kaleidoscope

自閉症スペクトラム障害、ADHD、うつ病を抱える如月の万華鏡のような頭の中を、書き連ねていきます。わわわアールブリュット作家。

中学3年生

中学3年生になった

 

無事、3年生になりました。

またクラス替えがあり。

私は、3年4組でした。

先生は、女性の先生で。

先生自身も、吹奏楽経験者だという先生に当たりました。

この先生とは、相性が良かったです。

 

一番楽しい1年だった

 

友達も、仲のいい子と同じクラスになり。

そして、とっても穏やかな、体格の良い女子とも仲良くなりました。

この時のクラスが、中学時代では一番楽しかったように思います。

 

ADHDの特性で怒られる

 

中学3年の参観日。

私は、家に帰ってから母に、「なんであんたは落ち着いてじっと座ってられへんの!みんなはちゃんと座ってるのに、一人だけガサガサして!」と怒られました。

私は「ちゃんと座ってる!」と言いました。

そのあたりは、メンタルクリニックでも聞かれました。

ADHDの診断が出ています。

いまだに、じっと座っていることができず、座りなおしたり、動き回ったり、一人でガサガサしています。

 

進路の話

 

中学3年になると、高校進学の話がちらほらと出てきます。

テストの結果も、学年での順位とクラスでの順位が、個人に渡されるようになりました。

私の成績は、中の上か、上の下くらいで。

数学以外は、割と成績の良い方でした。

その順位には、学内偏差値も載せられていました。

 

周りの子に偏差値を聞かれた私は、書かれていた数字を答えました。

周りの子が、すっと引きました。

私は、偏差値の意味があまりよくわかっていなかったのと、自分が普通だと思っていたのですが。

周りの子の数値を聞くと、私より低くて。

その子たちは、40代でした。

私は、60を超えていたと思います。

 

だから、進路指導の時も、先生が、「○○(本名)さんなら、T高校(県下トップの公立進学校)でも受かるでしょう」と言っていました。

母が「滑り止めを受けたほうがいいでしょうか?」と聞いても、「いらないと思いますよ」と言われました。

また、「T高校に入って、勉強についていけるでしょうか?」と聞いた時も、「この成績なら大丈夫だと思います」と言われました。

 

まぁ、現実そううまくはいかなかったんですけども…。

それはまた、高校時代の項目に詳しく。

 

中学3年生でピクニック

遊べるのも今のうち!と、中学3年生にもなって、授業の一環として、向かい側のお城の公園で、ピクニックをしました。

お昼休憩にお弁当を持って出かけ。

そのあとの自由時間は、その公園で遊びました。

私は仲のいい子たちと、制服のスカートのまま木登りをしていました。

男子でさえ木登りしなかったのに(笑)

国語の先生と、体育の先生が寄ってきて、「あんたら、えらいことしとるなぁ」って笑ってみていました(;^ω^)

最後に集合して、先生が言った言葉は。

「みんな上手に遊べました!」でした…。

中学3年生にもなって、上手に遊べましたはないだろ!幼稚園児じゃないんだから!とみんなで笑いました。


遠足

 

中学3年では、修学旅行に向けて、遠足も地元の遊園地に行きました。

遊園地と言っても、ちゃちいもので、遊園地と呼べるかどうかも怪しいような規模ですけど(笑)

そこで、班別行動になっていたけど、他のクラスの仲の良い子と合流して、遊びました。

すごく楽しかったです。


修学旅行

 

中学3年といえば、修学旅行です。

修学旅行は、東京へ!

地元の駅から出発し、新幹線に乗り、一日目はディズニーランドへ!

時間は短かったけど、ディズニーすっごい楽しかった!!

そして、その日はディズニーランドのすぐそばのホテルに泊まりました。

朝ごはんは、ナイフとフォークで食べました。

一応、マナー講習ということらしいです(笑)

 

二日目は、バスに乗って東京見学でした。

東京タワーも見ました。

国会議事堂も見学しました。

そのあとは、横浜へ!

