静岡のてんかんセンターに行くことになりました
やっぱりダメだった抗てんかん薬
ちょうどいいタイミングのバスがなくて、30分も早く着いちゃったのですが。
昼からだったのですごく空いていて、13:00には診察室に呼んでもらえました。
入ってすぐ、「薬どうでしたか?」って聞かれたので。
「めまいと吐き気が激しすぎて起きられなくなっちゃいました」と答えると。
「あぁー」と先生落胆(;^ω^)
「もう使える薬がないから…やっぱり静岡とか、大きい病院に行った方が…」と言われました。
静岡てんかんセンターに行く覚悟
2日フィコンパを飲んだ時点でもう飲めないほどのひどい副作用で、飲むのを中止したので、本格的に静岡てんかんセンターへ行くことを考えていました。
数日間、公式のHPや、いろんな方のブログを読んで調べて、何とか行けそうな場所であること、宿泊などの問題、初診日の手順など調べ上げました。
そして、「とにかく行ってみよう。行った方がよさそうだ」という結論に達していました。
なので、先生が「大きい病院に行ってみる?」と言ったときに、「その覚悟を決めてきました」と答えました。
「行ってみますか。では、静岡ということで…。静岡なら、今までにやり残してることがあったらやってくれるやろうし、ほかの治療方法知ってるかもしれないし、そもそもてんかんかどうかの判断もきちんとしてくれるだろうし。もっと深く掘り下げてくれると思う。」とのことでした。
医者に謝られる
そして、「ごめんね、お役に立てなくて…」と謝られました。
いったい何人目でしょう、如月に「治療できなくてごめんね」と言った医者は(笑)
えーっと、1人、2人、3人、4人……。
私は医者に謝らせるプロかw
紹介状をもらう
というわけで、その場で紹介状を書いてくれました。
途中で先生が私に「ちょっと待っててね」と言って、どこかへ行っちゃって、待ちぼうけしていたら。
神経内科の看護師さんが「誰か待ってるの?」と聞いてくれました。
「先生が紹介状くれるのを待ってます」と言ったら、先生の机を見てきてくれて、「紹介状もうできてたから、渡すね」と言われました。
でも、先生が待っててって言ったし…。
それを看護師さんに伝えると、「あ、それなら何かまだあるんだろうから、ちょっと待っててね」と言われました。
もうしばらく待っていると、先生がCDを持って戻ってきました。
なるほど、脳波のデータを取りに行ってたのね。
その後、無事に紹介状と脳波のデータをもらって、会計を済ませて帰宅しました。
てんかんセンターの予約
帰宅後、静岡てんかんセンターの初診の予約をして、6月9日に予約が入りました。
6月4日に、障害者歯科センターの予約が入っているので、その後にしようと思って。
障害者歯科センターの方は、N先生を指定して予約してもらっているので、変更できませんからね(笑)
日帰りは無理なので、6月8日に静岡入りする予定です。
とりあえず初診は1日で、その時の状態次第で検査入院するかどうかが決まります。
自立支援医療証の手続き
通院なので、自立支援医療証が使えます。
また病院変更の手続きしなきゃいけないんだけど、医大の追加がまだ完了してなくて、支払いがまだなので先にそれを済ませないといけません。
すごくややこしいことになってしまって、担当課のお姉さんと「えーっと、どうしたらいいんでしょう??」って言いながら考えてました(笑)
不安と期待と緊張と
とりあえず、静岡に行くと決めたので、少し落ち着きました。
ちょっと楽しみでもあり、怖くもある。
ドキドキです。
中学1年生・いじめと人間関係
人間関係でつまづいた
中学生になってすぐ、周りの子たちはすぐ、自分の所属するグループを作っていました。
私は、グループに所属する意味が分からず、1対1や、少人数での付き合いを好んでいましたから、クラスの中ではグループに入れない部類になってしまいました。
他にもそんな子がいましたから、時々そういう子と話をしたりして、過ごしていました。
事件
夏休みがあけたころには、周りのグループも固定され、私が仲良くするのは頭のいい子たちでした。
