「自分らしく生きる」とは?
自分らしくとはどういうことか
以前、ある方とやり取りをしていて。
「自分らしく生きるって、なんだろう?」と考える機会がありました。
自分らしく生きる。
自分が自分でいられるように生きるということです。
自分を演じて生きていくのではなく。
素の自分をそのまま出して、生きていく、ということです。
そこでふと思ったこと。
自分が自分でいられるように生きるというのは、自分のわがままを通す、ということとどう違うのか?
自分らしくいようと思うと、どうしても、自分のやりたいようにやって生きていく、というようにとらえてしまいがちです。
それは、間違いではない、と思います。
自分のしたいことをして生きていけたら、それはとても素晴らしいことだと思います。
自分のしたいことだけをするのとは違う
でも、ちょっと待って。
もう少し深く考えてみましょう。
自分のしたいこと「だけ」をして、自分の思い通りにならないことは切り捨てて、生きていく。
「私はそれはできない。だから、ここにはいられない。私のことを理解しないあなたたちが悪い。」
そう思ってしまっていたら、それは、「わがまま」ではありませんか?
自分の主張だけを通して、他の人の考えや、気持ちを考えようとしない。
そうすると、それは自分の意見・意志の「押し付け」であり、周囲の人から見れば、「わがまま」ととらえられても仕方がないのではないでしょうか?
「自分らしく生きる」って言葉は、語感がとてもいいかもしれません。
でも、そこには、「わがまま放題に生きる」と勘違いしてしまう可能性が、大いに含まれていると思うのです。
わがままと、自分らしくあることの線引きは難しいと思います。
自分らしく生きようとすることにこだわり過ぎると、わがままとなってしまって、却って自分の居場所をなくしてしまう。
どうしても許せないこと、能力的に出来ないこと。
努力してもどうにもならなかったことは、相手に理解してもらうことも必要でしょう。
それは、「自分らしく生きる」ということだと思います。
でも、「私はこれは出来ないから!無理だから!」と、決めてかかってしまって。
それを、周囲の人に押し付けてしまうと、それは「わがまま」になってしまうのでは?
少しずつ前進してみよう
「絶対に無理。自分にできるわけがない。」と決めつけることで、自分が成長する伸びしろを、自分で奪ってしまっているように思うのです。
メンタルクリニックの医師に、言われました。
「君は、自分で自分の能力にロックをかけていないか?」と。
「自分にはできない」と思い込むことで、成長の機会を逃してしまう。
自分の能力をつぶしてしまう。
それって、すごくもったいないと思うんです。
「無理かもしれない。出来ないかもしれない。でも、少しでも前進しよう。」
そんな努力が、少しは必要だと思うんです。
その努力は、必ず人に伝わります。
出来なくて、もがいて、苦しんで。
それを見てくれている人は、必ずいます。
必死に努力して、苦しんでいれば、それに気づいて手を差し伸べてくれる人は、必ずいます。
認めてくれます。
実感するほどの努力の成果は、ないかもしれない。
でも、それに挑戦したことによって、自分はきちんと成長するのです。
多数派さんよりも、ずっと負担が大きい努力だとは思いますが…。
一概には言えない
それに、同じ自閉っ子と言えども、タイプは千差万別。
十人十色です。
だから、それぞれ能力の凸と凹の位置も違う。
自分と凸凹の位置が違うからと言って、それだけで「あなたは定型だ」と断定することは危険です。
出身の星は違うけど、同じ宇宙人なんだね、くらいの感覚で受け止めればいいと思うのです。
自分と同じだから、発達障害で。
自分のできない○○ができるから、あなたは発達障害じゃない!
そういうことではないと思うんです。
多数派さんだって、同じです。
多数派さんはたまたま、地球生まれで地球に住んでいる宇宙人だっただけ。
一度も地球以外の星に住んだことがないだけ。
自閉っ子とおなじ、宇宙人であることには変わりないと思うんです。
本当の意味で自分らしく生きる
少数派は、確かに生きにくい。
いろんな場面で、多数派さんよりも多くの我慢や忍耐も必要となるでしょう。
それでも、チャレンジし続けること。
投げやりにならず、自分の人生に向き合って、一生懸命生きること。
社会で居場所を見つけたいなら、社会との折り合いをつける努力を惜しまないこと。
その上で、「自分らしく生きる」こと。
バランス感覚が必要で、とても難しいことだけれど。
それは、多数派さんと一緒に暮らしていくうえで、お互いにとって大事なことなのではないでしょうか?