横浜の中華街で、グループごとに放し飼いにされ。

ここでも、他のクラスの仲のいい子と合流して遊んでいました。

そして、山下公園に集合し。

氷川丸も見ることができました。

 

そこからまたバスに乗り、その日のうちに富士山のふもとへ。

夕方、もう暗くなった樹海の中の道を通るのは、ちょっと怖かったです。

そして、河口湖畔のホテルに、泊まりました。

この晩から、体調を崩し。

友達に、風邪薬を分けてもらって飲みました。

 

次の日は、バスで富士山の5合目に登りました。

あいにくの雨時々曇りの空模様で。

富士山のてっぺんは、見えませんでした。

5合目も霧だらけで。

とても寒かった。

そして、先生が、ぱんぱんに膨らんだポテトチップの袋を見せてくれました。

気圧の差を、体感しました。

 

そこから下山し、帰路につきました。

帰りも新幹線に乗り。

大阪駅から、地元の駅へ。

大阪駅に着いた頃から、体調が悪化し、喉が痛くてたまらなくて。

先生に、新幹線以外の電車では「お菓子禁止!」と言われていましたが、こっそり飴を食べていました。

何とか学校までたどり着き。

家に帰りました。

その時点で、めちゃくちゃ頭が痛くて、死にそうでした。

 

体力がない

 

修学旅行から帰った次の日から、風邪で寝込む羽目に…。

しかも、休日だったので、急患センターに行くことになってしまいました。

結局、風邪をこじらせ、気管支炎で一週間学校を休み。

あの時は、咳で窒息死するかと思った…。

大分、体力的に無理があったようです(苦笑)

 

今でも、旅行は体力を使い果たします。

どんなに元気なときに旅行しても、確実に体調を崩します。

行きたいところはたくさんあるのに、体調を崩すことを思うと、出かけられません。


高校受験

 

それ以後は、もう受験に向けてまっしぐら。

このころ、祖父が認知症で手におえない状態になっていて。

家の中は、めちゃくちゃになっていました。

私も、精神的にかなり追いつめられていました。

 

そんな中、私は無事中学校を卒業し。

そして、高校の入試を受け。

無事合格しました。

T高校一本だったので、合格発表はかなり緊張しました。

後々、母が「あの時の家の状態で、よく高校合格したなって思うよ」と言ってました。

 

仲の良かった子たちとは、高校が別になり。

他にも数名、同じ高校に進学しましたが、私は友達がいない状態で、高校へ進学することになりました。


中学卒業

 

こうして、私の中学生活は終わりました。

中学1年のときは苦しかったけど、最終的にはまぁまぁ楽しい中学生活でした。

中学生・部活

部活での経験

 

中学校に入って、私はクラブ活動に参加しました。

帰宅部も許される学校でしたが、友達が入部した家庭科部に、私も入部しました。

物を作ることは得意だったし、一週間に一回の部活だったので、苦にはなりませんでした。

 

吹奏楽部に入部

 

友達とけんかしたこともあり、私はその部をやめました。

そして、新しく友達になった子が入っていた、吹奏楽部に入部しました。

これが、私の人生のターニングポイントにもなりました。

 

2年生からの途中入部は、普通なら結構厳しいものがありますが。

私はもともとピアノを習っていて、楽譜が読めました。

そして、一番仲のいい友達が、パーカッション(打楽器)だったので、私がパーカッションを希望したこともあり。

すんなり、部活になじみました。

パーカッションは、ある程度はすぐ演奏できます。

※決して、簡単なわけではありません。楽器の中では一番難しいと言われています。

 でも、叩けば音が鳴る、ということで、音を出すだけならすぐできます。

 

最初は、1年生の入部者と一緒に、小物楽器と、鍵盤楽器から入りました。

私は、鍵盤楽器が得意でした。

ピアノと同じですから、叩き方さえコツをつかめば、あとは練習あるのみです。

そして、一つ上の先輩が引退する頃には、ドラムセットや、スネアドラム、ティンパニー等も習得しました。

もともとリズム感が良い私には、打楽器が合っていました。

 