私の後ろの席だった子と、メモの手紙のやり取りもしていました。
人の悪口を書いたりもしていました。
その紙を、やり取りしていた相手の子が、不注意にも床に落としたままにしていました。
それを、拾った誰かが、先生に渡しました。
私と、私の後ろの席の子は、順番に先生に呼び出されました。
そして、二度としないように、叱られました。
この先生は、授業中に「怖い話」といいながら、タダのおやじギャグで終わる話をしたりする、面白くてよい先生でした。
女性の先生で、先生も、私たちより大きい二人の娘さんを育てていました。
その先生に叱られた私は、素直にあやまりました。
そして、先生も、私がクラスで浮き気味だったことに気付いていたのでしょう。
その話も、しました。
私は、その場で大泣きしてしまいました。
それからも、人間関係はもう一つよくないままでした。
いじめ
あるとき、小学校から仲の良かった友達と、私はけんかをしました。
その子とその子のクラスメイトと、もう一人私と同じクラスの子が、同じ部活だったので、仲良くしていたのですが。
なぜか、けんかと関係のない、同じクラスの子を、小学校からの友達が巻きこみ。
私と口をきかないようにいいました。
向こうは2人で、私と同じクラスの子に、一方的に私の悪口を言ったようです。
その話が、クラス中に知れ渡りました。
そして、私はクラス中から無視されるようになりました。
なぜ、関係のない人たちまでが、私のことを悪く言うのか、さっぱりわかりませんでした。
これは、今でもわかりません。
とりあえず、そういう生物なんだな、というくらいの感覚しかありませんでした。
トイレにも集団で行く、謎の生物でしたから、ショックは受けましたがすぐあきらめました。
人は信用ならないという思考は、このころに植えつけられました。
どうして、クラス中が一人の子の味方になるんでしょう?
しかも、全く関係のない子たちが。
噂話だけで。
全くもって、馬鹿らしい。
居場所なんてない
そんなある日。
私は、なぜかあるグループから、声をかけてもらいました。
しばらく、いわれるままその子たちのグループに入りました。
でも、その子たちの話題は、アイドルグループのことで。
アイドルなんて興味のない私は、話についていけませんでした。
おそらく、お弁当も一人で食べていた私を見た担任の先生が、その子たちに私をグループに入れるよう、頼んだのだと思います。
その子たちは、先生の覚えがいいままでいたかったのでしょう。
煙たがりながら、私を一応輪の中に入れました。
でも、そこも私の居場所ではありませんでした。
学校は嫌な場所、死にたい
それが、3学期中続きました。
私は、学校には行きたくなくなりました。
それでも、学校は行かなければならない場所です。
だから、通い続けました。
死にたいと思い、どうやって死のうかと考えもしました。
毎晩、考えました。
そのストレスで、私はインフルエンザにかかり、1週間ほど学校を休みました。
そして、3学期が終わる1日前の日と、終業式の日は、登校しました。
2年生はクラス替えがあります。
私は、イジメが終わることを、クラス替えに賭けました。
いまだに理解できない、人間関係
私には、イジメられるような原因を作った覚えはありません。
しかし、私にもなにか原因があったのでしょう。
なにか、友達の気に障ることを言ったのでしょう。
でも、全く分かりません。
そして、クラス中から無視されたり、仲間に入れているように見せかけて、逆に話に混ぜなかったりということが、イジメだと思っていませんでした。
ただ、私はクラスでのけ者になっている事だけは理解していました。
正直、辛かったです。
なぜ、自分だけ人とうまくやっていけないのか。
原因が分かった今は、無理に人と仲良くするつもりはありません。
気の合う人と、付き合っていればいいと思っています。
一人で平気なら、無理に友達を作る必要もないと思っています。
無理に人付き合いをして、苦しむくらいなら、一人でいても楽しい方がいいです。
私は、今はそう割り切っています。
大学2回生・2
ゼミ
2回生からは、ゼミも専攻によって分けられます。
