kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

療養生活4年目だけど

療養生活4年目、変化なし

 

療養生活が続いていて、すっかり忘れておりましたが。

4月頭で、療養生活も4年目に突入しております。

 

仕事を続けられなくなって、休養+退職の為に有給消化に入ったのが、4月頭でした。

なので、まる3年仕事をせずに療養生活をしたことになります。

ということは、発達障害などの診断を受けて、まる4年が過ぎたということです。

 

3年間、通院以外はほぼ引きこもりの状態で生活しているわけですが。

状態はちっとも改善していません。

心身ともに、壊れたころのままです。

 

心と体が壊れたら元に戻らない

 

4月から、社会人として働きだした人たち。

環境が変わった人たちがたくさんいます。

どうか、命を削るほどの無理だけはしないでください。

 

私を見てもらえれば、わかると思います。

一度壊れた心と体は、簡単には元に戻りません。

数か月では、元には戻らないのです。

年単位で休養を必要としたり。

もしかしたら、一生もとには戻らないかもしれません。

「回復」と言われる状態に持って行けたとしても、完全な元の状態には戻りません。

 

疲れやすかったり、頭の回転が落ちたり、いろんな不具合を抱えたまま、生きていかなければならなくなります。

 

携帯電話と同じ

 

それは、例えるなら、電池がバカになった携帯電話です。

フル充電するのに時間がかかる。

フル充電したのに、すぐに電池が減ってしまう。

突然電源が落ちる。

そんな携帯電話と同じ状態が、人間にも起こるのです。

 

人間も、一度壊れたら、元には戻らないのです。

元に戻らない状態で生きていくのは、非常につらいことです。

壊れる前には難なくこなせていたことが、できなくなってしまうのですから…。

 

SOSは無視しないで

 

だから、自分の体や心が発するSOSは、無視しないでください。

SOSを無視して、今無理して、後々ずっとつらい思いをして生きるか。

今、SOSに従って、少し我慢して休養して、回復して生きるか。

どちらがいいかは、すぐに答えが出るでしょう。

 

壊れてしまったら、元には戻らない。

誰もが、いつ壊れてもおかしくない。

これが当たり前のことなのに、なぜか「人間は壊れても元に戻る」とか、「自分は壊れない」と思っている人が多いように思います。

 

例え、何割かは元に戻っても、完全に元に戻ることはない、そのことを頭に置いておいてほしいと思います。

 

本人も、周囲の人も、充分気を付けてください。

小学4年生

4年生になった

 

小学校4年生になりました。
クラスはそのまま。
先生は、またしても転勤で一年で変わってしまいました。

 

周りの子への興味

 

4年生になった私は、一気に周りの子たちを意識し始めました。
それまで、クラスメイトの存在は分かっていましたが、それが何なのか、良くわかっていなかったのだと思います。
ニキ・リンコさんは「クラスメイトは教室についてくるもの」だと思っていたらしいですが、私の感覚もそれに近い物だったのかもしれません。

 

クラスメイトが、通常「友達」と呼ばれる部類に入るようになったのが、このころでした。

周りの子は、少しお姉さんになった気がしました。
私だけ、まだ子供のままのような気がします。
いわゆる、「9歳の壁」だったのでしょうか。

 

友達と遊ぶ

 

このころ、ゴムとびが流行りました。
学校では、私よりずっと背が高くて中身も大人になりつつある、クラスメイト2人と遊んでいました。
というより、私が遊んでもらっていたと言った方が正しいかもしれません。

その二人と一緒に、大休憩(2時間目の後の20分休憩)や昼休憩に、ゴム飛びを教えてもらって、遊んでいました。

 

そして、このころ、放課後家に帰ってから、友達と遊ぶようになりました。
その時に仲良く遊んでいたのが、幼稚園で私の頭を叩いた子でした。
その時は、幼稚園でのその子と、目の前にいる友達が、同一人物であるとは気付いていませんでした。
もう少し大きくなって、あとから記憶を照らし合わせて気付いたのです
多分、それくらい私は、周りの子が見えていなかったんだと思います。

 

いろんなクラスメイトがいた

 

