kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

発達障害は治すべきものか?(代替医療についても少し)

治すべきもの?

発達障害を抱える人と交流をする中で、いろいろな意見を目にします。

その中で、私がいつも感じることがあります。

 

※ここから先に書くことは、あくまで私個人の意見です。

 様々な意見が存在することは充分承知の上で、書いています。

 

以前にも記事としてアップしましたが、「発達障害は治すべきものなのか?」ということです。

もちろん、第三者に明らかに迷惑をかける場合や、本人が苦痛に思っている場合、うまく社会に適応するためには、「対処法を学ぶ」「投薬治療を受ける」といった治療が必要です。

それは否定しません。

私自身、ADHDの症状を軽減するために、ストラテラを服用していますから…。

 

しかし、大人も子どもも含め、当事者が代替療法を受けていたり。

そういった「治療」と呼べるのか?と思うような事態が発生しているのもまた、事実です。

 

発達障害の「治療」とは?

時々、こんな風に思うことがあります。

ある程度、発達障害の特性が許容される状態にあってもなお、その特性を完全に取り去ってしまいたいというのは、少々行き過ぎなのではないか、と。

「今のままではいけない」という焦りが先行して、本来の自分の姿を否定し、ないがしろにしている状態にあるように思うのです。

 

そのような状態で、「発達障害を治すことを目指す」というのは、なんか違うな…と感じるのです。

治すよりも前に、本来の自分を認めるという作業が必要なのではないかと…。

 

発達障害の人が社会に適応するために、療育、服薬、環境調整などの方法があります。

一般的には、それを「治療」という言葉を用いて表現することがあります。

 

療育は、大切なことだと思います。

その子が、うまく社会と折り合いをつけて生きていくためには必要なことです。

ただ、療育において、当事者である子どもの気持ちが置いてけぼりになっていたり。

発達障害の子どもが一方的に社会に合わせるよう強制されるのであれば、ちょっと問題かな、と思ったりもします。

 

療育に関しては、それぞれ親御さんの意見もあるでしょう。

治療者の考えもあるでしょうし、一人一人の子どもの特性の違いもあるでしょう。

療育に関しては、私は肢体不自由の療育しか受けていないので、何とも言えません。

 

 代替医療

最近、代替療法に関する情報を多々目にします。

「○○を取るといい」「○○を取らない方がいい」「レ○ディが効く」などなど…。

どれも、科学的根拠が乏しいものです。

しかも、「発達障害が治ります」「発達障害の症状が軽くなります」「副作用はありません」と断言しています。

 

発達障害は、今のところ、脳機能の障害であり、治療することは不可能であるといわれています。

治療するには、おそらく脳みそをごっそり入れ替えてしまわない限り、無理でしょう。

それなのに、なぜ「治る」「症状が軽くなる」と言い切れるのか。

不思議でなりません。

 

私も実際に、数人の方からレ○ディを勧められたことがあります。

その際、それについていろいろと調べてみました。

私は植物アレルギーがありますから、最初はそのことについて調べようと思いました。

しかし、おそらく公式と思われるHPの説明を読めば読むほど、私にとって、その説明は納得がいくものではありませんでした。

いわゆる「神の水」と同じだと思ったのです。

 

この世には、科学的に説明がつかないことがあるのは、事実でしょう。

しかし、レ○ディに関しては、そういう話ではないと思ったのです。

また、海外では昔から愛用されているといわれていますが、その国と日本の医療事情は全く違います。

日本ではすぐに医療機関にかかることが可能ですが、その国では医療機関にかかるまでに時間を要したり、簡単には公的な医療機関にかかることができないという実情があります。

そうした中で広まった「民間療法」なのです。

 

効果を信じる、信じないは個人の自由です。

プラシーボ効果で、本当によくなる人もいるでしょう。

そういう人は、ご自由にお使いになればいいと思っています。

 

しかし、こうしたものはあくまで個人で納得して使うものであり、他人に勧めるものではないと、私は考えています。

ましてや、勧めた相手が使うことを拒否したからと言って、責めるというのはもっと間違っています。

 

ほかに、さまざまなサプリなどもありますが、サプリの主成分や、混ぜ物に使われている物質にアレルギーを起こす人もいます。

サプリであれば絶対に副作用は出ないとは言えないのです。

(私自身、どうということはない目に良いといわれるサプリの成分で体調を崩したことがありますし、自然の物質であるプロポリスで体調を崩しました)