はじめての本番

 

入部して初めての舞台は、学校の体育館でした。

カナダからの交換留学生の歓迎行事での演奏で。

マイケル・ジャクソンの「ヒール・ザ・ワールド」を演奏しました。

この時は、マイケルの曲だなんて知らなかった(笑)

でも、曲は好きでした。

担当したのは、グロッケン(鉄琴)でした。

 

次々に訪れる本番

 

その次が、「社会を明るくする運動」のパレードでした。

マーチング用の楽器を使い、歩きながら演奏しました。

この時も、グロッケンでした。

これから後も、私はグロッケンが一番相性の良い楽器となります。

 

吹奏楽コンクールに出場

 

コンクールにも出場しました。

そのため、夏休みも毎日練習に行きました。

2年生では、サン・サーンスの、「動物の謝肉祭」で出場。

私は、ティンパニを担当しました。

結果は、銀賞でした。

吹奏楽コンクールでは、金賞が3つあります。そのうち2つが県代表。もう一つはタダの金賞で、通称「ダメ金」。銀賞・銅賞もいくつかあり、必ずどれかの賞になります。)

 

はじめての大舞台。

凄く緊張しましたが、私は舞台の魔物に魅了されました。

これは、舞台に立ったことがある人にしか分からない魅力です。

一度舞台に立つと、もうやめられませんね(笑)

 

定期演奏会

 

次は、定期演奏会

いろんな曲を演奏しました。

ピアノも、弾きました。

 

アンサンブルコンテスト

 

冬には、アンサンブルコンテストに出場。

金管5重奏とか、クラリネット7重奏とか、小さなグループで演奏するコンテストです。

私たちは、打楽器4重奏で、「For Four(フォー フォー・四つの楽器のために)」を演奏しました。

打楽器4重奏は、すごく楽しかった!

 

卒業式

 

そして、卒業式。

吹奏楽部は、入退場時に毎年演奏します。

その時、キロロの「未来へ」で、私は初めてドラムを担当しました。

一度に沢山のことをこなすのが苦手なのに、なぜかドラムは演奏できました。

両手両足、すべてばらばらの動きをしているのに。

逆に、両手両足が協調運動をすることが苦手だったから、簡単に別々の動きができたのかも…。


引き続き、吹奏楽部に

 

そして、私は3年生になっても、吹奏楽部に所属しました。

入学式でも演奏し。

 

コンクールにも出場。

バッカスの行列」で、ティンパニを担当しました。

もう、舞台慣れしていました。

そして、この年は金賞を取りました!

ダメ金でしたが、しばらく金賞を取れていなかったので、快挙でした。

 

そして、次は定期演奏会です。

ここで、3年生は引退します。

演奏が終わって、最後に後輩たちから花束をもらい。

外で記念撮影をしました。

 

こうして、部活に明け暮れる生活は、終わりました。


吹奏楽部に入ってよかった

 

私は、吹奏楽部に入って、クラスを超えた友達ができました。

同じ目標に向かって、努力する仲間が、できました。

吹奏楽部は、文化部に分類されますが、基本運動部です(笑)

そして、みんなで協力して演奏するイメージからか、協調性が求められると思われがちですが。

結構、個人主義です。

個人の演奏がきちんとできていなければ、合奏なんてできないからです。

そして、実力主義です。

実力がないと、先輩でも蹴落とされます。

まぁ、中学生の間は、先輩のほうが上手いのが普通ですから、あまりそういうことはありませんが。

 

普段は個人個人勝手にやってる。

でも、合奏のときは力を合わせる。

だから、協調性の少ない私にも、向いていたのかもしれません。

打楽器は、基本ソロですし(笑)



吹奏楽生活は、大学まで続きます。

絵の新作「くじらのとけい」完成!

絵の新作「くじらのとけい」が完成しました!