4年生のクラスには、今でいう「問題児」が一人いました。
お父さんがいたのかどうかは分かりませんが、お母さんは看護師さんで。
中学生のお兄さんがいるけれど、いわゆる「不良」で。
「問題児」の本人の男の子は、暴力的で、我慢ができない子でした。
何かあると、すぐ教室を飛び出し、家に帰ったり。
学校に来ないこともたびたびありました。
先生に暴言を吐いたりもしました。
先生は、みんなに「さみしい思いをしているんだと思う」と説明しました。
その子のお母さんも、一緒にいられる時は、スキンシップを大事にするようにしていると言っていました。

 

私が発達障害についていろいろ調べるようになって、思ったのですが。
多分、この男の子も、発達障害だったのではないかと、思うのです。
学校に来られない。
居場所がない。
感情がコントロールできない。
言葉にできないから、暴力をふるう。
じっと座っていられない。

可能性は、高いと思うのです。

ただ、当時はまだ、発達障害は認知されていませんでした。
この男の子は、すでに二次障害を発症していたのかもしれません。
今、この子がどうなっているのか、すごく気になるところです。


また、この時には、幼稚園で一緒だった知的障害の男の子もいました。
3年生でも一緒だったはずなのですが、あまり記憶にありません。
その子と、周りの子との、能力の差も、格段に広がり。
周りも、「障害」ということを理解してきました。
体育や図工以外は、すべて養護学級(現・特別支援級)に行っていました。
それでも、みんなちゃんと仲間として認めていました。

 

いろんな子がいる。
そんな中で過ごせたから、私はこの小学校では問題もなく、過ごせたんだと思います。
良い先生。
良いクラスメイト。
そんな学校生活で、よかった。
この学校では、イジメなんてありませんでした。

パニックの兆候

パニックのパターンと兆候

 

発達障害の人に見られるパニック(メルトダウン)。

一口にパニックといっても、いろんなパターンがあります。

 

・ワーッと泣き叫ぶタイプ

・しくしく涙をこぼして泣くタイプ

・能面のように無表情になるタイプ

・ヘラヘラ、ニヤニヤしているタイプ

・暴れまわるタイプ

など

 

ワーッと泣き叫んだり、暴れまわったりするタイプは、パニックを起こしていることがわかりやすいです。

しかし、しくしく泣いたり、無表情だったり、ヘラヘラ笑ってしまうタイプでは、パニックを起こしていることが周囲に理解されにくいことが多々あります。

 

如月の場合

 

私の場合は、パニックの強さによって行動が違ってきます。

パニックが軽い方から順に

ヘラヘラ笑う→無表情になる→しくしく泣く

です。

 

私の場合、泣き叫びパニックはないので、しくしく泣くパニックが最大級のパニック表現です。

しかし、これは本当に人に伝わりません。

発達障害に詳しい主治医でさえ、私が診察中にしくしく泣いているのをパニックだと気づかず、話しかけ続けるという、禁忌を犯しました…。

 

見た目にわかりやすいパニック、わかりにくいパニックはありますが、パニックの兆候というのは、ある程度共通したものがあるのではないか、と思います。

 

パニックを絵で表すと

記事を書いていると、もりちゃんが絵にまとめてくれていました。

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もりちゃんのページ↓

morikanoko.hatenablog.com

 

パニックの兆候

 

見た目にわかりやすいパニック、わかりにくいパニックはありますが、パニックの兆候というのは、ある程度共通したものがあるのではないか、と思います。

 

私の場合

【外側に出る兆候】

・そわそわと落ち着きがなくなる

・目がきょろきょろする

・興奮状態になる

・挙動がいつもと違う

・手や足をそわそわと動かす、手遊びが増える

・やたらしゃべる、おしゃべりが止まらない

・いつもより声のトーンが高い

・エネルギーが有り余っているように見える

・目が潤んでくる

など

 

【内側に出る兆候】

・ふわーっと浮き上がるような感覚

・めまい

・自分が自分でないような、薄膜をかぶったような離人

・頭に血が上る感じ

・血の気が引く感じ

・感情が体の中で塊になる感じ

・泣きそうになる

など

 

ストレスなどでこのような状態になって、ストレスから解放されない場合、体の中で塊になった感情が、一気に頭のてっぺんから噴出します。

それが、「パニック」です。

 

最初は胃のあたりでもぞもぞしていたものが、だんだんと固くなって、食道を上がってきて、のどにまで到達し、その後頭の中に上り詰めます。

しばらく頭の中でとどまって、その後どっかーん!です。

 

爆発を必死で抑えようとするので、体中に力が入ります。

興奮状態ですので、呼吸も早くなって苦しくなります。

 