1回生の最後に、自分の希望するコースを選びます。
コースは、
・世界史コース…古代・中世・近代・中国
・日本史コース…古代(~平安)・中世(鎌倉~戦国)・近世(江戸)・近代(明治~)
に分かれていました。
私は、日本中世史コースを選択。
基本的には、ここで決まったゼミで、卒業まで過ごします。
イツミとハツエも同じゼミでした。
アイは、近世史。
チセは中国史を選択。
中国史のゼミは、3人だったそうです。
ゼミの担当講師
日本中世史ゼミの担当は、京大で講師(今でいう助教?)をしている、男性の先生でした。
20代後半か30代前半の、割と容姿の整った先生で。
熊○先生だったので、私たちは「プーさん」と呼んでいました。
女子ばかりだった(私たちが女子大最後の入学生。一つ下からは共学になった)ので、先生がうかれてうかれて(苦笑)
ゼミの内容
ゼミの内容は、前期は公家の日記を読みました。
もちろん、すべて漢文。
それに返り点をつけ、読み下し、訳します。
一人ずつ、先生に担当の部分を言われて、それを発表します。
レジュメ(資料)も作ります。
その内容は、とりとめのないことから、政変の内容など、多岐にわたりました。
多かったのが、火事。
火事の内容に当たった人は、その時にどこから出火し、どの程度延焼したのか、昔の京都の地図を使って発表するように言われました。
何人か連続で火事のことを発表することもあり。
私たちは、「京都、燃えすぎやろ!何回燃えんねん!」と突っ込みまくり(笑)
試験は、先生が出した課題の漢文に返り点をつけ、読み下し、訳して提出するレポートでした。
後期は、あの有名な「御成敗式目」を読みました。
こちらも、すべて漢文。
私はもう、漢文をほぼ読みこなしていました。
内容は、「乱暴狼藉の禁止」などがあり。
男が女を襲うの禁止!みたいな内容になると、先生がすぐ「破廉恥!」と言って、その項目を飛ばすのです(爆笑)
女子学生ばかりだったからでしょうか…。
ゼミの試験
後期の試験はテスト形式で、今までに読んだ文章の中から一つ問題を出して、その場で返り点をつけ、読み下し、訳すというものでしたが。
文章の長さや、先生の説明の入れ込み具合から的を絞り。
「破廉恥!」と先生が言いそうな問題を除外し。
私は、出題の可能性のある文章を、2つに絞り込みました。
あまり授業に出席していなかったイツミとハツエにそれだけとりあえず目を通しておけ、と言って、テストに臨みました。
すると、テスト用紙を見てびっくり!
私の予想が、当たっていました!!
もちろん、私は高得点を取りました(*^^)v
古文書学
ゼミの担当のプーさんが、古文書学も担当していました。
こちらも、前期後期で一年を通して講義がありました。
この授業は、アイ・ハツエ・イツミ・チセも受講していました。
こちらは、古文書をコピーしたものが配られ、そのミミズが這ったような文字を解読し、更に返り点をつけ、読み下し、訳すという授業でした。
一人ずつ当てられ、黒板に書いていきました。
これも楽しい授業でした。
周りと相談するもよし。
授業に関する私語であれば、あまり騒がなければ怒られませんでした。
漢字の形や、筆の運び、力の入れ具合でどの漢字を書いているのか判断しなければなりませんでしたが、「見るもの」に関しては細かい観察が得意な私には、とても楽しい授業でした。
いつも、友達に答え合わせをさせてくれ、と言われていました。
そして、この授業のテストも、今まで習った中から問題をだし、その場で文章に起こし、返り点をつけ、読み下し、訳す、というものでした。
ここでも、私は出題される問題を二つに絞り込みました。
そのテストの直前、みんなでラウンジで勉強していた時。
プーさんが、印刷したてのテスト用紙を持って、歩いてきました。
私たちと目があった先生は、テスト用紙を持ち上げて、見せびらかすようにしました。
私たちは、「先生、問題はこれかこれですよね!」と言うと、先生はごまかすようにニヤッと笑って去って行きました。
そして、絞り込んだうちの片方が、テストの問題として出題されました。
予想が得意?
