kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

大学4回生、ゼミ・卒業

卒論に向けたゼミ活動

 

4回生では、ゼミの担当の先生が、変わりました。

H川先生が、国内留学で、東京の史料編纂所へ行ってしまったからです。

その代り、当時学長だった、T端先生が担当になりました。

女性の先生で、女性史の分野では、日本でトップの先生です。

NHKの歴史番組、「その時歴史が動いた」には、幾度も出演しておられました。

歴史秘話ヒストリア」にも、時々出演しておられます。

 

3回生の最後のゼミのとき。

H川先生が、「来年の君たちの指導は、T端先生にお願いすることになります。学長がゼミを担当するなんて、ありえないことです。君たちは運がいい!」と。

そして、みんなが「きゃー!」と騒ぐと。

「僕が担当するより、みんなもT端先生の方がいいよね、有名やし。」と自虐(笑)

 

最後のゼミ生

 

そして、私たちは、T端先生の、最後のゼミ生となりました。

社会に出てから、他大学の歴史学科出身の子に、「T端先生のゼミだったの?なんて羨ましい!」と言われました。

そのくらい、有名な先生でした。

 

卒論に取り組む

 

4月、本格的に卒論の内容を決めていきました。

T端先生は、「北条政子にしてもいいのよ?」と、自分の一番得意な分野を進めてきましたが、誰もその分野には手を出しませんでした。

北条政子の研究に関しては日本一の先生の前で、北条政子の論文なんて、恐ろしく書けません…。

 

私は、雑賀衆に決めていたので、どんどん先行論文を読んでいきました。

そして、その中で扱われている史料を集めていきました。

京都・洛北の図書館へも行きました。

史料を片っ端から解読し、訳していきました。

そして、史料から読み取れるポイントをいくつかに整理し。

ある程度、頭の中で論文の方向性を決め。

先行論文で扱われていない、雑賀衆の結束の由来について、論文を書くことにしました。

テーマは、すべて自分で決めました。

 

イツミなどは、先生に何をしていいかわからないと相談に行き、キリシタン大名として有名だけど、あまり研究されていない「明石掃部」の研究を勧められ、それに決めました。

この明石さん、大河で取り上げた「黒田官兵衛」のいとこにあたる人でした。

その時はまだ、官兵衛のことは詳しく知りませんでした。

そのあとで、竹中半兵衛ファンになり、その関連で黒田官兵衛ファンにもなるんですけど(笑)


ゼミ旅行

 

夏休み。

私たちT端ゼミは、先生の提案で、ゼミ旅行に行くことになりました。

行先は、伊勢に決定。

みんなで、近鉄特急に乗っていきました。

初日に、手こね寿司と伊勢うどんのセットを、鳥羽まで食べに行き。

そこから、斎宮博物館へ。

その日は雨で、地面がぬかるんでいました。

次の日に、伊勢の内宮と外宮へ。

伊勢神宮おかげ横丁では、自由行動になりました。

私たち4人のグループは、T端先生とともに、伊勢うどんを食べ。

先生が赤福が食べたいとおっしゃったので、赤福のお店に行きました。

先生が、ごちそうしてくださいました。

何と光栄な!!!!

全ての場所で、T端先生が直々にガイドをしてくださいました。

もう、この旅行は、生涯忘れません。

この時知りましたが、先生のお孫さんが、私たちと同じくらいの年齢だということでした。


進む卒業論文

 

夏休みが明け。

私はどんどん論文を書き進めていきました。

ゼミでは、毎回書き上げたところまで先生に見せ、報告します。

それ以外の人は、おしゃべりしたり、情報交換したりしていました。

 

学校では、アイやチセ、イツミ、ハツエと、同じ机で卒論を書き進めました。

日曜日にも、大学へ行って卒論を書きました。

教授・助教授の部屋の前にある、共同研究室に何時間も入り浸って、みんなでご飯を食べたりお菓子食べたり、時には騒いだりしながら、書き進めました。

すごく楽しかった。

 

卒論完成!