 

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時計は、ちゃんと「九時」です(笑)

 

↓線画

 

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↓完成

 

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周りがちょっと寂しい気もしますが、何も描かない方がいいかなと判断して、白いまま置いています。

 

つぎはまた、白黒細密画を描く予定です!

中学1年生

ついに中学生に

 

小学校を卒業して、私は中学生になりました。

中学校は、近隣の3つの小学校から、生徒が集まっていました。

その中でも、私が通っていた小学校が一番人数が多く、知ってる子はそれなりにいました。

が、一番仲の良かった子は、クラスが違いました。

 

クラスは1~4組まであり、1・2組が1階、3・4組が2階にありました。

私は1組、仲の良かった子は3組だったので、あまり会うことはありませんでした。

 

上級生が荒れていた

 

学校は、1年生4クラス、2年生4クラス、3年生5クラスでした。

2年生が、荒れていました。

 

私たちの学校は、校舎と校舎の間に、歩行者専用の公道が通っています。

学校の敷地が2分されているのです。

そのため、1年生だけが隔離された校舎でした。

 

ある日の授業中。

その公道に面した窓ガラスに、突然小さな穴が開いてヒビがはいりました。

窓を開けてみると、向かいの校舎の正面玄関に、授業をボイコットしている2年生がいました。

その子たちが、石を投げていたのです。

誰も怪我はしませんでした。

石を投げた先輩たちは、先生に怒られていました。

 

またあるときは、2階の教室(2年生のうち1クラスだけが2階にあった)の窓から、教卓が投げ落とされる事件もありました。

他にも、トイレでトイレットペーパーが燃やされ、警察と消防が来たこともありました。

ボヤで済みましたが、いたずらで済まされることではありません。

 

2年生が一番悪かったですが、3年生も結構柄が悪かったです。

 

そんな学校の中で、私たち1年生はおとなしく賢く、優秀な生徒でした。

先生たちからも、期待されていました。

私たちが3年生になった時は、学校はかなり状況が改善されていました。


いろんな子がいた

 

私が入ったクラスには、小学校で不登校になり、校区外通学をしている子がいました。

私の席の斜め前だったので、一番最初に仲良くなりました。

その子は、安定剤を飲みながら、学校に来ていました。

しかし、1か月くらい経つと、もう学校に来なくなりました。

その後聞いた噂では、地元の不良グループに入っていたようです。

この子も、何かしら生きづらい思いをしていたのでしょう。

 

私の真後ろの席の子は、県内トップクラスの成績の子でした。

名前が少し変わっていました。

頭がいいだけあって、中身も少し変わっていました(笑)

その子とは、中学3年生まで、結構仲が良かったです。

この子はその後、県内トップの高校に進学しましたが、その学校で1位の成績が取れなかったため中退した、という噂を聞きました。

 

勉強についていくのが少し厳しかった

 

学校の授業は、少し難しくなりました。

それでも、何とかついていきました。

英語も、苦手ながら赤点ギリギリですり抜けていました。

問題は、数学でした。

 

私は、因数分解連立方程式を、ただ解くだけならできました。

でも、文章題が解けませんでした。

図形の分野も得意で、そのテストのときだけは80点を取りました。

でも、それが応用問題になると、途端にできなくなりました。

1年生の間は、それでも赤点ギリギリで、何とか持ちこたえていました。

 

塾にも通わず、自宅学習だけで切り抜けていました。


部活

 

部活にも、所属しました。

1年生では、小学校からの友達が家庭科部に入ったので、私も一緒に入りました。

週一回だけの部活だったので、かなりのんびり活動していました。


遠足

 

中学生は、1年に1回、遠足がありました。

1年生の時は、2年生と一緒に、海で地引網体験をしました。

すでに仕掛けられている網を、全員で綱引きのように綱を引っ張り、海の底をさらって魚などの獲物を捕らえます。

網には、アジなどのさかなが、いろいろ入っていました。

なるべく平等になるようにわけて、ビニール袋に入れ、みんなで持って帰りました。

中には、タコを持って帰った子もいました。

結構楽しい遠足でした。


じっとしていられない子

 