 

どこまでを「治療」するのか

発達障害の特性や症状の、どこまでを改善するのか。

どこからを個性として認め、置いておくのか。

それは、個人個人の性格と特性によって変わってきます。

しかし、すべての特性を完全に消し去ればそれで問題がきれいさっぱりなくなるわけではない、ということは共通していると思うのです。

 

発達障害の「治療」には、見かけの症状を無くすだけではない、なにか大切なものがあると思っています。

承認欲求と自信

承認欲求

「承認」とは、他者から認められるということです。

自分で自分を認める「承認」もあります。

 

承認欲求とは、それら「認められること」を欲すること。

この欲求は、人間の誰にでもあるもので、それ自体が異常というわけではありません。

承認欲求があることにより、努力することができたり、向上心を持つことができるのです。

 

※ここから書くことは、あくまで私個人の考えです。

 人それぞれ、考え方は違います。一つの意見として、とらえていただければと思います。

 

しかし、承認欲求が強すぎると、自分や周囲の人を苦しめてしまうことがあります。

他人に認められたい欲が強すぎるために、否定されることを極度に恐れ、承認に関することに過度に敏感になる。

それによって、自分も、周囲の人をも振り回し、生きにくい思いをしているであろう人を、幾人か見てきました。

 

自分を認める

人に認められたい欲求が強すぎる人は、自分に自信がない人が多いように思います。

自分に自信がないから、人から認められることで、自分に自信を持とうとする。

その行為自体は、間違ってはいないと思います。

しかし、自信のない自分をそのままに、人に対して「認めて!」と言っても、認められるのは難しいのではないか、と思うのです。

 

ツイッターで流れてきた言葉があります。

「他人に好かれたければ、まずは自分で自分を好きになりましょう。自分が嫌いな人を、ほかの人に好きになってと言えますか?」

 

まったくもって、その通りだと思います。

自分が好きじゃない人を、自分の友達に「あの人のこと好きになってあげて」と言えますか?

むしろ、自分が嫌いな人を、友達にはお勧めしませんよね?

 

自信

そもそも、自信とは、「自分を信じる」と書きます。

自分で自分を信じることで、自分の能力や価値を見出すことができるのだと思います。

 

私は、自信とは他者から与えられるものではなく、自分の中から生み出すものだと思うのです。

ですから、自信がないから他者に認められようとするのではなく、他者に認められるために自信を持つことの方が、認められたい欲求を満たすには近道ではないかと思うのです。

 

自分をみつめる

かくいう私も、以前は自信なんてありませんでした。

しかし、発達障害であると診断され、自宅療養していく中で自分をゆっくりと見つめる時間を持ち。

自分で自分を信じることができるようになりました。

今では、「私自身のことは、私が一番よくわかっている。誰が何と言おうと、私は私を信じる」という結論に達しています。

 

その結論に達してから、物事が良い方向へ進んでいます。

他人から認められることで、自信を持とうとする受動的な行動よりも。

自分で自分を認めることで、自信を持とうとする能動的な行動の方が、はるかに他人に認めてもらえる確率が高いことを、実感しています。

 

まずは一歩

他人に認められたい欲求が強くて、つらい人たち。

もし、変わりたいと思うのであれば、まずは自分で自分を信じるところから始めてみてはいかがでしょうか?

 

もちろん、押し付けはしません。

先に他人に認められることを欲する生き方も、一つの選択肢です。

こういう考え方もできるよ、ということを知っていただければと思います。

共感覚(音に色が見える)

新聞で、面白い記事を見つけました。

音に関する共感覚のことです。

その記事がこちら↓

www.nikkei.com

 

【新聞記事要約】

共感覚とは、音を聞くと色を思い浮かべたり、味に形を感じたり、文字に色が見えたりする、2つ以上の感覚が結びつく知覚現象。

共感覚の持ち主が感じる、「ドレミファソラシ」の7音の名前が虹の色に対応

・メカニズムは不明だが、なぜ音楽に心を動かされるのかヒントを与えてくれるかも

シベリウスやリストらが音と色の共感覚を持つ音楽家として知られる

・色の感じ方には個人差があり、法則はないと思われていた

・しかし、実験で平均値から共通するパターンが見られた

・ドレミファソラシは虹の色の順序に対応している

・色と音の結びつきは、音そのものよりも音の名前の方が強い

 

ざっとまとめるとこんな感じです。

 