 

10月末。

私は、卒論を書き上げました。

先生に見せ、それまでに指摘されていた点もすべて改め、先生に完成の許可をもらいました。

先生が、「はい、じゃぁこれで完成ですね。」と言いました。

提出期限は、12月上旬です。

私は、ゼミで一番に卒論を書き上げました。

 

それを聞いていたゼミ生の一人が、他のゼミ生に「もう卒論完成させた奴がいる!」と言いふらしたようで。

学内中で噂になってしまいました…(苦笑)

しかも、学内で1番に書き上げたらしく。

他学科の子の耳にも入っていました。


友達の卒論の手伝い

 

そこから、私はしばらくぶらぶらしていましたが。

ハツエが、卒論を書き始めていないどころか、史料さえ集めていないということが発覚しました。

バイトと部活に追われていたようで。

ハツエのテーマは、「熊谷直実」でした。

平家物語で有名な、あの熊谷直実です。

もう、11月に入っていました。

さすがにまずいので、アイとチセが私に、手伝ってやって、と言ってきました。

彼女らはまだ、卒論と格闘していたからです。

そして、アイとチセはゼミが違います。

 

私は、連絡のつかないハツエと何とか連絡を取り、史料を集め始めました。

ハツエが史料として持っていたものを、持ってこさせ。

史料すべてが集まったのが、11月末。

そこから、私は史料の解読に取りかかり。

ハツエには、なぜそのテーマにしたのかという、「はじめに」の部分を書くように言いました。

 

私は、家に帰ってからも史料の解読を続け。

「はじめに」以外の、第一章・第二章・第三章、そして結論まで、すべて書きました。

提出まで一週間。

一気に、書いていきました。

私ができるところまでは、すべて書いていきました。

 

同じゼミのイツミも、卒論に行き詰っていて、体調も悪いらしく、T端先生とのアポがあるのに学校に来られないことが多く。

私が、学長とイツミの連絡係にもなっていました。

何度も学長室に報告に行っているうちに、「あなたたち、本当に仲がいいのね。」と先生に笑われるようになってしまいました…。

それまでにも、私とイツミは同じ苗字なこともあり、いろんな先生に「君たちは双子か?」と聞かれたり。

ゼミのメンバーに、「いつも一緒にいるけど、双子じゃないよね?」と聞かれたりすることがありました。

もう、苦笑するしかありません…。

 

徹夜で作業

 

そしてイツミが、提出期限3日前に、卒論を半分も書いていないが体調が悪い、と言い出しました。

私は、アイとチセに拉致されて、ノートパソコンをかついでイツミの家に行きました。

そして、イツミがまだ手を付けられていない史料の解読と、それから読み取れることを文章に起こしました。

アイとチセは、イツミの見張りをかねて、そこで自分の作業をしていました。

せまいテーブルの上で、4人がパソコンに向かって、必死で作業していました。

 

その日は、夜中の3時まで作業し。

次の日の朝、パソコンを担いで学校へ行き、今度はハツエの卒論を書き。

その夜再び、イツミの家へ向かい、そのまま徹夜で、イツミの卒論の目処をつけました。

そして、イツミの家を出たのが、朝の6時。

夜が明けていました。

そこから家に帰り、シャワーを浴びて、15分だけ寝て。

すぐ、パソコンを持って学校へ。

その日が、卒論提出日でした。

 

共同研究室で、イツミは私が書いた部分と、自分の文章を整合させ。

私は、ハツエに「はじめに」の部分を書かせながら、ハツエの卒論を完成させました。

チセも何とか書き上げていたので、編集部のように、私の文書の、文字の打ち間違いや、日本語のおかしいところをチェックしてもらいました。

「編集長!できました!」

「そこに置いといて!次見る!」

という会話が飛び交っていました(笑)

 

