3年生になった
3年生になると、クラスのメンバーも担任の先生も変わりました。
2年に1度、クラス替えがあるからです。
私は、3年3組になりました。
今回も先生に恵まれた
先生は、男の先生になりました。
オルガンが弾けないので、音楽のときはいつもギターを弾いてくれました。
先生の席には、常にギターがありました。
そして、休み時間にもギターでフォークソングの弾き語りをしてくれました。
あの有名な、「おらは死んじまっただ」などなど…。
そのころに、「残酷な天使のテーゼ」が流行ったと思います。
クラスにラジカセがあって。
ラジカセか~、古いな(笑)
それで、みんなで聞いていました。
このクラスには、2年生で私が割と好みだった男の子もいました。
そして、再びあの幼稚園でのいじめっ子も、同じクラスに。
それ以外の子は、ほとんど記憶にありません。
私が、休み時間も友達と遊ぶようになったのは、4年生からでした。
この先生は少し変わった先生で。
席順がなく、班ごとにかたまって、向かい合って座ったり。
みんなから黒板が見やすいように、「コ」の字型に席を並べてみたり。
それぞれの辺が2列のコの字型だったので、真ん中の席に当たった子は出入りが大変で、机の下をくぐって出て行ったりしてました(;^ω^)
はじめてのカンニング
班ごとに座っていた時の、漢字のテストのときのことです。
私は、どうしても一つだけ思い出せない漢字があり。
思い出そうと必死になっていると、向かいの席の男の子の答えが見えてしまいました。
「そうだった、あの漢字だ!」と、答案用紙に書きました。
そして、先生が答え合わせをしているときに、男の子と私は呼び出されました。
男の子が漢字を一部間違えて書いていたので、そのまま書き写した私も同じところを間違えていたからです。
私は、カンニングがばれたと思いました。
先生は、まじめでおとなしい私がカンニングをするはずがない、という思い込みがあったようで。
男の子に、カンニングしなかったか聞きました。
その子は、「してない。絶対してない。」と答えました。
当たり前です、私が見たんですから。
私は何も聞かれず、結局その場は「たまたま同じ間違いをしただけ」ということで終わりました。
男の子には悪いことをしたと、未だに後味の悪い思いをしています…。
絵で賞をもらった
3年生の最大の出来事でした。
私の絵が、市長賞を取ったのです。
先生が、みんなの絵を「花と緑のコンクール」に出してくれました。
そして、私はトップの賞の、市長賞をもらいました。
これは、市内の幼稚園・小学校・中学校から、それぞれ1人が選ばれます。
その発表は、教室で行われました。
最初は、佳作などから発表し。
先生が、最後に「このクラスに、市長賞を取った人がいます!」といいました。
先生は、すぐに名前を言わず、かなりじらしました。
じりじりしながら、「私じゃない、そんなことありえない」と思っていました。
でも、先生が私に目を合わせてきます。
そして、発表。
「○○さん(私の本名)です!!」
全員が、「おぉー!」っとざわめきながら、私を見ました。
隣りの男の子(私が気に入っていた子です)は、「やっぱりなー!描いてる時から上手いなと思っててん!」と言いました。
そして、後日、学校を早退させてもらい、市役所まで表彰式に出席しに行きました。
新聞にも載りました。
大きなトロフィーと賞状をもらいました。
持つのに一苦労するほどの、大きなトロフィーでした。
先生の独特の指導方法
学校の授業で絵を描くときは、「自由に描きなさい」なのに、なぜ私が賞を取ることができたのか。
それは、この時の担任の先生の指導方法にありました。
この先生は、完全自由制ではなく、必ず3つ、描くものを指定します。
この絵のときは、花と緑のコンクールだったので、1つ目は「木・花」で決まりです。
そのあと、先生は「何人かの人間(一人はダメ)」と、なぜか「ジェットコースター」を描くように決めました。
なぜジェットコースターだったのかはわかりませんが、たぶん先生の思い付きでしょう。
描くものは、決まりました。
私は、「木・花」から、草原をイメージしました。
そして、「人間」から、いつも一緒に遊ぶ近所の子を思い出しました。
ジェットコースターはそのままで。
でも、私のイメージする絵にジェットコースターは似つかわしくないので、端っこに描きました。
真ん中には、黄緑の草原を、一輪車に乗って、虫取り網を持って遊ぶ私と、近所の子。
(当時、本当に一輪車に乗って虫取り網を持って、セミを取って遊んでいました)
そして、その周りを囲むように、木と花を配置しました。
凄くカラフルな絵になりました。
「自由にしなさい」が苦手な私でも、楽しんで描くことができました。
こういう風にして、絵を描かせる先生は、なかなかいないと思います。
私は、この先生の授業で、嫌な思いをした覚えがありません。
先生の指導方法は、もしかしたら「落ちこぼれる子が出ない・その教科を苦手とする子が苦痛な思いをしない」という方針だったのかもしれません。
とにかく、楽しかったイメージだけが残っています。