私も共感覚を持っていて、以前ブログにも書きました。

 

kisaragikou0220.hatenablog.com

 

私の場合、音と色の対応は以下の通りです。

 

ド→赤(音の流れによってはクリーム色)

レ→オレンジ

ミ→黄色

ファ→黄緑

ソ→水色

ラ→赤みがかった紫

シ→グレー(もしくは紺)

 

この7音以外では

ド#(レ♭)→濃いオレンジ(赤に近いオレンジ)

レ#(ミ♭)→ベージュ系

ファ#(ソ♭)→緑

ソ#(ラ♭)→濃い青

ラ#(シ♭)→青みがかった紫

です。

 

言われてみれば、少々色の順番が違ったり、あいまいな色が入っていたりしますが、虹の色に対応しています。

 

また、今回の記事では、和音については触れられていませんが、和音にも色を感じます。

和音の方が複雑な色に見えます。

 

それぞれ、多少の違いはあるでしょうが、だいたい虹の色とおなじ順になっているというのは、非常に興味深いです。

虹の色は可視光を大まかに分類したものですので、人間が見える色と音が対応するとそうなってしまうのかもしれません。

 

どうして音楽を美しいと感じるのか。

美しいと感じる音楽と色の関係はあるのか。

非常に興味深い研究だと思います。

人間関係における距離感

近すぎる人が苦手

今までに、いろんな人と出会ってきた中で感じたことです。

私は、私に近すぎる位置に立とうとする人が苦手なようです。

近すぎる位置に立とうとするというか、私の世界に踏み込んでくる人。

とてもイライラします。

 

例えば、私の日常生活に踏み込んできたり。

私のパーソナルスペースに踏み込んでくる人。

 

 2種類の距離

日常生活に踏み込むというのは、例えば「毎日メールすることを約束させる」など、私の生活パターンが崩れてしまうような場合です。

パーソナルスペースに踏み込むというのは、物理的な意味(実際の体の位置の近さ)もありますが、精神的な意味もあります。

 

どういうことかというと。

物理的な意味での近さは、例えば隣あって座るときの距離のこと。

初対面だったり、あまりよく知らない人と座るときに、ぴったり密着して座る人って、いませんよね?

知らない人にぴったり密着されると、嫌悪感を感じる人が大多数だと思います。

 

精神的な近さとは、例えば、私の考えていることを、一つの意見として冷静に聞けない状態です。

「それは違う、こう考えるのが正しい!」と持論を押し付けてきたり。

「普通はこう考えるもんだ!」と、自分が正しいとする行動を相手に取らせようというタイプの人。

 

肉体的な近さも、精神的な近さも、相手への信頼度によって、嫌悪感を感じる距離が変わってきます。

相手に対して、信頼度が高ければ高いほど、「踏み込まれた」という感覚は薄くなります。

 

 自分と他人は別の人格

私と、ほかの人は、別の人格です。

人格が違うのですから、価値観も、思考も違って当たりまえ。

なのに、その当たり前が理解できない人が、案外多いんですよね。

それで、「ほかの人も自分と同じように考えているはず」という思い込みから、自分の意見を押し付けてくる。

「自分と他人は同じであるはずだ、同じでなければならない」と思い込んでしまう。

 

それに対して、「そうですか。しかし、私とあなたは別の人間です。考え方が違うということですね。」と答えると、自分と他人をきちんと分離して認識することができていない人は、怒りだします。

自分の言うとおりに相手が行動しないからです。

 

以前、それでけんかになったことがあります。

異論を唱える私に対して「普通はそんな考え方はしない」と、攻撃をしてきました。

それで「私の世界に踏み込んだ」と認識した私は、その人と縁を切りました。

 

自分と他人をきちんと区別できている人は、相手のスペースに踏み込まないよう、気を付けていると思います。

もし「踏み込んでしまったかな」と思ったら、相手の反応に対してさらりと流し、それ以上踏み込まないようにすると思います。

 

自分は自分で、他人は他人。

当たり前のことなんですが、健常者と呼ばれる多数派さんでも、この区別がついていない人が案外いるのです。

 

距離を操る

逆に、パーソナルスペースに敏感すぎるほどに気を遣う人は、とても上手に距離を取っているように見受けられます。

相手に合わせて、自在に距離を操るのです。

 