そして、イツミがすべて印刷し終え、製本し、滑り込みセーフで論文を提出。

ハツエは、印刷が間に合わず、とりあえずできた分だけを、提出場所まで走って行って持ちこみ。

受付時間ギリギリに、部屋に滑り込みました。

印刷できた部分を、順次持ってきてもらうようにして、私とハツエは、製本しながら、提出の手続きをししました。

あまりにも入れ代わり立ち代わり、文章が追加で届くので、大学の職員が「一体誰の論文なん…」と苦笑。

それでも、卒業できるかどうかがかかっているのですから、必死です。

気にせず、無理やり居座り、何とか全文をそろえ、提出。

 

共同研究室に戻り、提出が無事すんだ事を伝えると、みんなほっとしました。

ハツエはいつもの如く、情けない顔をしていました。(笑)


卒論を2本半書いた

 

というわけで、私は自分の分も含め、論文を2本半書くことになってしまいました…(苦笑)

しかし、ハツエの論文を、よく1週間で書き上げたものだと、自分でもびっくりしました。

論文の決まりは、原稿用紙50枚分、2万字でしたから。


口頭試問

 

この後、論文に関して、ゼミ担当の先生と、他のゼミの先生と、論文を書いた本人とで、口頭試問があります。

私は、先生に「決まりの2万字を超えているけど、まあいいか。内容はすごく面白かったわ。」と言われました。

T端先生にそういっていただけて、私は満足でした。

 

半分は自分で書いたイツミはともかく。

ほとんどを、ゴーストライターである私が書いたハツエは。

口頭試問前に全文に目を通しておけ、と言ったにもかかわらず、目を通さなかったようで。

先生に聞かれても何も答えられず。

先生に、「もういいわ、自分で読む。」と言われて解放されたそうです。


卒業

 

あわただしい卒論提出でしたが、無事、全員単位が取れました。

そして、卒業式を迎えました。

 

卒業式は、学長が卒業証書を、一人一人に渡してくれます。

私たちT端ゼミのゼミ生は、T端先生直々に証書を頂けると、喜んでいました。

しかし、先生は大雪の日に転んで腕を骨折。

直接証書を頂くことができませんでした。

それだけが、心残りです。

大学4回生・博物館実習

4回生に進級

 

大学4回生になりました。

講義は、もう4回生でないと受講できないものだけになっていました。

 

ゼミと、博物館実習Ⅰ・Ⅱです。

ゼミは、卒論を書き上げないと単位がもらえません。

だから、4回生の後期まで、大学には通わなければなりませんでした。

 

博物館実習

 

博物館実習の講義は、前期・後期の中でも、更に前・前期と前・後期に分かれていました。

同じく学芸員資格を取ろうとしていたチセと一緒に受講登録をしましたが。

前期については、私は前・前期で、チセは前・後期に受講することになりました。

 

カメラを扱う

 

前期はメディア関係が専門の先生でしたから、ビデオカメラの扱い方や、中型カメラの取り扱いを学び。

中型カメラって、昔のカメラみたいに箱型で、フィルムの入れ方も普通のカメラとは違うのです!

はじめて、触りました。

カメラの作りの解説のとき、シャッターの仕組みを教えてもらいました。

カメラを分解したことある人いないと思うけど…と先生は言いましたが。

私は、壊れた古い一眼レフカメラを分解したことがあります(笑)

だから、先生の解説はよくわかりました。

その授業では、4人ずつで一つのグループを作りました。

そして、「展示」について学びました。

 

リーダー

 

グループのリーダーは、先生が決めました。

その代り、リーダーにはポイントが加算され、それが成績に反映される仕組みでした。

なぜか、私は先生から、期待されていました。

この先生が、テスト中に私の解答をじっくり読んでいた先生です(笑)

リーダーの仕事は、先生が指示したことを聞いて、それをグループメンバーに伝えること。

そして、カメラや三脚の準備をすること、でした。

 

公務員講座を取っていた私は、そこでチセと一緒に、受講ついでにビデオ係としてバイトもしていたので、三脚は私の商売道具です。

扱いは、手慣れたものでした。

 

展示の実習

 

その授業の課題は、中型カメラを持ち出し、「イス」というテーマで写真を撮ること。

そして、それを発泡スチロールのようなボードに貼り、題名と解説をつけ、学内掲示板に張り出す、というものでした。

アンケートも設置したかな?