実はもう一つ。
私だけが受講していた講義のテストでも、私は出題される問題を言い当てていました。
このころから、私はしばらく仲間内で「神様!」と呼ばれ。
「お供え物するから、テストの問題言い当てて!」と言われたり。
突然目の前にお菓子が差し出され、「お供え物。レポート教えて。」と言われました(笑)
名前がややこしい!
このプーさんが担当の授業が、もう一つありました。
ゼミ形式で行われる授業でした。
そこには、私とイツミと同じ苗字の子がもう一人いて。
アイと同じ苗字の子がいて。
名簿を見た先生が一言、「三つ子と双子じゃないよね?」
そこから、先生、大混乱。
なぜって、5人合わせて、苗字が「○下」だからです。
しかも名簿上、「○下」が5人並ぶ形になっていました。
プーさんは、最初こそフルネームで呼んでいましたが。
あまりにも○下が多いので(私たちは下グループと自称していました)、その5人は下の名前で出席を取るようになっていきました(笑)
すごく楽しかった
大学の勉強は、どんどん楽しくなりました。
本当に、私に向いている学問でした。
そして、単位を落とすことなく、2回生も終了しました。
絵の新作「踊る白い陽」
絵の新作が完成しました!
「踊る白い陽」です。
今回は、白い太陽の周りを白黒の細密画で埋めてみました。
↓描きはじめ
↓完成
なんかすごく不思議な絵になった…。
心のもやもやが入り込んだのかな…(;^ω^)
発達障害と薬剤過敏
先日から飲んでいる抗てんかん薬ですが。
結局、ビムパットがひどいめまいと吐き気で飲めず。
変更になったフィコンパも、ひどいめまいと吐き気でで飲めず、一昨日から中止しております。
どちらも、通常の量の1/8しか飲んでいないんですが…。(;^_^A
これで、もう使える抗てんかん薬がなくなってしまいました。
確実に、静岡のてんかんセンター行きを勧められるんだろうな…。
お金はないけど、さっさと日本最高峰、最後の砦である静岡てんかんセンターに行って、治療不可なら治療不可の結論を出してもらってしまったほうが、スッキリするのではないか…とも思っています。
最高峰の病院で判断が出れば、かかりつけ医の診断書に意見することもできるか?と淡い期待を抱いてみたり。
発達障害の人は、薬剤に過敏に反応したり、副作用が強く出てしまったり、本来とは違う効き方をしてしまったりすることが多々あるようです。
私もそんな一人です。
脳の異常な興奮を抑える薬で、逆にイライラしてしまったり。
めまいと吐き気はひどいのに、異様におなかが空いて大食いになってしまったり。
謎の作用が出てしまいます。
めまいや吐き気、イライラなどは副作用として書かれているのですが。
過食の副作用は書かれていませんでした。
本当に、意味が分からない…。
やっぱり、地球人向けの薬は、宇宙人には変な作用を及ぼすんでしょうか。
それとも、もともと脳内伝達物質が、地球人とは違う働きをしている?
薬剤過敏ですっていう話はちょくちょく耳にするんですが、如月ほどほんとにヤバいレベルの薬剤過敏を耳にしたことがありません。
如月の体はどうなってるの??
本当に、このままでは、いくらでも薬で治せる病気も、薬が飲めないせいで治療ができないまま放置することになってしまいます。
今すでに、3つの病気を放置せざるを得ない状況になっています。
すぐに命にかかわるような病気にでもなったら、如月は死ぬしかないんでしょうか…。
薬剤過敏というより、もう薬剤中毒レベルな気がします。
そういう人の研究って、されてないんでしょうか?
人数が少なすぎて、認識すらされていない?