クラスには、授業中にじっとしていられない男の子がいました。

私の家の近所の子で、悪ガキとして有名でした。

その子は、中学に入ってから、勉強にもついていけていませんでした。

そして、授業中もがさがさしたり、立ち歩いたりしていました。

先生にも、何度も「席に座りなさい」と言われていました。

この子は、中学校を卒業すると、不良になっていました。

この子も、発達障害だったのではないかと、思っています。


好きだった先生が…

 

1年生の3学期。

技術の先生が、肺癌か何かで亡くなりました。

私は、この先生がとても好きでした。

技術の授業自体が、好きだったこともあり。

この先生の授業は、とても分かりやすいものでした。

そして、上に書いた男の子も、この先生の授業ではおとなしくしていましたし、たとえ立ち歩いていても、先生が上手に対応していました。

とても素敵な先生でした。

亡くなったことは、とても残念でした。

小学6年生

6年生になった

 

私は、転校した学校で、6年生になりました。

この学校は人数が少なく、各学年2クラスしかありませんでした。

 

あまり良いクラスではなかった

 

クラスでは、一人の女の子が仲間外れにされていました。

その理由が、しばらくして私にもわかりました。

多分、その子も発達障害だったのだと思います。

お勉強も全体的にできていなかったので、知的にもギリギリだったのではないか、と。

(あくまで私の勝手な推測です)

 

元中学校教師で、小学校の高学年を受け持っていた先生は、あまりうまくクラスをまとめられていなかったように思います。

少なくとも、前の学校ではこのような先生はいませんでした。

県をまたいでの転校で、新しい県では日教組が強いらしく。

大阪の先生たちとは、雰囲気が全く違いました。

 

人間関係に困り始めた

 

5年生の3学期から転入して、仲の良い友達が2人できました。

1人は、発育がよく、体形ももうお姉さんでした(こちらをSちゃんとします)。

もう一人は、私と同じくらいで、少しだけわがままなところがありました(こちらはMちゃんとします)。

その二人は、もともと仲良しでした。

 

6年生になったある日。

二人と帰っていたところ。

Mちゃんが突然、Sちゃんに聞きました。

「Sちゃん、○○ちゃん(わたしのこと)と私と、どっちの方が好きなん?」

Sちゃんは、ちょっと困りながら、「どっちかっていうと、○○ちゃん(わたしのこと)」と言いました。

それを聞いたMちゃんは、怒って一人で走って帰ってしまいました。

私は、なぜMちゃんが怒ったのか、分かりませんでした。

そして、Sちゃんとはそこから道が別れるので、バイバイして帰りました。

 

家に帰った私は、母にそのことを話しました。

「なんでMちゃん怒ったん?」と、私は母に聞きました。

「先にMちゃんとSちゃんが友達やったからやん。」と母は言いました。

私は、全く意味が分かりませんでした。

「なんで?」を何度か繰り返しましたが、理解できなかったのでもう聞くのはやめました。

 

今は、その理由がちゃんとわかります。

元々、仲良しだった二人の間に、私が割って入ってしまったからなんですよね。

そして、Sちゃんが、後から来た私を選んだから、Mちゃんは「自分のほうが先に友達だったのに!」って、怒ったんですよね。

 

でも、当時の私には、それが分かりませんでした。

友達だった時間の長さなんて、関係ないと思っていました。

私には、「今」しか見えていませんでした。

他人の立場や、過去まで、見ることはできませんでした。

自分のことでさえ、「今」しか見えていなかったんですから。

私の中の時間軸には、「過去」と「未来」はまだなかったんです。

 

それでも、Mちゃんは次の日には謝ってくれました。


修学旅行

 

6年生では、修学旅行にも行きました。

行先は、奈良・京都でした。

バスで、清水寺や、平等院東大寺など、有名どころへ行きました。

泊まったのは、京都市役所の向かいにある、本能寺会館というホテルでした。

その時はもう、歴史に興味を持っていましたから、「信長が死んだ場所」ということも分かっていました。

だから、本能寺会館で信長の幽霊が出ないか、少し期待していました(笑)