他人から見た兆候

 

パニックの兆候は、敏感な人なら気づくことができるかもしれません。

・いつもと何か雰囲気が違う

・大きなエネルギーの圧を感じる

・混乱状態に陥っているかもしれない

・おしゃべりしすぎている

・自分で止められないようだ

といった、何かしらオーラのようなものを感じ取ることで、パニックの前兆がわかるようです。

 

しかし、パニックの兆候に気づける人は、そう多くはありません。

なので、誰もがわかるような兆候が何かないものか…と考えています。

自分から「パニックが起きそうです」と言えればいいんですが、そうもいきませんので…(´・ω・`)

 

他の人のパニックの兆候を知りたいな、とも思っています。

小学3年生・阪神淡路大震災

阪神淡路大震災の経験

 

小学校3年生だった、1月17日未明。

私は、阪神淡路大震災を経験しました。

 

16日の夜から、父は宿直のため、家にいませんでした。

毎月、父の宿直の日は、私は父の布団で、母の横で寝ていました。

 

17日未明。

私は、突然目が覚めました。

普段、そんな時間に目覚めることはありません。

ものすごく気味の悪い不安に起こされました。

 

その直後。

風もないのに、窓がカタカタと鳴りだしました。

不思議に思って、私は窓を見ていました。

その時。

ゴーっというすごい音とともに、強い揺れが来ました。

私は、あわてて布団にもぐりこみました。

地震が来たら布団にもぐれなんて、教えられていませんでしたし、この揺れが「地震」だということさえ分かっていませんでした。

普段から、雷が怖くて布団にもぐって震えていたからか、とっさに布団にもぐりこみました。

 

強い揺れはしばらく続きました。

揺れがおさまってきたころ、母が隣りから「大丈夫か」と聞いてきました。

私は、「うん」と答えました。

 

揺れが止まり、母は二段ベッドの上の段で寝ていた弟を見に行きました。

このとき、弟はまだ寝ていたそうです…(;^ω^)

 

地震の恐ろしさを知らない私たちは、部屋の中が散らかっていないのをいいことに、そのまま起床時間まで、再び眠りました。

 

朝。

母が、起こしに来ました。

「あの地震、大変なことになってる!」と母が言いました。

私は、テレビで、神戸が燃えている映像を見ながら、朝ごはんを食べました。

それも、いつもご飯を食べる台所が、食器棚から滑り落ちた食器が割れて散乱していたので、別の部屋で食べました。

我が家の被害は、食器が割れたことと、金魚の水槽の水がこぼれたこと、トイレ用の汲み置きの水(使いまわしの水)を入れたバケツから水がこぼれたことだけでした。

 

私と母が寝ていたすぐ頭の上には、大きなタンスがありましたが、それが倒れることはありませんでした。

もし、そのタンスが倒れてきていたら。

私も母も、命はなかったでしょう。

 

朝一で、父親から電話がありました。

「家族全員無事」ということの確認でした。

後から父が語ったところによると、団地に住んでいた私たちは何とかなっているだろう、と考え。

戦後すぐ建てたボロ家の祖父母の家に先に電話したそうです。

そちらも、無事でした。

この地震で、祖父母の家を建て替えることになりました。



母は、地震の後だし多少迷ったようですが、私を学校へ、弟を幼稚園へ送り出しました。

今から考えると、なんて恐ろしいことを!と思いますが。

その日は、どこの家庭も、子どもだけで小学校へ行かせました。

 

登校途中には、屋根瓦が落ちて割れている家もありました。

でも、まだ事の重大さには気付いていませんでした。

 

学校では、先生が、「一生に一度あるかなないかの経験だ。だから、みんなに作文を書いてもらいます。」といいました。

私たちは、みんなそれぞれ、経験したことを書きました。

中にはやはり、寝ていた子もいましたが(苦笑)

そうして、一日授業を受けて帰りました。

 

その後、地震の報道は日に日に悲惨な様子を伝えるようになりました。

その報道が、私のトラウマになりました。

目から入る情報に敏感な私にとって、テレビで見る映像は衝撃が強すぎました。

 

そして、父は災害復興支援のため、毎日朝早くに出かけて、夜遅くに帰る日が続きました。

神戸に宿泊できるところはないので、毎日家から神戸まで通っていました。

ニュースに映ったような、被害が酷かった地域にも、行ったそうです。

その経験から、自宅を建てるときは、地震対策はかなりしっかりとしました。

 

