誕生~1歳半ころ(療育のことも)
如月の乳幼児期
母親から聞いた、私の乳幼児期の様子を書き記したいと思います。
私は、発達障害の診断を受けたのは大人になってからですが、幼いころから手のかかる子だったようです。
誕生
私は、昭和も終わりのころ、真冬に生まれました。
出生時の体重は、2200g。
今でいう、低出生体重児でした。
冬も冬、雪が積もるような寒さだったうえ、小さく生まれたので、すぐ保育器に入れられたそうです。
哺乳力が弱い
産院でミルクを飲まされるわけですが。
どうやら、私は哺乳力が弱かったようで、他の赤ちゃんに比べて飲む量も少なく、スピードも遅かったそうです。
あまりにも飲まないので、看護師さんが障害児用の哺乳瓶(育児日記にはそう書いてありましたが、おそらく口唇口蓋裂児用のものかと)を用意してくれたようです。
それでも、嫌がってほとんどミルクを飲まかったとか。
両親も、はじめての育児です。
産院にいる間も、その後の検診などでも、「もっと飲ませるように」と指導はされたそうですが。
まぁ、こんなものかと思った部分もあったと思います。
今から思えば、口腔内の過敏のためだったのかもしれない、と思います。
この口腔内の過敏が、大人になった今でもいろいろ邪魔をしてくれます。
特に、歯医者さんで。
それはまた、別の機会に。
生後半年
そのまま、半年ほどは全体的には大きな問題はなく育ちました。
ただ、そのあとに、昼夜逆転があって、夜中に泣き叫んで寝なかったりはしましたが、これはまぁ、普通の赤ちゃんでもあることです。
通常の形の、四つん這いでのハイハイをしなかったり。
(おしりをつけて体育座りで、足だけを使ってずりずり移動してたらしい。手の過敏だったのか?)
当時の育児書から外れた行動は、あったようです。
あと、ひきつけと思われるようなことも、一度あって、脳波検査もしたことがあるとか。
乳幼児健診でひっかかり、療育へ
乳幼児検診で引っかかりました。
身体の左右で、片側の動きが鈍い、と。
脳性まひの可能性ということで、専門の病院で診てもらったそうです。
そこでは、あれやこれや、ひっくり返したりしながら診察され。
「左右の差はあまり心配するほどのものではない。ただ、運動面の発達が遅れ気味」と言われたそうです。
「知能は月齢より進んでいるくらいなのに、この子は体の動かし方を知らない。困った子だね。」と言われ。
さらに、療育をするかどうかの話にもなったそうです。
医師は、「欧米であれば、この遅れなら療育の対象になる」と言ったそうで、両親は私を療育に連れて行くことに決めました。
肢体不自由児の療育
療育は平日だったので、もう定年していた祖父が車で連れて行ってくれたみたいです。
当時、療育を受けている子供たちは、肢体不自由など、重度の障害を持っている子たちでした。
私のように、一見どこに問題があるのかわからない子はいなかったそうで。
母親は、少し肩身の狭い思いをしたようです。
それでも、「歩けるようになるまで」ということで、通いました。
しばらく療育園へ通った私は、歩く訓練をして。
無事、一人で歩けるようになりました。
医師の診察も受け、「もう大丈夫」ということで、療育を卒業。
これが、一歳すぎのころのことでした。
単なる運動音痴だったのか。
発達障害の症状(協調運動障害)だったのか。
この後も、少々不器用ながら、なんとか成長していきました。
一歳半のころの記憶
一歳半の頃。
祖父母の家の、一段の段差を、はじめて一人で降りたときのことを覚えています。
階段より少し高い段差で。
当時の私から見たら、腰の高さくらいあって。
とても、怖かった記憶があります。
それを、一人で越えたときの嬉しさはすごくて。
あわてて、キーキー言いながら(まだ言葉は話せませんので・笑)、母親を呼びに行き。
「もう、何?」と言われながらも、母親の手を引っ張って、段差のところまで連れて行き。
実際に段差を降りて見せて、ほめられて喜んだことを、はっきりと思い出せます。
検診で引っかかっていた
大人になって発達障害が発覚した人のほとんどが、乳幼児健診をすり抜けているようですが、私は一応検診で引っかかって、療育にも行っています。
それが発達障害と関係があるのか、ないのかは今となっては分からないことです。
ただ、可能性はあるのかな、とは思います。