 

後々、私は京都に住むことになり、このあたりもよくうろうろすることになります。

 

そして、ごちゃごちゃした学校生活ながらも、なんとか無事6年生を終了し。

大雨の中、卒業式も、終えました。

 

コンプレックス

 

当時、プリクラが流行りだしたころだったこともあり。

写真写りの悪い私は、自分の顔にコンプレックスを抱いていました。

 

卒業式で、後輩たちへのメッセージを読んだり、歌ったりするときは後ろを向きます。

そうすると、私は名前の順で後ろの方だったので、最後列に座っていますから、後輩たちと顔を見合わせることになります。

その時に、顔を上げられませんでした。

いまなら、「誰もそこまで見てないって」と思うんですが。

当時は、すごく嫌でした。

 

うまく笑顔を作れない

 

それからも、写真写りが悪いことは続き。

最近です、どうすればきれいに撮ってもらえるのか分かったのは。

原因は、「うまく笑顔を作れない」ことだったのです。

鏡を見て、ずいぶん練習しました。

証明写真機は、自分の表情が自分で見えるので、綺麗に撮れることもわかりました。

要は、自分の目で確かめないと、顔の表情も作れなかったということでした。

普段は気にせずに笑ったりもしますが、写真だけは今でも苦手です…。



小学校を卒業した私は、思春期まっただ中な中学生活を迎えることになります。

絵の新作「サンピラー」完成!

絵の新作が完成しました!

「サンピラー(太陽柱)」です。

 

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なぜかすごく時間がかかりました(;^_^A

 

【サンピラー(英語:sun pillar)】

太陽柱(たいようちゅう)。大気光学現象の一種であり、日出または日没時に地平線に対して垂直方向へ、太陽から炎のような形の光芒が見られる現象を言う。

 

すごくきれいな現象です。

検索すると、いろんな画像がヒットします。

とても不思議で、美しい光景です。

その美しさを表現しきれなかったのが残念。

 

さて、次は何にしようかなー。

小学5年生

5年生になった

 

小学校5年生になりました。

私は、5年3組でした。

また、クラス替えがありました。

先生も、変わりました。

「はるまき」というあだ名の、男の先生でした。

 

他の子と何か違う?

 

クラスの子たちは、もう体もどんどん大きくなってきている子も多く。

私は、クラス一のチビでした。

周りの子たちは、中身もどんどん大人になっていました。

同じクラスの子と遊んだりもしましたが、どうしても私が遊んでもらっている感がありました。

私の精神的な成長が、遅れていたんだと思います。

 

私を含め、3人の女子が、2人の男子を追い掛け回して遊んでて、男子を泣かせてしまったこともあったなぁ(笑)

 

授業中に見た爆発事故

 

夏のある日。

授業中に、臨海工業地帯で爆発事故がありました。

授業中に突然、「ドーン!」とういう雷のような音が鳴り。

晴れているのに、雷だとは思えないし、何だ?と教室中がざわざわしました。

先生は最初、静かに!と言っていましたが。

教室の窓から外を見ると、真っ黒い煙が遠くの方で上がっていました。

その後、もう一度爆発音が。

さすがに、異変に気付いた先生が、教室のテレビをつけました。

その時は、テロップでニュースが流れただけでした。

その次の授業は、プールだったので、その後のことは何もわかりませんでした。

私たちは、普通にプールの授業を受けました。

後々家でニュースを見て、工場で爆発事故があったことを知りました。

 

林間学校

 

5年生では、林間学校に行きました。

夏休みに入ってすぐだったとおもいます。

奈良の瀞峡(どろきょう)へ、2泊3日で旅行です。

みんなでバスに乗っていきました。

大きな吊り橋を渡ったり。

ニジマスのつかみ取りをして、それを焼いてもらって食べたりしました。

 