それを一週間ほど展示して、授業は終わりました。

 

レプリカづくり

 

この授業の番外編として、レプリカづくりを体験しました。

学校の近くに、レプリカを作る有名な会社があり、そこの社員さんが出張講座をしてくれました。

化石の型を用意していてくれたので、そこに石膏を作って流し込みました。

私は、アンモナイトを選びました。

そして、それが乾燥したら、出来るだけ本物に似せて色を塗ります。

さっさと作業を終わらせてしまった私は、もう一つ作らせてもらいました。

それは、「デスモスチルス」の歯の化石!

通称、のり巻き怪獣です!

歯が、細いのり巻きを並べたように見えるから、そう呼ばれます。

ゾウの祖先です!

この実習も、すごく楽しかった!!


博物館での実習

 

夏休みには、実際の博物館で実習をさせていただきました。

私は、京都御苑のすぐ横にある、史料館で実習することになりました。

他大学からも、実習生が来ていて、10人ほどで実習します。

史料館なので、史料の整理の方法を教わり、実際に寄贈されたばかりで触られていない史料の分類などもさせていただきました。

紙を食べる虫の話も聞き。

ほこりまみれで整理しました。

 

その実習を担当してくださった学芸員さんの娘さんも、学芸員実習に行ったらしいのですが。

掃除だけして終わったそうです。

行先によって、実習の内容が全くちがう。

ここに来た君たちには、しっかり実習をしてもらうよ、と言われました。

でも全然厳しいことなんてなくて。

好きなことを一日中するのですから、楽しくて仕方なかった。

毎日、終了後にレポートを書き。

最終日には、それをチェックしてもらいました。

そして、ケーキとお茶を頂き、感想を言って、お礼を言って、実習は終了しました。

レポートは、学校にも提出しました。


調書の取り方

 

後期の授業、博物館実習Ⅱは、チセと一緒のクラスでした。

最初は、発掘された史料の調書の取り方を教わりました。

そして、写真の撮り方、ライトの当て方などを、教わりました。

史料のデッサンも、習いました。

これは、通常のデッサンとはちがい、影や光を書いてはいけません。

史料を忠実に再現するのが目的だからです。

後々、実物がなくなっても、その絵をみて実物が再現できるくらいのものを描かなくてはなりません。

観察眼が、要求されました。

 

古文書の扱い方

 

そのあとは、文書を読む授業がありました。

古文書を専門とする先生が、いろいろな本物の古文書を持ってきてくれました。

先生の自宅で発見されたらしいです。

燻蒸(虫を殺すための燻煙処理)を済ませたものでした。

その古文書を分類したり。

古文書の修理の方法も、習いました。

ノリの作り方も、教わって、実際に作ってみました。

米粉から作るので、作っている最中はわらびもちづくりに似ていました。

私はチセと作業して、「わらび餅に見えてきた。食べられるかな?食べていいかな?」と言いながら、作っていました。

先生が、「たべられるけど、道具をちゃんと消毒してないから・・・お腹壊れてもいいならどうぞ。」と言って笑っていました。

 

このノリは、和ノリといって、西洋ノリとは違うそうです。

和紙が付きやすい糊なので、洋紙であるノートなどはくっつきません。

逆に、西洋ノリでは、和紙はくっつかないそうです。

 

楽しくて楽しくて、仕方ない博物館実習の講義でした。

Tシャツアート 第3弾!

Tシャツアートの第3弾です!

これで、13枚描き上げました。

 

↓カメレオン

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↓シーサー

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ハンマーヘッドシャーク(シュモクザメ

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クリオネ

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ハンマーヘッドシャークとクリオネは、水玉模様を取り入れてみました。

 

クリオネはあの独特の透明感を出したかったんだけど…どうかな?

あと残り12枚、ぼちぼち描いていきます!

絵の新作「Mystic Blue」完成!

