kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

発達障害と性自認

マイノリティー

以前、テレビ番組でLGBT(性的マイノリティー)について取り上げられたことがあり、話題になっていました。

また、NHKでもトランスジェンダーの主人公が登場するドラマが、昨日から始まりました。


L…レズビアン(女性のことが好きな女性)

G…ゲイ(男性のことが好きな男性)

B…バイ(男性も女性も好きな人)

T…トランスジェンダー性同一性障害、体の性と心の性が一致しない人)

です。


さらに

インターセクシュアル半陰陽・男女両方の身体的特徴や遺伝子をもって生まれてくる)

Xジェンダー(中性、男女どちらでもある、あるいは男女どちらでもない、など)

アセクシュアル(無性愛)

などといった「性」もあり、定義はなかなか難しいです。


これらの組み合わせの場合もあり、分類はきれいにはできないようです。

(例えば、女性の体であるが性自認は男性のトランスジェンダーで、男性のことが好きなゲイでもある場合、外から見れば異性愛にみえる。その逆もまた同じ)


私も、ちょっと調べてみましたが、なかなか奥が深い分野でもあり、全貌を理解できてはいません。

ですので、マジョリティー(多数派)とは少し違った性自認の仕方をしている、あるいは恋愛対象がマジョリティーとは違っている人たちのこと、ととらえています。

 

 性別がよくわからない

さて、発達障害性自認のことですが。

これらには、まったく関連がないように思われて、実はそうでもないということがわかってきているようです。


発達障害があると、性自認が確立しにくいことがある、と考えるお医者さんもいるようで。

性別に違和がある場合、まずは発達障害を疑え、という考え方もあるようです。

(※性別違和があるから発達障害であるとか、発達障害だから性別違和があるというわけではありません。そういう例もあるということです)


発達障害を抱えていると、性自認が確立しにくいという考え方、私は個人的に支持しています。

なぜなら、私自身、性自認があいまいだからです。

そして、私の知る範囲でも、性自認があいまいな発達障害者が、ちらほらいるからです。

 

私の場合

高校生・大学生のころは、私は「男になりたい、男に生まれたかった」と思っていました。

実際に、女の子らしいかわいい服装をしたことはなく。

いつも、シャツにジーパン、スニーカーといった、ボーイッシュな服装をしていました。

髪を伸ばすのもいやで、いつも短髪でした。


今でこそ、時々はスカートをはいてみたり、少しかわいい格好をしてみることもありますが。

基本的なスタイルは、ボーイッシュなままです。

服を選ぶときは、男児の服選びます。

子供服でないと、体格に合わないことと。

女児の大人っぽい服は、デザインが気に入らないのが理由です。


シャツのように襟のついた服が好きで、基本的にズボンしかはきません。

スカートなんてひらひらするもの、レースのついたブラウスなど、大嫌いです。

セーラー襟の服は、もともと男の子の服なので、気に入って着ています。


私自身は、生まれ持った体の性に違和感を持つほどではありません。

ただ、自分は「中性」だと思っています。

好きになる相手も、男女両方です。

男性に対しても女性に対しても同じように、「好き」という感情を抱きます。

結婚する可能性はすごく低いだろうけど、結婚する相手は、男性とでも女性とでも構わないと思っています。


私にとって、相手の性別はどうでもいいことなのです。

私にとって大事なのは、「相手が尊敬できる人かどうか」の1点のみ。

尊敬できる人であれば、相手が男でも女でも、関係ないと思っています。

私にとっての結婚とは、「男女関係なく、尊敬できる人と一緒になること」だと考えています。

 

マイノリティーだから、何だ?

いろんな意味での多数派さんにとって、マジョリティーである異性愛者以外は、異様なものとして目に移るでしょう。

しかし、私はマイノリティーであっても構わないじゃないか、と思っています。

なんら、特別視する必要はないと思っています。


発達障害がグラデーションであるように、性自認もグラデーションであっていいではありませんか。


「動物としてありえない!」と発言したどこぞのえらいさんもいますが。

動物の世界にも存在しますよ、同性愛は。


もっと言えば、日本なんて、大正時代まで男性同士で関係を持つことって、特に珍しいことではなかったんです。

かの有名な夏目漱石南方熊楠らも、男色について語り合ったりしているという記録が残っているのですから…。


マイノリティーであっても、それはそれで一つの愛の形。

人を愛するということに、優劣などないと思います。