肝試し

 

夜には、男女ペアになって、二人ずつ歩き、肝試しをしました。

このペアを作るの、男子を座らせて、女子に「好きな子を選べ」という方式でした。

何とも大胆だよな、先生方(苦笑)

私は恥ずかしくて最後のほうまで残ってましたが、結局気に入っていた男子のうちの1人とペアになることができました(*^-^*)

 

肝試しの道中には、先生が潜んでいて。

こどもが通ると、首つり人形をライトで照らして脅かしたり、大声を出して怖がらせたりしていました。

真っ暗な、山の中の夜道です。

それだけでスリルがありました。

前の子たちが恐怖でのろのろ進んだり。

私たちがあわてて走って通り抜けたりしたので、結局3グループ6人でゴールへ。

怖かったけど、結構楽しかった!

そして、暗い山の中、蛍が沢山飛んでいました。

幻想的ですごくきれいだった。

ゴールでは、男子が蛍を捕まえて。

手のひらにのせて、光るところを見せてくれました。

 

忘れもの

 

最終日は、川遊びでした。

そのために、みんな着替えも持ってきていました。

制服を脱いで、Tシャツで川へ飛び込みました。

私も、飛び込みました。

そして、帰りに着替えようとしたところ。

パンツは忘れず持ってきていたのに、タンクトップを忘れていて。

服を入れているカバンは、もうバスのトランクで。

仕方なく、制服のブラウスを一枚で着て帰りました。

帰りのバスの中で、寒かった!

 

バスが脱輪

 

帰りは、到着時刻が少し遅れました。

バスが山の中の細い道を通った時。

私たち3組が乗ったバスが、脱輪したからです。

道路脇、山側の側溝に、タイヤを落としました。

谷側でなくてよかった、とおもいます。

そのバスを引き上げるのに、時間がかかりました。

 

4クラスだったので、バスは4台。

3組だった私たちのバスは、前から3台目。

後で、父親が言っていたのですが、バスが連なるときは、一番前と一番後ろにベテランの運転手を配置し、中間に経験の浅い人を入れるそうです。

そのため、私たちの乗ったバスが、脱輪したのかもしれません。

一番のスリルでした(笑)

 

帰還

 

学校に着いて、全員が並んで集会をしているとき。

3・4年生でクラスが一緒だった子の家が、火事になったという報告が来ました。

その子は、先生に「すぐ帰れ」と言われ、集会を抜けていきました。

 

不調が出始めていた

 

林間学校の間、頭が痛くなったり、お腹が痛くなったり、夕方になると体調を崩しまくってましたが。

結構楽しんで帰ってきました。

思えば、このころから、出かけると体調を崩すことが多くなってたなぁ。

 

引っ越しという転機

 

そして、5年生の12月、私は和歌山へ引っ越すことになりました。

和歌山の祖父母の家を建て替えたからです。

 

1月から、私は新しい学校に通いました。

そこは、今までの学校と、全然雰囲気が違いました。

男女は別々に遊ぶし。

私がターゲットだったわけではないですが、軽いいじめのようなこともありました。

 

後で聞いたところ、私が一番好きだった男子も、5年生の3月に東京へ転校していったとのこと。

結構、ショックだったなぁ(笑)

 

歴史のワークショップ

 

5年生になった夏から半年間、私は弥生文化博物館の縄文時代弥生時代の生活を体験するワークショップに参加していました。

毎月1回、いろんな体験をしました。

稲を植え。

石包丁を作り。

その石包丁で稲を収穫し。

臼と杵を使って脱穀し。

もち米だったので、餅を作って食べ。

最後は、縄文土器を作り、みんなで焼き上げ。

中には割れてしまった人もいたけれど、私のはきれいに焼きあがりました!

今でも、我が家の納戸にあります。

 

実は、ここに、当時私が一番好きだった男子が、いたんです。

 

この時の体験が、最終的に私を歴史の道に誘いました。

そのお話は、大学時代の項目で語られると思います。