通常の絵の新作が、ようやく完成しました。

なぜか今回は2週間かかりました…。

「Mystic Blue」です。

 

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この絵は、上下左右は特に決めていません。

 

↓描きはじめ

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↓完成

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タイトルの通り、3月に描いた「Mystic White」と対になっています。

 

↓Mystic White

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さて、これらが対になっている意味が分かる人はいるでしょうか…。

わかった方は、心の中で収めておいてくださいね(笑)

 

次は、今までに使ったことのないやり方で絵を描いてみようと思っています(#^^#)

大学生・部活2

セクションリーダーに立候補

 

一つ上の先輩が引退する前に、次の代のセクションリーダーを決めることになっていました。

セクションリーダー(略してセクリー)は、パートの練習よりもう一つ大きい、パートの垣根を越えた練習をするときに、仕切る人のことです。

通常は、どこかのパートリーダーが兼任するのですが。

私は、この役に立候補しました。

 

このころ、私は結構はっきりものを言うようになっていました。

そして、次期指揮者よりもずっと、音楽的知識を持っている、と自負していました。

これは、高校の吹奏楽の方針に、感謝しなければなりません。

私は、すでにフルスコアが読めましたし、他の楽器の音の読み替え(各楽器で、ドレミが違う)も出来ました。

それまでにもすでに、私は先輩指揮者に意見をしたりすることが、何度かありました。

指揮者が合奏中に、何でうまくいかんのやろう、と悩みに悩んでいるときに、「ここと、ここがおかしいから合わない」と発言したりもしていました。

 

そして、先輩が推薦したのは、フルートのパートリーダーをしていた同い年の子でしたが、その子は部活を欠席することも多く。

私は、任せられない、と思いました。

(実際にそう発言しました。今から思うと、言い過ぎだとは思うけど、それでも音楽に関しては妥協したくなかったから。)

先輩たちも、パートリーダーでなければならないという決まりはないし、ということで私がセクリーになることを、認めてくれました。

こうして、私はセクリーになりました。

 

波乱

 

2回生の秋。

諸事情により、大学が吹奏楽部の講師として、プロのホルン奏者を迎えてくれました。

その先生の指導の下、私たちは夏には、大編成部門でコンクールに挑戦することになりました。

かなり揉めて、部活内が揺れましたが、方針を固めて、みんなで頑張りました。


順調な3回生

 

3回生になりました。

私は、楽器管理の仕事も、セクリーの仕事も、着実にこなしていました。

楽器管理の仕事は、全く体系化されていなかったので、引継ぎ用に全ての内容を資料にまとめました。

そして、CD-ROMに落とし、代々それを受け継ぐ形にしました。

 

自信を持たせてもらえた

 

キツイ言い方の私に、みんなはよくついてきてくれました。

高校でバリバリやってきた子たちにとっては、そのほうがよかったようで。

ついてこられない子たちもいましたが、そんな子たちの気持ちも、私は分かるつもりです。

高校時代、私がそうだったから。

そんな子たちにも気を配りながら、なんとかうまくまとめていこうと努力しました。

もちろん、私のやり方に反対する人もいましたが、コンクールが近くなって、先生の指導も厳しくなってくると、反対する人も減ってきました。

私が言ったことと同じことを、先生が指摘することが多くなってきたからです。

 

何度か、金管楽器も入れてセクション練習をすることがありました。

それ以来、私は金管楽器の後輩に、「○○先輩(私のこと)のセク練、厳しいけど、その緊張感がたまらない!!またやってほしい!」と言われるようになりました(苦笑)

実際、金管のセクリーと交代し、私が金管を、金管のセクリーが木管の指導をしたこともありました。



3回生のコンクールでは、大編成部門初出場で銀賞。

まぁまぁの成績でした。

 

12月。

定期演奏会を開き、私たちは一応引退しました。

 

4回生も引き続き部活動

 

4月。

4回生になった私たちは、後輩に呼び出されました。

「今年もコンクールの大編成部門に出場したいが、人数が足りない、出場してくれないか」という話でした。

ほとんどの人が、承諾しました。

みんな、音楽が好きなのです。

私にも、お誘いがありました。

ところが。

私には、後輩の指揮者を通して、先生からの伝言がついていました。

「打楽器の人数が足りない。打楽器で出場してくれないか。是非、お願いしたい。」と。

 