余震が、しばらく続きました。

そのため、私は夜眠ることができなくなりました。

日中も、「地震怖い!」と言い続けました。

当時そんな言葉はありませんでしたが、完全なPTSDでした。

 

思春期の頃。

私は、地震が来る直前になると、虫の知らせというのか、すごく心がざわざわして、地震が来ることを言い当てることが何度かありました。

自閉症は、人間と動物の間の駅のようなものだという考え方もあります。動物的勘が、強いのかもしれません)

 

今でも、地震が来ると、心臓がどきどきします。

パニックになりそうになります。

 

この震災の後、父は絶対に1月16日から17日にかけての宿直はしませんでした。

もし当たったら、他の人に代わってもらっていました。

 

これが、私が見た阪神淡路大震災です。

小学3年生のころ

3年生になった

 

3年生になると、クラスのメンバーも担任の先生も変わりました。

2年に1度、クラス替えがあるからです。

私は、3年3組になりました。

 

今回も先生に恵まれた

 

先生は、男の先生になりました。

オルガンが弾けないので、音楽のときはいつもギターを弾いてくれました。

先生の席には、常にギターがありました。

そして、休み時間にもギターでフォークソングの弾き語りをしてくれました。

あの有名な、「おらは死んじまっただ」などなど…。

 

そのころに、「残酷な天使のテーゼ」が流行ったと思います。

クラスにラジカセがあって。

ラジカセか~、古いな(笑)

それで、みんなで聞いていました。

 

このクラスには、2年生で私が割と好みだった男の子もいました。

そして、再びあの幼稚園でのいじめっ子も、同じクラスに。

それ以外の子は、ほとんど記憶にありません。

私が、休み時間も友達と遊ぶようになったのは、4年生からでした。

 

この先生は少し変わった先生で。

席順がなく、班ごとにかたまって、向かい合って座ったり。

みんなから黒板が見やすいように、「コ」の字型に席を並べてみたり。

それぞれの辺が2列のコの字型だったので、真ん中の席に当たった子は出入りが大変で、机の下をくぐって出て行ったりしてました(;^ω^)

 

はじめてのカンニング

 

班ごとに座っていた時の、漢字のテストのときのことです。

私は、どうしても一つだけ思い出せない漢字があり。

思い出そうと必死になっていると、向かいの席の男の子の答えが見えてしまいました。

「そうだった、あの漢字だ!」と、答案用紙に書きました。

そして、先生が答え合わせをしているときに、男の子と私は呼び出されました。

 

男の子が漢字を一部間違えて書いていたので、そのまま書き写した私も同じところを間違えていたからです。

私は、カンニングがばれたと思いました。

先生は、まじめでおとなしい私がカンニングをするはずがない、という思い込みがあったようで。

男の子に、カンニングしなかったか聞きました。

その子は、「してない。絶対してない。」と答えました。

当たり前です、私が見たんですから。

私は何も聞かれず、結局その場は「たまたま同じ間違いをしただけ」ということで終わりました。

男の子には悪いことをしたと、未だに後味の悪い思いをしています…。

 

絵で賞をもらった

 

3年生の最大の出来事でした。

私の絵が、市長賞を取ったのです。

先生が、みんなの絵を「花と緑のコンクール」に出してくれました。

そして、私はトップの賞の、市長賞をもらいました。

これは、市内の幼稚園・小学校・中学校から、それぞれ1人が選ばれます。

 

その発表は、教室で行われました。

最初は、佳作などから発表し。

先生が、最後に「このクラスに、市長賞を取った人がいます!」といいました。

先生は、すぐに名前を言わず、かなりじらしました。

じりじりしながら、「私じゃない、そんなことありえない」と思っていました。

でも、先生が私に目を合わせてきます。

そして、発表。

「○○さん(私の本名)です!!」

全員が、「おぉー!」っとざわめきながら、私を見ました。

隣りの男の子(私が気に入っていた子です)は、「やっぱりなー!描いてる時から上手いなと思っててん!」と言いました。

 

そして、後日、学校を早退させてもらい、市役所まで表彰式に出席しに行きました。

新聞にも載りました。

大きなトロフィーと賞状をもらいました。

持つのに一苦労するほどの、大きなトロフィーでした。

 

先生の独特の指導方法

 

