生きる上で大事なこと(世界自閉症啓発デー&発達障害啓発週間によせて)
4月2日は、世界自閉症啓発デーです。
そして、今週は発達障害啓発週間でもあります。
はじめましての方も、いつもお世話になってますの方にも、今一度自己紹介をしようと思います。
自己紹介
私は、成人女性で、近畿地方在住です。
絵を描いたりピアノを弾いたり、書道教室に通ったりして楽しく過ごしています。
字が汚いので、書道教室に通って何とかしようと思っています。
時々、気の合う友達と遊んだり、飲みに行ったりしています。
ツイッターも大好きで、気の合う人と交流しています。
今はそこそこ充実した生活を送っていて、満足しています。
でも、これでいいやと思っているわけではなくて、やりたいことがたくさんあって、タイミングを見計らいながら挑戦しています。
もういい年ですが、夢も野望もあります。
以上、私の自己紹介ですが、どこにでもいる人間で、面白くもなんともないって思うことでしょう。
目を止めていただくこともないかと思います。
では、改めて、こんな風に自己紹介をしてみます。
もう一つの自己紹介
私は発達障害者で、自閉症スペクトラム障害(アスペルガー症候群)とADHDがあり、社会性が乏しくコミュニケーションが下手です。
うまく社会になじめないので、自分の出来る「絵を描くこと」を通して社会とつながろうとしています。
ピアノも自己表現の為、指の訓練の為ににしています。
書道は腕を思い通りに動かすためのリハビリも兼ねています。
時々、理解のある友達と遊びに行ったり、飲みに行ったりします。
今はそこそこ充実した生活を送っていて、満足しています。
でも、これでいいやと思っているわけではなくて、やりたいことがたくさんあって、障害ゆえにできないことも少しずつ挑戦しています。
障害や病気を抱えていますが、夢も野望もあります。
こう書くと、ぎょっとしたり、かわいそうだと思ったり、障害があるのに頑張ってるんだなって思ったり、障害者がなんだ偉そうにと思ったり、幸せだなんて嘘だろと思ったり、それでいいんじゃないかと思ったり、どうでもいいと思ったり、賛否両論、いろんな意見が出てくることでしょう。
いろんな意見があって、いいんです(考えるのは自由というのであって、それを口に出して言っていいとは言っていません)。
だって、人はみんなそれぞれ違う生き物だし、考えも違う。
何から何まで全く同じ人なんて、この世に一人もいないんですから。
「わたし」はあくまでも「わたし」
「障害者」というと、なんだか特別な人のように感じるかもしれません。
でも、同じ「人間」であることは変わらないのは「事実」です。
ともに生きるにあたって、最も根本的な、共通事項です。
ところが、上の自己紹介でお分かりいただけるかと思いますが、「障害」という言葉が入ったとたんに、認識は一変し、「障害者」というくくりでその人を見てしまうということが起こりがちです。
私も、一人の人間です。
最近太ったなーって悩んだり、絵の出来に一喜一憂したり、次はどんな絵を描こうかなって考えてる一人の人間です。
「これからきっといいことがある」という希望を抱いたり、「もうだめだ、やっぱりこんな世の中じゃ生きていけない」と絶望もする、一人の人間です。
得てして、人はいろんな人をカテゴライズしがちです。
例えば、「障害者」「女性」「男性」「日本人」といった具合に、ひとくくりにしてしまいがちです。
しかし、それは違うんじゃないかなって思ってます。
「障害者だから○○ができない」のではなく、「○○さんにはこういう障害特性があるから、○○が苦手」というのが適切だと思うのです。
「○○という障害だから純粋だ(天使だ)」とか、「○○という障害だから才能がある」というのも、不適切だと思っています。
純粋とか才能とかいうのは、障害に帰属するのではなく、個人に帰属するものだからです。
今回は自閉症啓発デー&発達障害啓発週間なので、発達障害を例にします。
自閉症や発達障害は、私の一部ではあるけれど、アイデンティティではない。
つまり、「自閉症」や「発達障害」である前に、私は私という一人の人間なのです。
自閉症だから、発達障害だから、私という個性があるのではなく。
私という個性の中に、自閉症・発達障害という障害が含まれているのです。
障害は、その人の一部ではあるけれど、その人全体を表すものでもないし、その人のアイデンティティでもないんです。
それは、障害者・健常者ともに同じことです。
健常者のアイデンティティも、「健常者」にあるのではありません。
みんな特別で、みんな特別じゃない
私は、私という存在を特別だとは思っていません。
なぜかというと、人は一人一人がみんな「特別な」人だからです。
誰一人として、特別じゃない人なんていません。
その人の代わりになる人なんて、いないんですから。
人はみな特別であり、自分だけが特別なわけじゃない。
少数派だけが特別で、多数派は特別じゃないなんてこともありません。
もちろん、障害者と健常者の関係においてもそれは同じです。
これ、大事なことなんですが、気づいていない人も結構いるように観察されます。
つまり、みんながそれぞれ特別で、みんながそれぞれ特別ではないのです。
もちろん、「自分は特別」という感覚も、大事です。
その感覚は、自分を肯定するために必要です。
ですが、それが行き過ぎると困ったことも起こってきます。
ですから、「自分は特別」ということと、「自分は特別でもなんでもない」ということのバランスが大事になります。
私は一人の人間として、ほかの人が代わることができない貴重な存在だけど、決して優遇されたり特別視されたり、ましてや見下されたりするような人間ではないのです。
自分が決めること
私は、一個人として、現在そこそこ幸せに生きています。
障害があるから不幸だとか言う人がいますが、そんなこと、他人が決めることじゃありません。
障害があるから幸せになっちゃいけないとか、そんな決まりは一切ありません。
私は幸せになっていいし、私の幸せはほかの誰かに決められるものでもありません。
私は、私の思う幸せを見つけていいし、私の思う幸せに向かって歩む権利を持っています。
障害者に限らず、「生きる価値」について語られることもありますが、そんなこと、他人が決めることではありません。
私にどんな価値があるかは、私が決めることです。
そして、生きる価値なんてそもそも、考えなくていいと思っています。
私は、ただここにこうして存在する。
その事実だけで充分ではありませんか。
誰かの為に生まれたわけでもないし、何かの為に生まれたわけでもありません。
私は私として生きているだけで、私は私の為に生きていい。
それだけで、充分ではありませんか。
だれにでもあてはまること
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
ここに書いたことは、決して私だけの話ではありませんし、一部の人のことでもありません。
そう、ここまで読んでくださったあなたにも当てはまることなのです。
つまり、これは障害について考えたときだけでなく、ごく一般的に、人として生きる上で大事なこと。
自身が自閉症スペクトラム障害・ADHDと診断されたことで、私は大事なことを考えることができました。
それぞれが自分を大切にして生きる上で、大事なことは何なのか。
障害の有無にかかわらず、一緒に考えていこうではありませんか。