水泳
水泳教室へ
書道教室に行き始めたころ。
4歳のころです。
私は、その書道教室に一緒に通っていた男の子のお母さん(書道に誘ってくれた人)に、今度は水泳教室に誘われました。
これは、母が大賛成で。
私は、顔に水がかかるのが嫌で、お風呂でも髪を洗うたびに嫌がって泣いていたからです。
しかも、水で洗顔も出来ず、水で濡らして絞ったタオルで顔をふいてもらっていました。
幼稚園でのプール遊びもあることだし、小学校に上がったら本格的にプールの授業も始まる。
というわけで、私はピー○ルの水泳教室に通うことになりました。
ただ、家から歩いていくには、私はまだ一人で行けない年でしたから、夏休みや冬休み、春休みの長期休暇のときだけの、短期コースに行くことになりました。
ようやく2歳になるくらいの弟も、一緒に行きました。
水慣れコースから
水が怖い私は、他の小さな子たち(2~3歳)にまじって、水慣れA・Bとあるうちの、水慣れBから始まりました。
弟は、水慣れAでした。
水慣れBでは、その名の通り、水で遊んだり、泳ぐための基礎を作っていきます。
Aは完全に水遊びでした。
Bは、プールのへりにつかまってバタ足の練習をしたり、腕につける浮き輪をつけて、背中にもビート板と同じ素材の浮く道具を括り付けて、浮く練習をしました。
バタ足の練習は、結構きつかった。
そのあとは、ご褒美にプールの底上げをする大きなベンチのようなものをプールのへりに立てかけて滑り台にしたり。
おもちゃで遊んだりしました。
他の小さい子たちは、バタ足の練習を普通にやってのけるのに、私は途中で疲れて足が動かなくなってしまい、よくコーチに「がんばって!」と言われました。
おそらく、疲れやすい体質のためだと思われます。
【発達障害の診断を受けたとき、体力の話になりました。学校でプールに入った後、どうやった?と聞かれ。
「授業受けるどころじゃないくらい、疲れてたし、毎回頭痛がしてました」と答えると、先生は「そうやろうね~」と当たり前のようにいいました。
その時、周りの子が平気でプール後に授業を受けていたことがすごいんじゃなくて、私の方が体力がなかったんだと気づきました。】
泳げない
長期休みのたびに、少しずつランクが上がって。
次は、7メートルをバタ足で泳ぐという級に上がりました。
最初はビート板を使って。
次はビート板を使って顔をつけて。
最終的に、ビート板なしで、7メートル泳ぎました。
この時、口で息を吸って、鼻から息をはくことをするのですが。
それが、難しくて。
その場で、呼吸の練習をするだけならできるのです。
が、バタ足をして、泳ぎながらすると途端にできなくなるのです。
【今思えば、おそらく、二つのことが同時にできないという特性のためだったと思われます】。
同時にできないなら、息を止めてしまうしかありません。
でも、息を止めると苦しくて、今度は吐きそうになります。
そんな理由で、7メートル泳げるようになるのに、時間がかかってしまいました。
その次は、背泳ぎの基礎をつくるコースに上がりました。
腕は使わず、浮く練習と、その状態で浮いたまま足で水をキックし、25メートル泳ぐ練習でした。
これは、息は普通にしていてもできるので、何とかなりました。
ただ、25メートルは長くて、どこまで行けば終わりなのか不安になり、疲れて途中でリタイアしてしまいました。
ここで、私は水泳はもう嫌だといって、習うのをやめました。
学校のプールの授業が嫌い
小学校の授業でも、学年が上がり泳がなければならなくなってきた頃は、大変でした。
中学校は、プールがなかったので(中心部のど真ん中なので、土地がなくプールはありませんでした)、助かりました。
高校生になると、またプールの授業が始まりました。
私は、クロールができません。
手で水をかくことと、バタ足をすることと、息をすること。
三つも同時にできるわけがありません。
一年生は、とにかく25メートル泳げばOKということで、私一人だけ背泳ぎでクリアしました。
二年目は、クロール以外禁止になり、無理やりクロールで泳がされました。
出来なければ、補習もありました。
無理やりクロールで泳がされ、何とか一度だけ、25メートルを泳ぎました。
死にそうになりました。
もう、水泳なんて、こりごりです。
遊びに行くプールも嫌です。
水面の反射がまぶしいし、水で体温が下がってしまうし、確実に頭痛がするし。
ゆったり座れるお風呂で十分です。