kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

高校の部活動

高校は3年間吹奏楽部に所属

 

高校に入学した私は、すぐ吹奏楽部に入部しました。

高校では、いろいろな部活を見学して回る期間が、1週間設けられていました。

1年生全員が、必ずどこかの部に所属しなければならないからです。

私は、吹奏楽部の見学に行き、その場で入部を申し出ました。

 

吹奏楽部に入部

 

入部するときには、中学での吹奏楽の経験の有無・担当楽器などを書かされました。

でも、私はフルートパートに入りたくて、フルートを習いだしていましたので、そのことも書きました。

そして、とりあえずすべての楽器を吹いて回り、適性も検査されました。

私は、口腔内の過敏のために、咥えて吹く楽器が吹けません。

なので、サックスやクラリネットなどのリード楽器は、吹けませんでした。

トランペットなどの金管楽器は、音を出すことができました。

 

入部してすぐは、とりあえずのパートに振り分けられました。

中学で所属していたパートに入ります。

同学年に、フルート経験者が一人しかいなかったので、私はとりあえずフルートに配属されました。

そのフルートパートには、中学の吹奏楽の先輩がいました。

その先輩は、中学でもフルートを吹いていて。

下の名前が、私と同じでした。

だから、かわいがってもらいました。

しかし、その先輩は、私が入部してすぐ、部活を辞めてしまいました。

私の味方になってくれる先輩が、早くもいなくなってしまいました。

 

フルートパートに所属

 

そして、入部者が決まって、パート分けが行われました。

これは、先生が決めます。

なので、中学でやっていた楽器と、違う楽器に振り分けられる可能性もありました。

発表は、クラリネットから順番に行われました。

私は、フルートパートに入ることができました。

他の子は、中学ではトランペットだったのにホルンに回されたり。

打楽器に回されたりと、いろいろありました。

初心者も数名いましたが、その子たちは中学校からの経験者がいないパートに配属になりました。

 

こうして、私の高校での吹奏楽生活が始まりました。

 

部活での人間関係

 

一番最初に、総合人文科の女の子と仲良くなりました。

その子は、市外から通学していたので、高校に知り合いはいなかったようで。

部活でも、知り合いがいないので、自然と私とペアになりました。

他の子は、みんな中学からの友達で。

同じ吹奏楽部から数人ずつ来ていたので、すでにグループが出来上がっていました。

 

しかし。

折角仲良くなったのに、その女の子は家の都合ですぐ退部してしまいました。

私は、また一人になってしまいました。

 

それから3年間。

なんとかみんなの中にまじりながら、居場所のない毎日が続きました。

平日は、授業終わりから夕方6時ころまでの練習なので、大したことはありませんでしたが。

土曜や日曜の練習は、あさ9時から夕方5時。

丸一日なので、すごく気を使いました。

お昼ご飯も食べないといけないからです。

私は、居場所確保に精一杯でした。


吹奏楽部は体育会系

 

コンクールなどの本番前は、平日は朝7時から朝練、8時30分からは授業。

放課後は3時30分から練習開始、終わるのが夜の7時や8時、時には10時になることもありました。

休みの日は朝7時から夜6時、舞台練習があるときは夜10時に帰宅したこともあります。

警察に補導される時間ギリギリです。

3泊4日くらいで、長野県や鳥取県の大山に、高山訓練にも行きました。

マラソン選手のように、酸欠状態にして訓練するのです。

そこでのロングトーンは、酸欠で目の前がホワイトアウトしました。

 

もう、文化部なんて甘っちょろいものではありません。

体育系の部活よりも、練習時間が長く。

練習も、厳しいものでした。

 

1年生の時

 

特に、1年生の時の顧問は口が悪く。

あまりにもできないと、「アホ!ボケ!カス!死んでまえ!」が口癖でした。

私は完全にひるんでしまいました。

 

1年生のコンクールでは、「タイタニック・サーガ」という、タイタニック号沈没をテーマにした曲を演奏。

私はフルートを吹いて、曲の最後のところだけ、パーカッションの手が足りないので、ヘルパー(助っ人)に行きました。

中学でパーカッションをやっていたから。

やっぱり、パーカッションは楽しかった。

きっと、一番向いているのだと思います。

 

