小学3年生・阪神淡路大震災
阪神淡路大震災の経験
小学校3年生だった、1月17日未明。
私は、阪神淡路大震災を経験しました。
16日の夜から、父は宿直のため、家にいませんでした。
毎月、父の宿直の日は、私は父の布団で、母の横で寝ていました。
17日未明。
私は、突然目が覚めました。
普段、そんな時間に目覚めることはありません。
ものすごく気味の悪い不安に起こされました。
その直後。
風もないのに、窓がカタカタと鳴りだしました。
不思議に思って、私は窓を見ていました。
その時。
ゴーっというすごい音とともに、強い揺れが来ました。
私は、あわてて布団にもぐりこみました。
地震が来たら布団にもぐれなんて、教えられていませんでしたし、この揺れが「地震」だということさえ分かっていませんでした。
普段から、雷が怖くて布団にもぐって震えていたからか、とっさに布団にもぐりこみました。
強い揺れはしばらく続きました。
揺れがおさまってきたころ、母が隣りから「大丈夫か」と聞いてきました。
私は、「うん」と答えました。
揺れが止まり、母は二段ベッドの上の段で寝ていた弟を見に行きました。
このとき、弟はまだ寝ていたそうです…(;^ω^)
地震の恐ろしさを知らない私たちは、部屋の中が散らかっていないのをいいことに、そのまま起床時間まで、再び眠りました。
朝。
母が、起こしに来ました。
「あの地震、大変なことになってる!」と母が言いました。
私は、テレビで、神戸が燃えている映像を見ながら、朝ごはんを食べました。
それも、いつもご飯を食べる台所が、食器棚から滑り落ちた食器が割れて散乱していたので、別の部屋で食べました。
我が家の被害は、食器が割れたことと、金魚の水槽の水がこぼれたこと、トイレ用の汲み置きの水(使いまわしの水)を入れたバケツから水がこぼれたことだけでした。
私と母が寝ていたすぐ頭の上には、大きなタンスがありましたが、それが倒れることはありませんでした。
もし、そのタンスが倒れてきていたら。
私も母も、命はなかったでしょう。
朝一で、父親から電話がありました。
「家族全員無事」ということの確認でした。
後から父が語ったところによると、団地に住んでいた私たちは何とかなっているだろう、と考え。
戦後すぐ建てたボロ家の祖父母の家に先に電話したそうです。
そちらも、無事でした。
この地震で、祖父母の家を建て替えることになりました。
母は、地震の後だし多少迷ったようですが、私を学校へ、弟を幼稚園へ送り出しました。
今から考えると、なんて恐ろしいことを!と思いますが。
その日は、どこの家庭も、子どもだけで小学校へ行かせました。
登校途中には、屋根瓦が落ちて割れている家もありました。
でも、まだ事の重大さには気付いていませんでした。
学校では、先生が、「一生に一度あるかなないかの経験だ。だから、みんなに作文を書いてもらいます。」といいました。
私たちは、みんなそれぞれ、経験したことを書きました。
中にはやはり、寝ていた子もいましたが(苦笑)
そうして、一日授業を受けて帰りました。
その後、地震の報道は日に日に悲惨な様子を伝えるようになりました。
その報道が、私のトラウマになりました。
目から入る情報に敏感な私にとって、テレビで見る映像は衝撃が強すぎました。
そして、父は災害復興支援のため、毎日朝早くに出かけて、夜遅くに帰る日が続きました。
神戸に宿泊できるところはないので、毎日家から神戸まで通っていました。
ニュースに映ったような、被害が酷かった地域にも、行ったそうです。
その経験から、自宅を建てるときは、地震対策はかなりしっかりとしました。
余震が、しばらく続きました。
そのため、私は夜眠ることができなくなりました。
日中も、「地震怖い!」と言い続けました。
当時そんな言葉はありませんでしたが、完全なPTSDでした。
思春期の頃。
私は、地震が来る直前になると、虫の知らせというのか、すごく心がざわざわして、地震が来ることを言い当てることが何度かありました。
(自閉症は、人間と動物の間の駅のようなものだという考え方もあります。動物的勘が、強いのかもしれません)
今でも、地震が来ると、心臓がどきどきします。
パニックになりそうになります。
この震災の後、父は絶対に1月16日から17日にかけての宿直はしませんでした。
もし当たったら、他の人に代わってもらっていました。
これが、私が見た阪神淡路大震災です。