらがいいかは、すぐに答えが出るでしょう。

 

壊れてしまったら、元には戻らない。

誰もが、いつ壊れてもおかしくない。

これが当たり前のことなのに、なぜか「人間は壊れても元に戻る」とか、「自分は壊れない」と思っている人が多いように思います。

 

例え、何割かは元に戻っても、完全に元に戻ることはない、そのことを頭に置いておいてほしいと思います。

 

本人も、周囲の人も、充分気を付けてください。

小学4年生

4年生になった

 

小学校4年生になりました。
クラスはそのまま。
先生は、またしても転勤で一年で変わってしまいました。

 

周りの子への興味

 

4年生になった私は、一気に周りの子たちを意識し始めました。
それまで、クラスメイトの存在は分かっていましたが、それが何なのか、良くわかっていなかったのだと思います。
ニキ・リンコさんは「クラスメイトは教室についてくるもの」だと思っていたらしいですが、私の感覚もそれに近い物だったのかもしれません。

 

クラスメイトが、通常「友達」と呼ばれる部類に入るようになったのが、このころでした。

周りの子は、少しお姉さんになった気がしました。
私だけ、まだ子供のままのような気がします。
いわゆる、「9歳の壁」だったのでしょうか。

 

友達と遊ぶ

 

このころ、ゴムとびが流行りました。
学校では、私よりずっと背が高くて中身も大人になりつつある、クラスメイト2人と遊んでいました。
というより、私が遊んでもらっていたと言った方が正しいかもしれません。

その二人と一緒に、大休憩(2時間目の後の20分休憩)や昼休憩に、ゴム飛びを教えてもらって、遊んでいました。

 

そして、このころ、放課後家に帰ってから、友達と遊ぶようになりました。
その時に仲良く遊んでいたのが、幼稚園で私の頭を叩いた子でした。
その時は、幼稚園でのその子と、目の前にいる友達が、同一人物であるとは気付いていませんでした。
もう少し大きくなって、あとから記憶を照らし合わせて気付いたのです
多分、それくらい私は、周りの子が見えていなかったんだと思います。

 

いろんなクラスメイトがいた

 

4年生のクラスには、今でいう「問題児」が一人いました。
お父さんがいたのかどうかは分かりませんが、お母さんは看護師さんで。
中学生のお兄さんがいるけれど、いわゆる「不良」で。
「問題児」の本人の男の子は、暴力的で、我慢ができない子でした。
何かあると、すぐ教室を飛び出し、家に帰ったり。
学校に来ないこともたびたびありました。
先生に暴言を吐いたりもしました。
先生は、みんなに「さみしい思いをしているんだと思う」と説明しました。
その子のお母さんも、一緒にいられる時は、スキンシップを大事にするようにしていると言っていました。

 

私が発達障害についていろいろ調べるようになって、思ったのですが。
多分、この男の子も、発達障害だったのではないかと、思うのです。
学校に来られない。
居場所がない。
感情がコントロールできない。
言葉にできないから、暴力をふるう。
じっと座っていられない。

可能性は、高いと思うのです。

ただ、当時はまだ、発達障害は認知されていませんでした。
この男の子は、すでに二次障害を発症していたのかもしれません。
今、この子がどうなっているのか、すごく気になるところです。


また、この時には、幼稚園で一緒だった知的障害の男の子もいました。
3年生でも一緒だったはずなのですが、あまり記憶にありません。
その子と、周りの子との、能力の差も、格段に広がり。
周りも、「障害」ということを理解してきました。
体育や図工以外は、すべて養護学級(現・特別支援級)に行っていました。
それでも、みんなちゃんと仲間として認めていました。

 

いろんな子がいる。
そんな中で過ごせたから、私はこの小学校では問題もなく、過ごせたんだと思います。
良い先生。
良いクラスメイト。
そんな学校生活で、よかった。
この学校では、イジメなんてありませんでした。

パニックの兆候

パニックのパターンと兆候

 

発達障害の人に見られるパニック(メルトダウン)。

一口にパニックといっても、いろんなパターンがあります。

 

・ワーッと泣き叫ぶタイプ

・しくしく涙をこぼして泣くタイプ

・能面のように無表情になるタイプ

・ヘラヘラ、ニヤニヤしているタイプ

・暴れまわるタイプ

など

 

ワーッと泣き叫んだり、暴れまわったりするタイプは、パニックを起こしていることがわかりやすいです。

しかし、しくしく泣いたり、無表情だったり、ヘラヘラ笑ってしまうタイプでは、パニックを起こしていることが周囲に理解されにくいことが多々あります。

 

如月の場合

 

私の場合は、パニックの強さによって行動が違ってきます。

パニックが軽い方から順に

ヘラヘラ笑う→無表情になる→しくしく泣く

です。

 

私の場合、泣き叫びパニックはないので、しくしく泣くパニックが最大級のパニック表現です。

しかし、これは本当に人に伝わりません。

発達障害に詳しい主治医でさえ、私が診察中にしくしく泣いているのをパニックだと気づかず、話しかけ続けるという、禁忌を犯しました…。

 

見た目にわかりやすいパニック、わかりにくいパニックはありますが、パニックの兆候というのは、ある程度共通したものがあるのではないか、と思います。

 

パニックを絵で表すと

記事を書いていると、もりちゃんが絵にまとめてくれていました。

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もりちゃんのページ↓

morikanoko.hatenablog.com

 

パニックの兆候

 

見た目にわかりやすいパニック、わかりにくいパニックはありますが、パニックの兆候というのは、ある程度共通したものがあるのではないか、と思います。

 

私の場合

【外側に出る兆候】

・そわそわと落ち着きがなくなる

・目がきょろきょろする

・興奮状態になる

・挙動がいつもと違う

・手や足をそわそわと動かす、手遊びが増える

・やたらしゃべる、おしゃべりが止まらない

・いつもより声のトーンが高い

・エネルギーが有り余っているように見える

・目が潤んでくる

など

 

【内側に出る兆候】

・ふわーっと浮き上がるような感覚

・めまい

・自分が自分でないような、薄膜をかぶったような離人

・頭に血が上る感じ

・血の気が引く感じ

・感情が体の中で塊になる感じ

・泣きそうになる

など

 

ストレスなどでこのような状態になって、ストレスから解放されない場合、体の中で塊になった感情が、一気に頭のてっぺんから噴出します。

それが、「パニック」です。

 

最初は胃のあたりでもぞもぞしていたものが、だんだんと固くなって、食道を上がってきて、のどにまで到達し、その後頭の中に上り詰めます。

しばらく頭の中でとどまって、その後どっかーん!です。

 

爆発を必死で抑えようとするので、体中に力が入ります。

興奮状態ですので、呼吸も早くなって苦しくなります。

 

他人から見た兆候

 

パニックの兆候は、敏感な人なら気づくことができるかもしれません。

・いつもと何か雰囲気が違う

・大きなエネルギーの圧を感じる

・混乱状態に陥っているかもしれない

・おしゃべりしすぎている

・自分で止められないようだ

といった、何かしらオーラのようなものを感じ取ることで、パニックの前兆がわかるようです。

 

しかし、パニックの兆候に気づける人は、そう多くはありません。

なので、誰もがわかるような兆候が何かないものか…と考えています。

自分から「パニックが起きそうです」と言えればいいんですが、そうもいきませんので…(´・ω・`)

 

他の人のパニックの兆候を知りたいな、とも思っています。