学校の授業で絵を描くときは、「自由に描きなさい」なのに、なぜ私が賞を取ることができたのか。

それは、この時の担任の先生の指導方法にありました。

この先生は、完全自由制ではなく、必ず3つ、描くものを指定します。

この絵のときは、花と緑のコンクールだったので、1つ目は「木・花」で決まりです。

そのあと、先生は「何人かの人間(一人はダメ)」と、なぜか「ジェットコースター」を描くように決めました。

なぜジェットコースターだったのかはわかりませんが、たぶん先生の思い付きでしょう。

 

描くものは、決まりました。

私は、「木・花」から、草原をイメージしました。

そして、「人間」から、いつも一緒に遊ぶ近所の子を思い出しました。

ジェットコースターはそのままで。

でも、私のイメージする絵にジェットコースターは似つかわしくないので、端っこに描きました。

真ん中には、黄緑の草原を、一輪車に乗って、虫取り網を持って遊ぶ私と、近所の子。

(当時、本当に一輪車に乗って虫取り網を持って、セミを取って遊んでいました)

そして、その周りを囲むように、木と花を配置しました。

凄くカラフルな絵になりました。

 

「自由にしなさい」が苦手な私でも、楽しんで描くことができました。

こういう風にして、絵を描かせる先生は、なかなかいないと思います。

私は、この先生の授業で、嫌な思いをした覚えがありません。

先生の指導方法は、もしかしたら「落ちこぼれる子が出ない・その教科を苦手とする子が苦痛な思いをしない」という方針だったのかもしれません。

 

とにかく、楽しかったイメージだけが残っています。

小学2年生のころ

2年生になって

 

私は無事、2年生になりました。

本当は、担任が持ち上がりなのですが、先生が転勤のため、変わりました。

クラスのメンバーはそのままでした。

 

新しく来た先生は、前の先生よりももっとベテランの先生でした。

40代後半だったのかなぁと思います。

当時、年配の女性の先生には珍しく、未婚の先生でした。

 

指導力抜群の先生

 

この先生の指導方法は素晴らしいものでした。

子どもの目線で授業を組み立てていました。

 

一番際立っていたのは、掛け算の授業でした。

はじめて九九を習ったのは、授業参観の時でした。

普通は、九九って1の段から習いますよね?

でも、この先生は違いました。

授業参観日に、保護者のいるところで、

「九九は大事です。3年生で習う割り算ができるかできないかは、九九にかかっています。九九は7の段から教えます。7の段が一番難しいからです。これさえできれば、あとはすぐ覚えられます。」

と宣言しました。

そして、画用紙で作った、大きな七星てんとう虫(黒い点はちゃんと7つ書いてあります)を黒板に貼り。

そのてんとう虫を使って、7の段を説明してくれました。

 

視覚支援を行っていた

 

これは、所謂「視覚支援」に当たるものですよね。

自閉っ子には特に有効で、健常児にも有効なものです。

当時まだ、視覚支援なんて言葉もない時代です。

それでも、この先生は、視覚的に教えることが、年齢の低い子にとってわかりやすいことを、知っていたのです。

このおかげで、私は九九で躓くことはありませんでした。

そして、3年生で割り算に悩まされることもありませんでした。

 

ご褒美

 

九九の段を一つ覚えるごとに、テストがありました。

そして、そのテストを全部クリアすると、プラ板がもらえました。

それに自由に絵を描き、先生が焼いてキーホルダにしてくれました。

このご褒美欲しさに、私は頑張ることが出来ました。

 

この先生は、何かテストをするたびに(ハーモニカのテストとか、国語の教科書の暗唱とか)、ご褒美としてプラ板をくれました。

 

劇でパニック!

 

後期の授業参観日のことです。

私たちは、それまでに、国語であの有名な「スイミー」を習いました。

先生は、それを私たちに暗唱させました。

そして、それを劇にして、授業参観日で発表しました。

まず、スイミー役を一人でするのは大変なので、何人か決めました。

そして、みんな、画用紙に一人一つずつ赤い魚の絵を描きました。

スイミー役をする子は、黒いスイミーの絵も描きました。

 

そのあと、他の配役も決めていきました。

ブルドーザーみたいな伊勢海老とか。

漂ってるくらげとか。

私は、セリフのないクラゲに立候補しました。

セリフがなく人気がなかったので、すぐに決まりました。

この時、もうひとりクラゲ役の子がいましたが、その子は、幼稚園の時に私の頭を叩いたあの子でした。

発達障害・乳幼児期を参照)

