自分と他人の区別と、自己肯定感
かみ合わない
ASD(自閉症スペクトラム)の人は、話が噛み合わないとよく言われます。
私の周りにも、噛み合わない話が沢山。
私が悪いのか、周りが悪いのか。
親と話をしていても、時々、全く意味の分からない返事をされることがあります。
私が話したこととは全く関係のない話が出てきたり。
明らかに返事になっていない返事をされたり。
そのたびに、私は「何を言ってるん?」とか、「何が言いたいん?」、「何の話してるん?」と確認せねばなりません。
そして、私はもう一度、自分が話した内容を噛み砕いて(多数派に伝わるように)話しなおします。
そこで、やっと相手の勘違いが発覚します。
相手が聞き間違えていたり。
相手が、自分の感覚で物事をとらえていたり。
話が噛み合わない原因は、様々です。
言葉の定義が違う
しかし、中でも一番多いのは、言葉の「定義」が違う、ということだと思います。
私が使う言葉の定義と、相手の使う言葉の定義に、少々ずれがあるようです。
それはおそらく、感覚の違いから来ているものだと思います。
私の抑揚の付け方は、多数派のそれとは異なっていることもあります。
疑問形を疑問形の抑揚で話さなかったり。
肯定形を疑問形の抑揚で話してしまったり。
それでは、多数派さんには伝わらないのは仕方ないかな、とは思っています。
でも、口をついて出る言葉を、瞬時にコントロールするのって、結構難しいんです。
否定として受け取ってしまう
言葉の問題の話ついでに、もう一つ。
いままで、怒られたり否定されたりすることが多かったからか、何気ない言葉も、否定の言葉としてとらえてしまいます。
そうではない、と頭では理解していても、どうしても感情では「また否定された。どうせ分かってもらえないんだから」と思ってしまいます。
小さいころから否定の言葉は出来るだけ使わないのがいい、というのは、こういう理由だと思うんです。
その時その時に、何か大きな被害が出るわけではありません。
しかし、積もり積もって、否定的な言葉に敏感になってしまうのです。
否定の言葉を使わざるを得ないこともあるでしょう。
そんな場合は、まず、あなたの気持ちを受け止めたよ、あなたのことを認めているよ、という言葉が欲しいのです。
その一言を挟んでから、否定的な言葉を使うと、クッションになると思うのです。
自分を肯定すること
自尊心・自己肯定感って、生まれたときから、少しずつ少しずつ、薄い積み木を積み上げるようにして築いていくものだと思います。
それが、少し積み上げては壊されて、ということを繰り返していたら、いつまでたっても自尊心・自己肯定感はそだちません。
下手をすれば、その積み木を積み上げることを、あきらめてしまうかもしれません。
感覚は固有のもの
結局、何が言いたいのかというと。
多数派さんが「ASDの人とは話が噛み合わない」と思っているように、少数派であるASD者も「多数派とは話が噛み合わない」と思っている、ということ。
お互い話が噛み合わないと思って、その場で立ち止まってしまうから、理解が進まないのではないか、ということ。
相手も自分と同じ感覚を持っているはず、という思い込みを、一旦捨ててください。
勿論、ASDである私たちも、思い込みを捨てなければなりません。
話が噛み合わなければ、どこが食い違っているのか、確認しながら話を進めることになるでしょう。
面倒でも、相手の言うことを理解しようと思えば、その手間は省けないと思います。
会話における歩み寄りは、そこから始まるのではないか、と考えます。
これは、多数派どうし、少数派どうしでも同じことです。
「私とあなたは別の人間です」という前提、自分と他人の区別は、しっかり持っていないと、困ったことになってしまいます。