そして、最初の内こそ、初心者でもある程度吹けたので許されていましたが。

私は、フルートを吹き始めて1年で、スランプに陥りました。

吹奏楽で一番難しい楽器は、打楽器で。

二番目に難しいのが、フルートだと言われています。

 

最初は勢いよく上達しましたが、途中で伸びない期間に突入してしまいました。

そのころは、3年生が引退し、2年生が権力を持っていました。

私がスランプに陥った時、フルートの先輩は何とかしてスランプを抜け出せるよう、あれこれ考えて指導してくれました。

それでも、なかなか抜け出せませんでした。

 

同じ旋律を吹くパート同士が集まって練習する、セクション練習というものがありました。

あるとき、そのセクション練習で、私が最も苦手とする、トランペットのN先輩と一緒に練習することになってしまいました。

N先輩は、めちゃくちゃ気が強く、自分が一番!な性格でした。

なぜか、私のことが気に入らないらしく、目の敵にしていました。

N先輩は、フルートパートの先輩に、何か耳打ちしました。

何と言われたかは、分かりませんが、私のことだと思いました。

多分、間違ってはいないと思います。

フルートの先輩は、「さすがにそれは言ったらあかんやろ!」と言ってくれましたが…。

そんなことがあり、私のスランプは増々酷くなりました。

 

今考えると、おそらく、私が委縮してしまっていたからだと思います。

出来ることも、できなくなってしまっていました。

 

2年生の時

 

そのまま、私は2年生になり。

辛いまま、吹奏楽を続けていました。

何だか、辞めてはいけない気がしていたから。

音楽自体は嫌いではないし、私の唯一の自己表現の手段だったから。

言葉で自分の気持ちを伝えることができない私にとって、音楽は、自分の気持ちをぶつけられる唯一の「コトバ」でした。

 

後輩が、入ってきました。

その子は、中学からの経験者で、手のかからない子でした。

私は、更に委縮しましたが、ここで気持ちを切り替え。

なんとか、スランプからは抜け出しました。

先輩も、「なんか最近うまくなったなぁ。何があったん?」と言っていました(笑)

 

しかし。

トランペットに入った後輩が曲者で。

前出のN先輩と同じ中学出身なこともあり、私のことを何か吹き込まれたのでしょう。

ものすごく強く当たってきました。

この子も、性格に難ありでした。

私が引退するまで、ずっと私のことを見下す態度を取ってきました。

 

私は、後輩たちが入部しても、誰が誰やら、見分けがつきませんでした。

もちろん、自分のパートの後輩の名前と顔はすぐ覚えました。

でも、後輩全員の顔と名前は、1年経っても完全には一致していませんでした。

だから、クラリネットセカンドを吹いている○○さん、という風に言ってもらわないと、分かりませんでした。

 

2年生のコンクールでは、「パリの幻影」という曲を演奏しました。

この時に、ずいぶん和音の知識を得ました。

 

3年生の時

 

そして、3年生になりました。

二つ下の後輩が、2人入ってきました。

可愛い可愛い後輩でした。

そのころには、私もずいぶん吹けるようになっていたので、同学年の子と二人で、2人の後輩の指導をしました。

後輩の指導をすることで、私もずいぶん上達しました。

人に教えることは、自分のレベルアップの一番の近道です。

それを、この時に痛感しました。

だから、今でも人に教えるときには、自分も学びなおす気持ちでいます。

 

3年生のコンクールでは、「GR」を演奏。

分かる人は分かると思いますが、あの横山光輝の「ジャイアントロボ」の中で使われた名曲です。

この曲は、演奏しているだけで泣ける名曲でした。

そして、高校生活最後のコンクールの曲、最後の舞台で。

本番の舞台上で、今までの苦労を思い出し、泣きそうになりました。

 

そうして、私は無事、吹奏楽部を引退しました。

 

部活動で得たもの

 

人間関係では苦労しました。

でも、それ以上に、音楽に関する知識を手に入れることができました。

全員にフルスコア(指揮者用の楽譜)が配られ。

3年生は、そこに書かれている音から、これは何の和音で、どう組み合わせると綺麗に鳴るのか、ということも分かっていなければなりませんでした。

そして、セクション練習などでは、20名ほどを前にして、交代で練習を仕切ることもしました。

そのおかげで、私は人前で意見を言うことができるようになりました。

 

そういう意味では、辛かったけれど、非常に有意義な時間だったと思っています。