私は自分の周りにバリアを張り巡らしているのですが、自他の区別がついている人は、上手にバリアを避けて、近寄れるとこまで近寄ってきます。

通常なら不快に感じる距離でも、まったく不快感がないので、不思議です。

そういう人と出会って、はじめて、「これはすごい!」と感じました。

 

そういう私自身、うっかり人のスペースに踏み込んでしまうことも、まだまだあります。

「しまった」と思ったら、すぐに距離を開けるようにしています。

 

自分と他人を、「別のものである」と区別すること。

これができないと、自分も苦しいし、相手も苦しめることになる。

ですから、自他の区別について、常に意識をしていきたいと思っています。

私の経済状況

現在の経済状況について

時々、私はそれなりの収入があると思われていたり、逆に収入がないのにどうやって生活しているのかと質問を受けることがあったので、ちょっと私の経済状況についてお話ししようと思います。

 金銭問題をどう解決すればいいのか悩んでいる方もいらっしゃるでしょうし、ほかの人の経済状況がどうなっているのか知りたいという方もいらっしゃることでしょう。

 

経済状況は、あくまで個人的な情報になりますので、公開できる範囲で書いていきます。

 

私のスペック

【如月のスペック】

精神障害者保健福祉手帳2級(年金の等級変更に伴い、3級から2級になりました)

・厚生障害年金2級(当初3級だったものを、等級変更して2級になりました)

発達障害自閉症スペクトラム障害(重度ではないが典型的)とADHDのハイブリッド

・知的には正常(知能はごく平均、項目別のIQには開きがあり、上は120くらい、下は90くらい)

・基本的に五感はすべて過敏。痛覚のみ一部鈍麻あり

・コントロール不良、治療が不可能なてんかん(もしくは他の神経疾患)がある。発作は毎日、1日に何度も起こる

・二次障害のうつ病を発症している(診断されたのは22歳の時。最初に症状が出たのは12歳のころ)

・その他自律神経症状がもろもろ。解離の指摘もされている

片頭痛、喘息(COPDの可能性あり)、アレルギー性皮膚炎、じんましんがある

・27歳までは健常者として、某公的機関の窓口で働いており、担当部署でリーダーも務めていた。様々な福祉制度に関しても比較的詳しい

・役所関係の手続きは、一人でこなせる

・親と同居しているが、世帯を分けているため、如月一人の非課税世帯である

・幼いころから音楽を続けている。一般的な人よりは才能があるらしい

・現在は絵を描いている

・作業所などには通っておらず、自宅にてほぼ引きこもり状態で生活している

(仕事は、ドクターストップです)

 

 現在の収入

さて、私の経済状況ですが。

まず、基本的な収入は「厚生障害年金2級」です。

月額にして約8万円です。

このほとんどは、内科、皮膚科、メンタルクリニックなどの医療費、そしてカイロプラクティックや美容院など、体調や清潔を保つための費用として消えます。

 ※障害年金の収入は、税制面においては、収入とはみなされません。

 

他に、ちょっとした収入があります。

 

「わわわ」さんに所属して、絵の販売をしてもらっています。

「わわわ」さんは、NPO法人ですが、作業所ではありません。

絵の才能が認められる、障害を抱えている人を対象として、絵を売るお手伝いをしてくれるところです。

絵を描けばだれでも売ってくれるというのではなく、審査があります。

障害はあるけれど画家としての能力があるから、「わわわ」さんに絵の販売やマネジメントをしてもらっているという状態です。

 

こちらも、売り上げの全額が私に入るのではなく、3割が支払われる仕組みとなっていますので、今のところ収入としてみなせるほどのものではありません。

 

働くことがむずかしい

ですから、私の生活は、基本的に親の援助で成り立っています。

親と同居しているから、何とか生きていられるのです。

とはいっても、親も年金生活ですから、生活はカツカツです。

親が死んでしまったら、確実に生活保護の受給ができる状態です。

 

障害者枠で働いたり、作業所に通えば収入が得られるんじゃないか?という意見もあるかもしれません。

しかし、私は主治医によって、働くことを止められています。

うつ病てんかんによって、外に出かけるだけの体力がないことが理由です。

環境が適切であれば、働けるだけの知能や能力はありますが、体力的に無理なのです。

 

作業所に関しても同じです。

作業所に通うということ自体がかなりの負担になること。

私にはおそらく作業所自体が向いていないこと。

しんどい思いをして通っても、ほとんど収入にならないのであれば、通う意味がないこと。

それらを理由として、主治医は作業所に通うことを勧めません。

 