 

クラゲ役は、透明のビニール傘に飾りつけをして、紙テープを傘の周りにつけ、クラゲのように作りました。

みんながセリフ合わせをしている間も、ずっと工作していました。

その作業はとっても楽しかったです。

私は、工作がとても好きでしたから。

 

ところが。

先生が、クラゲはセリフがないから、そのかわりに自分たちでダンスの振り付けを考えなさい、と言ったのです。

私は、とても困りました。

自由に決めていいと言われても、どうしていいのかわからずパニックになってしまいました。

結局、どうしていいかわからない私は、もう一人の子がいろいろ考えてくれたことに、すべて従いました。

最終的には、先生がチェックし、動きを足してくれたりして、それを覚えました。

 

そして、本番。

発表は、工作室で行われました。

先生が、始まる前にトイレに行きたい人は行っておきなさいと言ったので。

数名がトイレに行きました。

私も行きました。

個室から出ようとすると。

ドアが、開きません!!

校舎が古く、立てつけが悪くなっていたのです。

何とかして開けようと、必死でガタガタと揺すりました。

その間に、みんな工作室へ戻ってしまいました。

 

私は、「どうしよう、遅れたら怒られる!」とパニックで泣き叫びそうになりながら、思いっきりドアを引っ張りました。

何とか開けることができ、ギリギリ授業参観に間に合いました。

それ以来、トイレは結構不安な場所です(笑)

 

本番は、何事もなく無事に終わりました。

クラゲダンスも、うまくできました。

最後の、赤い魚が集まって、スイミーが目になるシーンも、うまくいきました。


人間関係はまだまだ

 

小学校2年生で、いろいろなことを勉強し、覚えました。

このころも、友達という友達はいませんでしたが、一人、年の離れた兄弟の末っ子の、凄くマイペースな子とは、一緒に下校したりしていました。

そして、面白くて誰とでも仲良くできる男の子がいて、その子のことも覚えています。

割と、私の好みの子で、クラス替えをしても、5年生までずっと同じクラスでした

小学1年生・授業での困りごと

授業での困りごと

1年生の一年間は順調に過ぎましたが。

算数、特に二桁の足し算が苦手でした。

 

暗算ができない

 

授業参観日のことです。

先生は、大きな模造紙に足し算の問題を書いて、黒板に張り出しました。

そして、クラスを4つのグループに分け。

時間を決めて、それぞれ、順番に答えを書かせました。

時間が決まっているので、私は焦りました。

自分の番が回ってくるまでにも、考えていましたが、すでにパニック状態に陥っていたので、計算ができませんでした。

自分の番が来ました。

焦って、さらにパニックに陥りました。

そして、自分でも訳が分からないまま、適当な数字を書いて戻りました。

他の子は、ほとんどの子が正解していました。

私のグループでは、私だけが間違えました。

私は、泣きそうでした。

 

家に帰っても、なぜ簡単な計算を間違えるのか、母に聞かれました。

なぜといわれても、困ります。

私だって、ちゃんと計算したいのです。

でも、どうしてもわかりませんでした。

 

文章題がわからない

 

他にも、算数の文章題のテストがあったとき。

「リンゴが○個あります。ミカンが○個あります。ぜんぶでいくつですか。」

といった、単純な問題です。

それでも、私は100点満点中20点しか取れませんでした。

これは、母に怒られました。

そして、やり直しをさせられました。

それでも、何度やっても、答えが合いません。

母も教えてくれました。

実際に、リンゴの個数を書いて、ミカンの個数も書いて。

そうしてもらえれば、答えられるのです。

でも、文章だけになった途端に、何を聞かれているのかも分からなくなります。

 

その時は、泣きながら何時間もかかって全部やり直し、先生に提出しました。

それ以来、私は算数が嫌いになりました。

 

読める・書けることと理解することは別物

 

母が後々、こんなことを言っていました。

「先生が、国語はすべての教科の基礎だ。文章の意味が分からなければ、どの問題も解けない。と言っていた」と。

そう、いまから思えば、私は「言葉・文章」を理解できていなかったのです。

文字は、読めました。

だから、周りは私が「理解している」と思っていたのだと思います。

でも、「読める・書ける」と、「理解している」は別物です。

 

実際に、国語のテストの自由記述式の部分の答えが、合ったためしがありません。

高校生になっても、現代文のテストで、問われていることの意味が分かりませんでした。