この先生がはじめて来たころ、私はフルートと打楽器とを、曲ごとに持ち替えていました。

なのに、先生は私のことを打楽器パートだと思っていて。

フルートを吹いているのを見て、「お前、本職はフルートやったんか!」といって笑っていたのです。

ソロも吹いていたのに…(笑)

 

その後も、定演などでティンパニーを叩いたりしていて。

先生も、私の打楽器の腕を、認めてくれていました。

だから、先生直々の要請があったようです。

 

私は、二つ返事で承諾しました。

そして、コンクールに向けて、毎日練習に通いました。

今までのメンバーみんなと、練習ができるのが、楽しくて仕方なかった。

 

私は、小物系を担当しました。

その中でもタンバリンの裏打ち(表拍ではなく、その間に入る裏拍)をするという、難易度の高いものがありました。

タンバリンは、叩いてから鳴るまでに、微妙な誤差があります。

その誤差を把握したうえで、全体の音楽に合うように、タイミングを微調整して叩かなければなりません。

打楽器専属の後輩が、前の年のコンクールで、めちゃくちゃ苦戦しました。

その役が、私に回ってきました。

 

ところが。

メトロノームの微妙な狂いも分かるくらい、リズム感が抜群の私です。

先生に、「ブラボー!」と言わせました!!

この時、先生にブラボー!と言われたのは、私以外に一人だけでした。

 

代表に選出された!

 

私の感性は、打楽器ととても相性が良かったようです。

体力的にはキツくても、毎日楽しく練習し。

コンクールでは、なんと、大編成出場2年目にして、金賞を獲得!

しかも!

京都府代表に選出されました!!

私は、それまで一度も代表になったことがありません。

だから、結果が張り出された時、号泣してしまいました。

他にも泣いている子はいましたが、私が一番激しく泣きました(恥)

どんなに辛くても、人前で泣いたりはしませんが、うれし泣きだけはこらえられません(笑)

 

その半月後。

奈良県の橿原で、はじめての関西大会に出場。

結果は、銅賞でした。

でも、関西大会に出場できただけで、満足でした。


発展した吹奏楽

 

この後、吹奏楽部はどんどん発展し。

今では、府代表の経験も増えてきています。

人数も、大幅に増えているようです。

増々の発展を、陰ながら願っています。

Tシャツアート 第2弾

できる限り毎日、2枚ずつTシャツアートを仕上げております。

今回は、新作を4枚アップします。

 

↓くじらのとけい

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↓たこ

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↓りす

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↓花チョウチンアンコウ

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なんでこう、如月の描く絵はなんというか、不気味になるのでしょう…(;^ω^)

 

目の描き方の問題かと思ったけど、どうもそうではない。

色の使い方の問題か?

まぁ、個性的でよろしいということで(笑)

はじめての就職活動

就職活動

 

大学3回生の秋。

はじめての就職活動が、始まりました。

このころは、10月から始まっていました。

 

大学でのセミナー

 

まず、大学で就職活動のためのセミナーが、2回開かれました。

そこで、履歴書の書き方などを教わり。

後は、個別で学生支援課で相談に乗ってもらっていました。

そこは、履歴書の添削も厳しく。

志望動機や、自己PR欄も、何十回と書き直しさせられるという噂でした。

しかし、私は2・3回でクリア。

文章表現力は、あるのです(笑)


少しずつ就活を進める

 

私は、吹奏楽部に所属していて、その引退が12月上旬でした。

それまでは、ちょこちょこ、合同で開かれる説明会に行っていました。

大学の友人、チセ・アイと一緒に行くことが多かったかな。

チセと私で行っていたら、会社説明会帰りにアイが合流したこともありました。

そんな時は、3人で帰り、三条の駅にある定食屋さんでご飯を食べて帰ったりしていました。

それを楽しみに、活動していました。

 