※一つご注意いただきたいのは、主治医は決して患者全員を働かせないというわけではありません。病状が安定すれば、仕事に復帰するように勧める医者です。

 

 働けるなら働きたい

以上のことをまとめると。

★一般的に考える「収入」と呼べるものは障害年金、絵の販売である。

★しかし、年金はそもそも税制において収入とはみなされない。

★絵の販売における収入も、税制において収入とみなせるレベルのものではない。

障害年金はほとんど医療費や体調の維持などに消えていく

★両親と同居しているので、食っていけている

ということです。

 

付け加えるとすれば、6年弱働いている間にコツコツためた貯金を切り崩して、何とか生活を成り立たせている、ということでしょうか。

 

こんな感じです。

貧乏人なんです(;^ω^)

せめて、週に20時間働くことができれば、もう少しマシな生活ができるんでしょうけれど…。

文句を言っても始まらないので、何とかこのような状況でやりくりしている次第です。

絵の新作「深沙大将像」完成!

絵の新作が完成しました。

「深沙(じんじゃ)大将像」です。

魔除けのご利益があるそうな。

 

 

絵の方向性について、なんだかよくわからなくなってきました。

どこへ向かうのか。

何をしようとしているのか。

自分でもよくわかりません。

 

そのうちあーとの教室に行くので、また相談してきます(#^^#)

歯が欠けてパニック

緊急で歯医者に行ってきました。

 

朝ごはんを食べているときに、歯が欠けていることに気が付きました。

なんだか変な感じがして、右上の歯のあたりを舌で触ると、歯に舌が引っかかる。

【なんで?】

【こんなところにこんな段差あったっけ?】

と思いながら、よくよく確かめてみると、ぽっかり穴が開いている!

 

「ぎゃぁぁぁ」とパニックになりながらも、思考の一部は冷静で。

【奥から二番目の歯…神経を抜いて治療した歯。】

【欠けてる部分はほっぺた側。ということは、前に治療したときに開けた穴に詰めたものが取れたんだ。】

【ということは、自前の歯じゃない。とりあえず、詰めなおせばなんとかなるかも!】

というところまで考えて、とりあえず歯医者に行くことにしました。

 

診察開始の9時前に電話したら、すぐ来てくださいと言われました。

病院に行くと、誰もいない。

後から来る人もいない。

あさ一番の診察は誰もいなかったようです。

ゆっくり治療してもらえるし、ほかの人に迷惑かけなくて済んだ、良かった(*´ω`*)

 

先生に、右上の歯が欠けたことを伝えて、確認してもらったところ、やっぱり前に治療して詰めた部分が欠けてしまっているとのこと。

外側だけだから、なんとか詰めなおせるだろうということでした。

 

もし、どうしても耐えられなければ笑気麻酔を使うということでしたが、結局なんとか耐えられたので、笑気麻酔は使わずに済みました。

ミラーで口の中を抑えられたときに、すっごい痛かった(刺さってるんじゃないかと思うくらい)けど、頑張って我慢しました。

 

前と同じように詰めてもらったのですが、何度も外れてくるようなら、やっぱり型を取ってかぶせないと…と。

でも、型が取れないからなぁ…と。

その後に何も言葉が続かなかったんですけど、どうするのさ…(;^ω^)

 

とりあえず、今の状態でまたしばらく様子見です。

欠けた部分もきれいになって、噛み合わせも大丈夫。

 

そうそう、器具の準備中に、先生が「この前は…」と雅楽の発表会の話を振ってくれたので、「ありがとうございました」とお礼を言うことができました。

「なんかいいところに座ってたやん。師範代みたいな」と言われたので。

「一応講師」と答えると。

「そうか、いいやん。それはいいやん。お母さんは長くやってるだけって言ったけど。」と。

 

母上は謙遜ってやつをやったらしいけど、私は謙遜なんて言葉知りませんからね、事実を伝えますよ~。

でもちゃんと、『一応』講師と言いました(笑)

 

先生、変な人だけどすごく優しいです。

嫌なことは絶対にしませんし、嘘もつきません。

だから、パニックを起こしても、【先生ならなんとかしてくれる!大丈夫!だから助けを求めよう!】って思えるんですよね。
そうじゃないと、とてもじゃないけどパニック状態で歯医者には行けません(;^_^A

 

というわけで、今日はとても頑張りました。

先生もね(笑)