ネットで検索しても、ひっかかってきません。
薬剤過敏さえなければ、もっと生活の質も改善されるんだけど…。
薬を飲まなきゃ病気のせいで生活の質が低下する。
薬を飲んだら飲んだで、副作用で生活の質が低下する。
漢方薬でもほとんど飲めません。
いったいどうしろと…。
まぁ、あんまり長生きする気はないので、そのまま放っておいてもいいのかもしれませんが…。
でもせめて、生きている間はもう少し楽に生きたいなぁって思うのは、贅沢なのでしょうか…。
大学2回生
2回生に進級
春休みがあけて、2回生になりました。
ディズニーランドに行って、友達とは更に仲良くなりました。
チセとも、同じ授業になることも多く、このころからいつも5人で行動するようになりました。
といっても、みんな個人行動をとることも多く、常に一緒だったわけではありません。
メンバーの内、誰かがいるのを見つけたら、そこへ行くという感じです。
時間割づくり
春休み中に大学にシラバス(講義案内のごつい冊子)を取りに行き。
春休み中に、時間割を組みました。
もう手順は分かっていたので、だいたいの分を組みました。
私と友達は、別行動になることも多かったけど、一人で授業を受けることも平気でした。
専門的な講義
2回生になると、途端に専門的な講義が増えました。
一般教養は、1回生で取りきれなかった分を取る、という感じでした。
それと、日本史講読a・b・c・dといった、古代から近代まで、4つの区分の授業もありました。
これらの授業が、専門分野への入り口となります。
私は、日本史購読はすべての授業を取りました。
古代~第二次世界大戦まで、学びました。
担当の先生の専門分野の講義になるので、まんべんなくというわけにはいきませんでしたが。
日本史講読cは、アイ・ハツエ・イツミも一緒に受けました。
そのせいで、しばらくの間「ショーグネイトパワー(将軍権力を英訳するとこうなる)」が、私たちの間ではやりました。
遺跡出土史料講読も、楽しかったなぁ。
これは、a・bと、前期後期に分かれていて。
遺跡から出土した土器・木簡などに書かれている文字や、時には絵、出土した場所などから、意味を読み取るという授業でした。
発掘現場を図面に起こしたものを史料として使ったり、すごく面白かった。
トイレ溝(昔トイレとして使われていた溝)からの出土品(もちろん、排泄物まみれ)を嬉々として掘っていた研究者の話も、面白かった(笑)
昔、トイレットペーパーがなかったころは、不要になった木簡を割って、ふいていました。
それを、「「籌 木(ちゅうぎ)」と呼びます。
イツミとハツエもその授業を取っていたので、私たちの間で流行り言葉になりました。
汚い話だけど、他人が聞いても何のことかわからないですし。
この授業のテストでは、高得点を取りました。
古代史の購読の授業では、古代の法律の文書をみんなで読みました。
古代の法律なので、すべて漢文です。
しかも、返り点もなし。
私は、高校時代から漢文は得意でしたから、すごく楽しい授業でした。
漢文の言い回しって、めちゃくちゃカッコいい!
その授業は、予習をして行って、先生に当てられたらその部分を読み上げ、訳すというスタイルでした。
毎回、宿題もありました。
感性が大事
あるとき、作物関係の法律を読んで訳してくるという宿題が出ました。
文中に、「植麦」と書いてあったと思います。
私は、図書館ですべての漢字が調べられる辞書を使って、その漢字の意味を調べました。
みんな同じ辞書を使って宿題をしたのですが。
その宿題の答え合わせをした先生が、宿題について言及しました。
植の読み方が、人によって違い、3通りほど出てきました。
麦を「植える」と、田植えのように訳した人が多く。
私と、もう一人誰かだけが、麦を「播く(まく)」と訳しました。
そして、その3通りそれぞれ、訳した人が一人代表で読まされました。
正解は、「麦を播く」でした。
有名な絵画でもありますよね、「麦を播く人」って。
だから、私は麦を「植える」はおかしいとおもい、辞書では一番最後に載っていた読み方の、「播く」を選んだのです。
先生は、その「感性」が歴史を研究するにあたって重要だ、と言いました。
ここでも、人と違う感覚を持つことを、ほめられました。
このとき。
「私は間違ってない!私はいつも正しい!」というタイプの子(私たちは市松とか、にゃーと呼んでました)が、先生に当てられて、意気揚々と「麦を植える」と発表したのですが。
そのあとで私が発表してそれが正解で、先生に褒められたことが気に入らないらしく。
事あるごとに、私を敵視するようになりました。
私は、面倒くさいので放置していましたが(笑)
因みに、市松と呼んだのは、髪型が市松人形みたいだったからです。