本格的に就活が始まる

 

12月中旬。

部活を引退し、本格的に就活を始めました。

京都産業会館で、合同説明会(略してゴーセツ)がありました。

家からは地下鉄で15分ほどの距離。

見慣れた場所でした。

私は、アイ・チセ・イツミ・ハツエと一緒に、出掛けました。

そして、いろいろな会社のブースを見て回りました。

 

ぶっ倒れた

 

この時、部活の定演を終えた直後で、かなり疲れていて。

立見席で話を聞いている間に、気分が悪くなって。

それでも、その場にしゃがみ込んで、最後まで聞いていました。

そのあと、空気も悪いし、とりあえず外に出よう、と4人と外へ向かう間に、どんどん気分が悪くなり。

目の前が黄色くなり、視界の端がどんどん黒くなり、視界が狭まっていき。

吐きそうになりました。

 

倒れる一歩手前で、アイがあいていた洋式トイレに放り込んでくれました。

トイレは混んでいたけど、アイが「気分悪い人がいるんで先はいらせてください!」と言って、順番抜かしをさせてくれました。

こういう時、お母さんみたいな(って言うたびに、「産んだ覚えはありません!」って言われるけど・笑)アイがいてくれるのは、心強かった。

 

何とか持ち直し、トイレの外に出ると、トイレの入り口でアイとハツエが待っていてくれました。

チセとイツミは、離れたところにいました。

アイが、私を医務室へ連れて行ってくれました。

ゴーセツなので、医務室が用意されていました。

医務室にはすでに、一人ベッドに横になっているので、と応接室のソファで寝ることに。

脳貧血だろう、と言われました。

アイがペットボトルの水を持ってきてくれて。

暫く休憩していました。

 

そして、体調が戻ったので、医務室のスタッフさんにお礼を言って外に出て。

4人に連絡をして、目処がついたチセと落ち合いました。

そのあとは、私ももう切り上げることにして。

全員が終わるのを待ちました。

私はみんなにごめんと謝って。

ハツエが、「○○ちゃん(私のこと)、ホントに真っ青で、心配したよ~、こわかったよ~」と半泣きに(笑)

 

そんな感じで、就活が幕を開けました。


続く就活

 

そこから、いくつものゴーセツや、会社説明会に行きました。

地元のゴーセツなども、行きました。

色々と、会社を受けました。

私が受けたのは、エントリーシートも入れて、30社くらいかなぁ。

その中で、2次に進んだのが5社くらい。

最終選考に進み、内定を頂いたのが2社でした。

アイは、100社以上受けていました。

 

暗記で臨んだ面接

 

面接は、苦手な分野です。

話し言葉のみだからです。

だから私は、前もって、聞かれる可能性の高いことの回答は、すべて文章に書き起こし。

暗記していました。

20パターンくらいは、頭の中に保存していました。


内定

 

4回生の5月。

私は、生命保険会社の営業と、地元大手スーパーに内定を頂き。

どちらかに決めることになりました。

スーパーは、遠い親戚が勤務していて、厳しいという話を聞いていたことと。

生命保険会社は、学校のあっせんもあり、先輩もいるということで、生命保険会社に就職することになりました。

イツミも、最終的に私と同じ会社に内定をもらい。

アイも、同じ会社の東京で内定をもらいました。

何とか、大手の会社に就職することが、できることになりました。

 

10月。

内定式に行きました。

すると、私とイツミと同じ歴史学科の、同じ苗字の子が、もう一人いたのです!

この子を、ナナエとします。

 

内定式は、名前の順に座らされました。

私は、イツミと一緒に行きましたから、二人でナナエを見つけてびっくり!

同じ苗字同士、一緒にがんばろう、と約束しました。

 

この会社の人事の人も、同じ大学で同じ苗字の私たちを、「ややこしい!」と言いました(笑)

 

社会人に

 

そして、4月。

私たちは、大きな不安と期待を胸に、新社会人として、スタートを切りました。

 

(ここからは、社会人の項目へとつながります)